死神の心臓

supi

序 『解錠』

 吹きすさぶ風に、透き通るような白い髪を手で撫で付けながら、一人の男が感銘を受けたように呟いた。


「…………凄いな、これ。まさに『異世界』って感じだ」

「何が?」

「いや、全部。ほら、あんな高い建物があんなに密集して……あんなの、【光の国リヒタルーチェ】でも無かったよ」


 それどこの国だよ、と男の横で少年は内心でぼやく。

 20代半ばくらいの白髪の若い男と、ランドセルに頬杖を付く小学生の少年が、河川敷の隅の人目に付かないその場所で座り込み、川の向こう、ビルがまばらに立ち並ぶ、ごく普通の現代日本の街並みを仰いでいる。

 白髪の男はまるで、知らない世界にでも来たような困惑と驚き、そして感動をその光彩の薄い目に浮かべており、対照的に少年の方は、何の興味も感動も持たない冷めた目をしていた。

 白髪とは言っても、老衰や病のそれではなく、またその色味の薄い目も、生まれつきのものにしか思えない。黒髪黒目、普通の日本男児である少年と並ぶと、その外見の差異が際立つ。

 そんな、年齢も外見も違う二人の共通点は、乱れた髪に汚れた服、傷の付いた肌といった、ボロボロの状態の体だけだった。


「それ」

「ん?」


 少年が、男の足下を指差す。少年が手を伸ばすと、男は慌ててそれを遠ざけるように動かし、困ったように少年の方を見た。


「これは子どもが扱うには危ないって」

「やっぱり。武器……ってか、剣か何かの刃物でしょ、それ」


 少年がそう指摘すると、男は「ぐ」と呻き声を漏らし、数センチだけ柄を抜くと、その綺麗な刃を見せる。かく言う少年も、こうも明らかに日本の銃刀法に引っかかっていそうな刃物を見るのは初めてだが、特に表情も変えずに問いを重ねた。


「それをあいつらに使えば、僕らがここまでボコボコにされる必要も無かったんじゃ?」

「使えばって……そりゃ襲われたのは俺だけどさ。流石に殺すまではできないよ。」

「……そういうもんか」


 少年の、その年齢不相応な淡泊で冷徹な反応に、男は思わず聞いてしまう。


「……君は、人を、こう……手にかけたことが?」

「殺したことどころか、暴力を振るったこともないよ。ないけど、命が危険な状況で相手のことを気遣うなんて、僕には多分出来ないだろうなって思っただけ」

「…………」


 斬って終わるなら斬れば良かったのに、と、常人とやや外れた倫理観を語る少年の表情は、凪のように平静だ。

 同時に、男は気が付いてしまった。数十分前、男が暴漢たちに襲われている場面で少年が助けに入り、男が少年に感謝を伝えた瞬間さえも、少年は一度も笑顔を浮かべていない。笑顔どころか、子どもに不相応な、冷めた視線を宿すだけだ。

