夜蛍村殺人事件ーーー聞き耳頭巾の少女と「くりのきからすな」

ナビヒカル

プロローグ

1 くりのきからすな

くりのきからすな

くりのきからすな

おおいしこいし

みずのたまった

はりのあなをば

とおりゃんせ

やまあらしは

たくみのゆめ

せんのとがあきゃ

おざぶをあてよ



 山奥の隠れ里。

 老人ばかりが目立つ集落。

 移り住んだ少女に、歌い継がれた遊び歌を教えてくれる子供はもう誰もいなかった。





 アマガハラノは今朝見たときとは印象を全く異にしていた。

 すがすがしい朝の光の中、隈取のある細い葉を風になびかせていた笹原には、すでに山の影が落ち、徐々に彩度のない世界に入っていこうとしていた。

 どことなく不気味で、しんと静まりかえる山中。動くものはなく、鳥の姿さえない。


 アマガハラノの入口で立ち止まった者達。

 クマザサの葉はさらりとも動かない。踏み込まれることを拒むかのように。



 男が叫ぶ。

 声が震えている。

 朝、あれだけ呼びかけてみたのだ。いまさら声が返ってこようとは誰も期待していない。


「さ、行ってみましょう。もう一度、栗の木のところへ」

 教授に促され、生駒たちは歩き出した。

「行き着けないかも知れないけど」


 時折、男がうめき声をあげる以外、誰もが黙り込んでいる。

 半日ほどもたって、人がこんなところにひとりでいるはずもない。

 むなしい行為……。

 空気の冷たさがそんな思いを募らせた。



 生駒は振り返って笹原の中からでも見えそうな大きな木を探した。

 万一、笹原の中で迷ってしまっては困る。目印になるような木。

 背丈を優に超えるクマザサの大群落。一度迷い込めば右も左もわからなくなる。


 そして列の最後を歩きながら、別のことを考えた。

 改めて、栗の木の伝説のことを。




 しかし今、空想に耽っているときではない。

 思い直し、振り返って目印の木が見えていることを確かめた。


 男と村人が踏み分け道の両側の笹を掻き分け始めた。

 これだけクマザサの密生した中をしらみ潰しに調べるというのは、気の遠くなる作業だ。

 しかも陽はすでに西に傾き、光は笹の中まで届いていない。無数の薄暗い小さな空間を闇雲に覗いていくようなもの。


 しかし生駒も優も、そして教授もそれぞれの持分が決められたかのように笹を掻き分け始めた。

 そうしながら徐々に笹原の奥へ分け入っていった。




 かなり長い時間そうしていたように思う。


「道が狭くなってると思わない?」

 優がつぶやいた。


 誰も返事をしなかったが、朝、笹を刈り倒し、かき分けて作った道が狭まっている。生駒も感づいていた。

 もしや。

 このアマガハラノの結界は活きているのではないか。

 そう思い始めたとき、ついに教授が小さく声を上げた。


「あ!」

「ここ!」


 笹は脛の辺りで刈られているのだが、それがまとまって根元から折れている。何度も踏みつけられたかのように。

 そのこと自体はおかしなことではないが、倒れている方向が踏み分け道に平行ではない。


「誰か、ここで転んだかしら」


 教授が努めて冷静に言ったが、その声が消えないうちに、男が笹の屏風に猛然と頭ごと突っ込んだ。

 頬にすっと血が流れたが、かまってはいない。


「あっ!」


 誰もが最悪の事態を覚悟した。


「これは!」


 笹が両側に押し倒されている。

 上からでは一面の笹原のように見えるだろう。しかし笹の茎は明らかに折り曲げられ、人、あるいは大きな獣が通った跡のように一筋の狭いトンネルができていた。



 男が飛び込んでいく。

 村人が後に続く。生駒も。



 男の悲痛な叫び声がこだました。

 再び響く声。

 もう、悲鳴だった。



 青年は、クマザサの密生する藪の中に、細い獣道のような空洞の突き当たりに、冷たくなって転がっていた。

 なにものかから身を守るかのように、体を丸めた格好で。

 背中から流された血は赤いTシャツに沁みこんで、すでに黒く乾いていた。



 またひとつ、悲鳴がこだました。

 優が顔色を変えていた。


「道が消える!」

 笹原がじわりと動いたかのように、今通ってきたばかりの道が笹に覆われようとしていた。

「まずい!」


 このままでは山奥の笹原の中に取り残されてしまう。夜が迫っている。

 青年にすがりつこうとする男を引きずるようにして、五人は原っぱの入口に向かって駆け出していた。





 恐ろしいことが起きていた。

 あの事件からちょうど一年後、狂気がひとつ、あるいはふたつ、村を覆う大気を震わせていた。


 屋敷の大広間の襖は開け放たれ、人々が押し黙って座り込んでいた。高熱を発して寝込んでしまった者もいる。

 てんでバラバラバラに座った人々は、白々とした蛍光灯の元で、警察からのなんらかの連絡を待っていた。

 部屋の隅の座卓には折り詰め弁当が積まれていたが、まだ誰も手をつけていない。


 重苦しい空気の中、生駒には昨夜からの出来事を反芻することしかできなかった。


 蛍が……。

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