腹巻養生日記
一宮けい
『』とは何か
パソコンのパチパチする感覚、久しぶりだ。
実は2022年の11月にコロナになったのだった。コロナ自体は2週間ぐらいで治ったが、問題はそこからだった。
急に湧き上がる気持ち悪さに襲われて、動けなくなることが多くなった。不思議なことに朝平気なのに電車で乗っている間に気持ち悪くなり、会社に着くころには動けなくなっているというような状態なのだ。
今の職場が片道1時間45分かかるので、往復で3時間30分かかる。長い…。どうやら自分の傾向は動いた後に発症することが多かった。
12月には1週間療養を称して休まされた。
「焦らなくてもいいから、ゆっくり治しなさい」
コロナ後遺症外来でお医者さんにそう言われた。
自分が困っているのはそこじゃないんだよなあ、と。
確かに症状自体は厄介である。しかし、自分の中ではそれなりに受け入れていることなので、まあいい。症状は仕方のない事として割り切っている。問題はそこではなく、この症状を証明できないことだ。
三半規管の検査も、健康診断の検査も、血液検査も数値的に全く問題ではない。なので、今まで4つの病院を訪ねたが、すべて診断書は書けないという結果だった。医者は数値がないことは書けない。しかし診断書がなければ欠勤期間の療養手当の申請もできない。
その上この病状が上手く上に伝わってないこともある。
どうやら動くと症状が悪化することは解っているので、なるべくテレワークにしてほしいと伝えたものの、上は「症状が出るなら休め、でも症状がないのなら出社しろ」の一点張りでこの議論は膠着状態に陥った。動かないかぎり症状は出ないので、もうこうなればどうすることもできないので、出社しては気持ち悪くなって早退を繰り返すことに…。遂には上に一宮鬱説や一宮妊娠説を暗に疑われる事態になった。
そんなかんじでへろへろな年末を終えた。
冬休みの間は極力動かずじっとしていたが、そろそろ何か書きたいなあと思い始めた。エッセイでいいから、何か書きたい。
しかしタイトルが思いつかない。そんな時ふと思い出したことがある。
前に高井浩章著『おカネの教室』を読んだ。お金や経済の本質的な仕組みについて書かれた本で、ユーモアたっぷり。子どもも読めるような本だが、アラサーも楽しめた。この本の『「おカネの教室」ができるまで:兼業作家デビュー奮闘記』を読んだ。これはタイトル通り『おカネの教室』ができるまでの過程が書かれた本だった。下世話な話だが、自分もあわよくば少しでもいいから文章をお金に変えたいと思っていたので、この本を読んでいたのである。
その中で、作者の高井氏が商業出版するにあたって『おカネの教室』というタイトルを変更するかどうか決めあぐねている間に、高校の現代国語の授業での教師シュンサクのこんな言葉が思い浮かんだという。
————小説のタイトルは『問い』であり、本文はそれに対する答えだ。
シュンサクの回顧録講義は続く。
————ここに『罪と罰』という本がある。これに『とは何か』を付け加える。『罪と罰とは何か』。本文からこの問いに対する答えを読み取る。これが文学を読むことだ。
十代の耳はダンボの耳である。教師や周りの大人がぽろっと口に出したことが振り返ってみると、彼らの重大な人生観の根につながることもあるぐらいだ。だから、高井氏の記憶にもこの言葉が鮮明に焼き付いていたのにちがいない。
わたしはこれを聞いてから、作品のタイトルを見る時には『』とは何か、を考えて見るようになった。
美しいタイトルというのは大事だ。
住野よるの『君の膵臓を食べたい』はわたし自身読んだことはない。ただすごくすごく印象深い。ともすればカニバリズムのような狂気に満ちたタイトルなのに、なぜか惹かれる。とってもすごい問い。
川上未映子の『りぼんにお願い』は川上未映子のエッセイなのだが、わたしはタイトルでジャケ買いした。かわいい。少女漫画のような淡い色のタイトル。
岩井志麻子の『ぼっけえ、きょうてえ』。意味わからん。が、すでになんとなく怖い。これは岡山地方の方言で「とても、怖い」という意味だそうだ。どう、惹かれるでしょ?
タイトル何がいいか、まだ決めあぐねているけれど、いちおう前へ進め。これは重たい体を養生しながらぬくぬく書くエッセイです。
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