 それでも、僅かに震える足で、自分よりも遙かに大きな男達の前に立った少年に、人並みの善性も、人間性も欠けているとはとても思えなくて。

 俯き、自分の指――少年が守ってくれたその黒い指輪を見つめる男の青目に、複雑な感情が過った。悲嘆、感傷、思索――郷愁。

 そして、最後に決意を瞳に浮かべ、男は少年と真っ向から向き合った。


「その、信じてもらえないかもしれないけど……実はさ、俺、違う世界からこの世界に逃げてきたんだ。多分だけど」

「……はあ」


 少年の声に困惑が乗る。それも仕方ない。男が逆の立場だったなら、全く同じ反応を返しただろうから。


「だから、この世界のことは何も知らない。僕の元いた世界と何が違うのかもわからない」


 でもあの時、男を助けるために臆せず飛び込んできた少年の姿を見て、この世界もきっと美しく素晴らしいものなのだ、と思えたから。

 言葉を続け、少年に向けて黒い指輪をはめた手を伸ばす。


「だから、俺と友達になってほしい。この世界のことを教えてほしいんだ」

「…………」


 少年の無機質な表情に、初めて強い驚愕が浮かんだ。瞠目し、差し出された男の手をじっと見つめている。

 ―――そして、


「あなたの、名前は?」

「スティ。元の世界じゃ結構有名だったんだけど」

「スティ、か。残念ながら聞き覚えはないけど……。漢字は?」

「……カンジって?」

「――は、違う世界。面白いじゃん」

「じゃあ、君の名前は?」

「……ツグ。星野ツグ


 少年――ツグが、スティの手を握り返す。

 異世界からの探訪者と、感情の乾いた少年。その二人の友誼を祝福するように、あるいは呪うように、黒い指輪が夕日に当たって昏く煌めいた。


******


「ありがとござましたー」


 気の抜けたコンビニ店員の声を背に、ツグは袋を手首にかけてドアをくぐる。

 7年の月日が流れ。ツグは18歳の高校生に、日本に身分も戸籍も持たないスティは、短期の仕事を転々とするフリーターになっていた。それでも二人の交流はあの日から途絶えること無く続いており、夜になると何となしに河川敷に集まり、言葉を交わす仲になっていた。

 用事を終え、近所の本屋で見繕った本を買い込むと、ツグはそのままいつもの河川敷へと向かう。今日は事前にツグが、予定があるから行けないかも、と伝えていたので、来ない可能性も高いが……。

 頻度は多くないが、スティは時折、自分のいた世界の話をしてくれる。実在したという神様、人間社会に浸透している魔法、魔族を統べる黒い龍――。それは、この世界の住民であるツグの常識を飛び越えたものばかりで、ツグの密かな楽しみにもなっていた。

 確か、昨日は向こうの世界で起こっていた『戦争』の話をしていたか。ツグが雑談として太平洋戦争について語った返しに、スティが話題に出したものだったが、スティ本人が終戦の立役者だったような口ぶりだったので、ツグとしてもその話に興味は尽きない。

 とは言っても、その話をするスティの表情は沈み、声にも悲壮感が滲んでいたので、無理に聞き出すことまでするつもりはないが。

 ――それにしても、昨日のスティは様子が変だったな。

 戦争の話とは関係なく、スティの表情が終始張り詰めているようだったので、何か憂いでもあるのでは、と心配になる。一応コンビニに寄って、この前スティに好評だった肉まんを買っておいた。

 ツグ自身は自覚に乏しいが、感情の不足していた少年はこの7年で、随分と人間らしさを表出していた。それがスティに影響されたものか、あるいは実際に生来からあったものだったのかは、誰にもわからないが。


「今日来るかな……お」


 夕日も沈みかかった、薄暗い道をゆったりと歩いて行く。坂を半分ほど下った所で、見慣れた人影が川の水に靴を濡らしているのを見て、ツグは頬を綻ばせた。


「――――今更、そんなことを言うのか」

「…………ん?」


 真剣な顔でなにやらぶつぶつと喋っているスティの背から、何か言いようもない嫌な予感を感じ、歩み寄る足を止めた。よく見ると、彼は黒い指輪を水面に翳すように手を伸ばしている。その腰には、久しく見ていなかったあの剣が据えられていた。

「今日やらないと手遅れになる。そう言ったのは君だ。言うのが遅かったくせに、今更別れの挨拶はしなくていいのか、なんて随分と勝手なものだな。……いや、これは八つ当たりか」

 微妙に距離が開いているため、会話の内容まではツグにあまり聞こえないが、スティが苛立っているのはなんとなく伝わってきた。少なくとも、ツグの前ではほとんど出してこなかった負の感情を、スティは目の前の指輪に向けて吐き出し続けている。


「本当に良いのか、だなんて、良いわけないだろ。でも、『戻れる』チャンスは今しか無いんだろう? ツグは今日来れないかもと言っていたし、それに……僕はこの世界と彼を、存外に気に入ってしまった。気持ちが揺らいで、誓いを捨ててしまうのを、夢に見てしまうほどには」


