霊峰、秘匿すべきこと


 高い峰々のそそり立つ国境地帯にの中でもとりわけ険しいグレジオ山には、アシュフィールド国最古の教会群が建てられている。


 数千年前にはるか東方の地で発祥した宗教がそれぞれの土地に合わせて形を変えながらゆっくりと大陸中に広まり、ここまでたどり着き根付いた。


 当初は戒律の厳しい修行の寺院だった聖グレジオ教会は教徒が増えるにつれ山自体が聖なる場となり、麓から頂にかけて分院を含め多くの関連施設が建設されていく。


 しかしこの霊峰周辺の天候はきびしく豊かな実りは望めない。

長い年月のうちに暮らしと価値観、さらにはグレジオ山を擁する国すら変わっていき、神を信ずる人々すら山を下り、平穏無事な国の中心に大聖堂を建てて最高位の指導者たちを置くようなった。


 そして現在。


 聖グレジオ教会は多くの施設を維持することが出来ずに風化させ、世捨て人の集う山、もしくは王都で罪を犯した者どもを受け入れる監獄になり果てた。

 それでもなお、百人を超える聖教会所属の僧侶たちがこの山に籍を置くが、在所はさまざまだ。


 道を外した者を更生させることに生きがいを持つ者。

 ただひたすら祈りの日々を過ごし神との対話と奉仕に励む者。

 神聖力の研鑽に励み、研究を行う者。

 そして古きこの聖なる山を護る者。


 彼らの志はただ一つ。


 この世にあるすべては畏れ、敬うべきもの。





「お待ちしておりました」


 一部は崩れ落ち廃墟にしか見えない建物の中心に幾重にも描かれた青い光の魔方陣が一気に広がる中、年老いた僧侶が深々と頭を下げた。


「ソルタン殿。若輩の私などに礼は不要です。どうか顔をお上げください」


 魔道による光が消え、不揃いに意思が敷き詰められた床をうっすらと老人の持ち込んだカンテラが照らす。


 その石畳に上質な皮で作られた黒いブーツが固い音を立てた。


 鍛え上げた長身の身体からは獅子の王のような品格が漂う。

 背中までまっすぐに伸びた豊かな金髪を無造作に一つに束ね、彫りの深い男らしい顔には歳を重ねた者ならではの思慮に満ちた眼差しが宿っていた。


 男の名はエイドリアン・ヘイヴァース。

 公女エステルの父親である。


「私どもの力不足でエステル様を危険にさらし、お詫び申し上げます」


「いえ。聖教会のみなさまのご尽力のおかげでこうしてすぐに駆け付けることが出来ました。いくら感謝してもし足りません」


 男は頭を下げ続ける老師の骨ばった肩を大きな手でゆっくりと包み込む。


「娘は生きている。それだけで、私は十分です」


「ヘイヴァース公爵……」


 そこへ、新たな気配が加わった。


「エイドリアン、よく来たな。奥方たちは大丈夫か」


 柔らかなローズクォーツの髪をなびかせ現れた甘い顔立ちの男の姿に二人は安堵のため息をつく。


「クライヴ…。知らせてくれてありがとう。領内の護りを再度固めた。大丈夫だ」


 クライヴが統治するハドウィック辺境伯領とエイドリアンの住まうヘイヴァース公爵領は王都を挟んで対極に位置しており、この二人が家族ぐるみの付き合いであることはほとんど知られていない。

 その仲介役がグレジオ教会の古老たちであることも。


「とりあえず早くここから出よう。王家に嗅ぎつけられては面倒だ」


 ここは王家にも秘密の転移場で、もちろん聖教会の人間にも知られていない。

 秘匿すべき事柄がいくつもりあるからだ。

 現在の王家はアシュフィールド国創設の理念からずいぶんとかけ離れてしまった。


「承知しました」


 ソルタンがカンテラを持つ手を高くかざし、ふっと息を吐くと青白い光の円陣が再び三人を包む。

 目もくらむような閃光を放った後、一気に消滅した。

 ふわりと柔らかな風と枯草が石畳の上を通り過ぎて。

 朽ちかけた寺院の中は再び静寂の中に沈んだ。




「ついて来てください」


 簡素な回廊に降り立つと、ソルタンは頭を垂れたまま先を急ぐ。

 いくつにも道が分かれている迷宮のような僧院を、老僧はカンテラの僅かな灯りのみでまるで泳いでいる魚のごとく静かに進んだ。


「お待たせしました、こちらです」


 やがてたどり着いた先にあるのは漆喰で塗り固められた壁。

 それに向かってソルタンがカンテラを翳すと細い線で描かれた緻密な呪陣が壁一面に現れる。

 全ての線が金色に変わった瞬間、壁は消え失せ、新たな回廊がその先に見えた。


「この奥になります」


 ソルタンに続いて二人が足を踏み入れると背後の壁がまた閉じられる。

 構わず歩を進めるうちに一つの部屋の前でソルタンは足を止めた。

 軽く数度厚い木の扉を叩き、「ソルタンです。ヘイヴァース公爵及びハドウィック伯爵をお連れしました」と声をかけると中から応えが聞こえてくる。


「どうぞ」


 ソルタンが扉を開けると、壁も天井も一切が真っ白な部屋の中央にぽつんと寝台が置かれ、そのへりに白銀の髪を束ねた男が座っていた。

 彼の足元には大きな白い犬が腹ばいになって目をつぶっている。


 まるで男と犬が寝台に眠る者を護っているように見えた。

 否。

 彼らは命の恩人であり、守護者だ。


「エイドリアン。お前の娘はもう心配ない。命は繋がれた」


 金の右目とサファイアの左目を細め、薄い唇をゆるりと持ち上げ、ウーゴ・ノエ・ヴァンサンは軽く頭を傾けた。


「さすがはヘイヴァースの星だ。いかなる闇に虐げられようとも何一つ損なわれることなく、ますます輝いている」


 ウーゴと犬はゆっくりと立ち上がり、静かに寝台から離れる。


 そこには白い寝具に埋もれるように眠る少女の姿があった。

 長い闇色の髪が枕に散っている。


「エスター……!」


 エイドリアンは娘に駆け寄り、床に膝をついた。


 震える両手の指先を伸ばし、彼女の頬を包み込む。


 暖かい。

 ぬくもりがあった。


 柔らかな弾力に喉がひくりと鳴る。


「ああ……。ああ……っ」


 呻きながら、碧の瞳からぱたぱたと涙を落とした。


 父は確かめるように我が子の髪を、頭を肩に触れる。


 深く眠るエステルが目を開くことはない。

 しかし、ゆっくりと規則的に行われている呼吸に苦痛の色は全く見られず、彼女の無事を示している。



「感謝します……。この子を、生かしてくれた……。生きて、生きてくれてありがとう……」


 エイドリアン・ヘイヴァースの低い声は白い部屋の中に溶けていった。



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