 ツグの名前が聞こえた。別れ、だなんて物騒な単語も聞こえた。芽生えた嫌な予感が募り、募り、募り――募り続けて、


「解錠。今、助けに行くよ」

「――――待って」


 ツグが荷物を放って駆け出すのと、川の水面が緑色の光を放ち、スティを飲み込むのが同時だった。コンビニの袋から、まだ僅かに熱を持つ肉まんが飛び出すが、ツグは歯牙にもかけない。


「何だこれ……スティ!」


 怯んだのは一瞬で、ツグはそのまま光の中へと突入する。もはや自分の足下すら見えない環境で、彼は必死に手を伸ばし、足を動かした。走った距離から考えると、とっくに川に突っ込んで沈んでいるはずだが、地を蹴る感覚に変化はない。まるで、世界の狭間にでも飲まれてしまったようだった。

 まあ今は、そんなことどうでもいい。


「掴、んだ!」

「……ツグ?」


 ようやく感触を捉えた。認識と同時に、目の前で人型に色が付き、見慣れた白髪の男の姿が現れる。彼は、困惑と驚愕に彩られた表情で数秒、ツグを見つめ――かぶりを降って、ツグに背を向けた。


「すまない」

「何が」

「君にしっかりと、事情を話す時間を取れなかったことを」

「今聞かせてみろよ。僕を、是非とも納得させてみてくれ」

「っ……、生憎と、そんな時間は無いんだ。この世界の神様がいるとしたら、そいつ、随分と自分勝手らしい。チャンスは、今しかないんだ」

「だから、何の」

「俺は、あいつを……ウィレイズを救いに行く。そのために、この異世界に逃げ込んできた」


 その第三者の名前に、ツグの息が一瞬詰まる。スティが会話の中で、何度も出していた名だった。――――スティが結婚を誓ったという女性、ウィレイズ。


「……なら、僕も一緒に」

「本当にすまない。もう、時間なんだ」


 最後のスティの声は、震えていた。同時にツグとスティの正面で、謎の紋様が展開する。正九角形のそれは中心でぱっくりと裂けて――それがスティの世界への門だと、ツグは直感した。

 一歩、スティに追従するように歩を進めたツグに、スティが背を向けたままぽつりと言い放つ。


「君には、この門をくぐれない。資格が無いんだ。何が起こるかわからないから、じっとしていた方がいいよ」


 一瞬、チカッと彼の心臓の所が火花を散らし、しかし何事も無かったかのようにスティは歩を進めた。あれが、きっと彼の言う『資格』なのだろう。黒い指輪を握りしめ、スティはゆっくりと門に入っていく。

 今のスティの言葉が真実を語っているのは、長年の付き合いを経てなんとなく確信できた。身を裂かれるか、魂を抜かれるか、いずれにせよ、あの門をツグがくぐったら恐らく――、


「……それが、どうした」


 そんな言葉が口を衝いて出て、ツグは再び駆け出した。

 そうだ。それがどうした。ツグにはこの世界に未練など無い。あるとすれば――、


「それが、どうした!」


 門に向かって吶喊する。もう体のほとんどが門に飲まれた親友スティへと手を伸ばす。

 ――門に触れる寸前、バチィッ!、と。

 閃光と共に電流のような衝撃がツグの心臓を穿ち抜いた。視界が死に、一瞬、全身が弾かれたように痙攣した。それでも飢えた獣のように腕を振り回し続け、ついにツグは何かを掴む。しかし、手に取ったそれはあまりにも小さい。スティには、手は届かなかったのだろう。

 そのまま門の目前で倒れこんだ頃には、ツグの意識はもう既に半分消えかかっていた。スティがそこにまだいるのか、それすらもわからない。


(……あー、これ、死んだ気がする)


 そしてその残された意識も、ほとんどが諦観に向かっていた、その時。


『いやはや、無茶するもんだ。だから別れの挨拶はちゃんとしとけっていったのに、あの愚か者は……』


 何か、聞こえた。


(本当に、それ。まあ事前に話されたところで、一緒に行こうとしてたけど)

『君、結構献身的だもんね。自己犠牲の、って枕詞が付く醜悪なものだけどさ』

(人間的に歪んでて悪いな。文句なら、僕を取り巻いてた世界様に言ってくれ)


 ほら、何やら幻聴まで聞こえてきたじゃないか。


『スティを助けに行く方法、一個だけあるけど聞く? 少年』


 その幻聴は、事もあろうかそんなことを聞いてきた。帰り道にコンビニ寄る? くらいの気軽さで、飄々と。随分と都合の良い夢だなと内心で自嘲しながらも、ツグは幻聴との会話をやめない。


(聞く聞く。何でもかかってこい)

『多分、めちゃめちゃ後悔するし、めちゃめちゃ苦しむし、もう戻れなくなるよ? 今の君にも、この世界にも。この行き来は特例中の特例、奇跡だ』

(人生最大の後悔なら今してるし、人生最大の苦痛も今味わってるよ。僕がどうにかなって問題が解決するなら、それでもいい)

『昔から視てたけど、相変わらず随分と自己犠牲的だね。それは、なぜ?』


 一瞬、ツグは考える。そして、考えたままを吐き出した。


(……なんというか、死ぬのは怖いよ。怖いけど、いつかは結局死ぬだろ。長生きは尊いものかもしれないけど、生きるために生きるとか、馬鹿らしいって思うんだ)

『…………』

(生憎、僕は家族に囲まれて安らかに逝く、なんて将来を期待できるほど人間が出来ていなくてさ。先行き見えない自分の『未来』なんて不安定なものに賭けて、そのために生きてくとか、怖くてたまらない)

『…………』

(命なんて消耗品だよ。後生大事に抱えてくより、誰かを救える時に使っちゃった方が、ずっと満足できるだろ)


 紛れもない、本心だった。ズレている自覚はあるが、そう自覚していたからこそスティにも話したことのなかった人生観。


『……いいだろう。そう考える君にこの力は酷かもしれないけど……オレは賭ける』


 声の主は、そんなツグの言葉を真剣に受け止めたようだ。そこに宿ったのが肯定か否定かはわからないが、覚悟はとりあえず伝わった様子。

 ただ、それはそれとして――、


(やばい、そろそろ消える)


 意識か命か、それとも存在そのものか――とにかく、そのあたりの維持が限界に近づいていた。


『オレの心臓を、埋め込む。世界単位で拒絶されてる不良品だけど……ま、呼吸と鼓動はできるから贅沢言わないでくれよ?』


 その言葉も、耳から反対の耳へと抜けていくようだった。ただ、手を貸してくれるのはなんとなく理解したので、ツグは最期に、これだけはと言葉を紡ぐ。


「…………ありがとう」

『……本当に愚者スティは、大した友人を持ったね。ああ、聞こえてるかわからないけど、一個だけ忠告。――死ぬなよ、少年。君のためじゃない。君が死んでも守りたいと願う全てのために、さ』


 同時に、ツグの意識が途絶する。彼の握られた手のひらの中では、彼が文字通り死に物狂いでスティからもぎ取った、黒い指輪がある。

 指輪の宝石が壊れ、漆黒の靄がツグの胸へと流れ込んだ。門に穿ち抜かれ、空いた心の穴を埋めるように。


『――【死神】の心臓、検知』


 どこからともなく聞こえたそれは、状況を確認するためだけの、機械的な音声。それに呼応するように緑光が奔り、九角形の門が再展開する。


「解錠。今だけ代わりに歩くから、あとは頑張れよ?」


 意識を失ったはずのツグの口から、飄々とした口調で言葉が発される。彼は立ち上がり、門に足をかけた。あの拒絶の雷撃は、もう彼を襲わなかった。

 

 ――今この瞬間、星野ツグは、異世界へと転移した。

 



 

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