冬は僕らに優しかった
千哉 祐司
第1話
築四十五年の古びたコーポ冬風の二階の角部屋が僕のねぐらだ。
ベランダへ出て煙草に火をつける。
さび付いて今にも倒れそうな柵に体を預けてすぼめた口から細い紫煙を吐く、吐き出された煙が冬の風に攫われて消えてくのをゆっくりと眺めるのが好きだった。
「やあ」
煙草が半分ほど燃えたころにふと隣の住人の女性に声を掛けられた。
冬の寒波が到来してもこの古いアパートにはプライバシーなんてハレンチな外来語はまだ到来していなかった。
「こんばんは」
「今日もつまらなそうな顔してるね」
「椿さんこそ今日も飲んでるんですか?」
「酒は世知辛い人生の必需品だよ」
グラスに入った酒を勢いよく呷る。
半袖のシャツから伸びる艶美な手にゆっくりと朱をさす。
何故だか直視できずに視線をずらしてまた煙を吸って吐く。
僕たちは一年ほど前からこうやってベランダでお互いにタバコと酒を呷りながら話すのが日課になっていた。
「今日も寒そうな格好ですね」
「分かってないなー、酒で火照った体にこの寒さが心地いいんだよ」
そう言って椿さんは氷の入ったグラスをカラカラと鳴らした。
「体壊しますよ」
「君の煙草よりマシだよ」
「手厳しいですね」
僕の言葉を聞いてまたカラカラッと嬉しそうにグラスを回した。
そんな時に大きく冬の風が吹きつけた。
大きく吹いた風が煙草の煙をさらって椿さんの奥の干しているシャツまで届けた。
「あーあ、洗濯物にタバコの臭いついちゃうじゃん」
「あっ、ごめん」
「いいよ、それに臭いついたらこの服着たら君の事思い出すからね」
「何ですか、それ…」
椿さんからまた顔をそらして煙草を吸った。
僕の赤くなってしまった顔を見られるのが恥ずかしかった。
「ねえ、今度ライブ見に来てよ」
「ライブですか?」
「そう、私がやってるバンドが出るの」
「へー、チケットいくらなんですか?」
「なんと今なら二千五百円だよ」
「タバコ四箱分ですか」
「えー、なんかその例え方嫌なんだけど」
出せないわけではないがその日暮らしのフリーターには少々厳しい金額だった。
「予定があえば行きます」
「それ来ないやつじゃん」
「分かりました、次絶対行きます」
「本当?絶対だよ」
「はい!絶対行きます」
「やったー」
そう言って無邪気に笑ってまたグラスを回した。
僕は冬が好きだった。澄んだ空気と夜風が少しだけ息をしやすくするから。
「なあ、お前正社員になる気はないか?」
バイトが終わり帰り支度をしている僕を店長が呼び止めてそう聞いた。
「正社員ですか?」
「ああ、お前も長いことやってるだろ」
「まあ、はい」
長いと言っても週四五でバイトに出ているだけだった。
「それにお前が真面目な奴だってことも知ってるしな」
「店長…」
「それでどうする、なるか?正社員」
「はい」
二つ返事で了承して店長が用意していた書類にサインをした。
いつもの帰り道の汚いどぶ川も今日は少しだけ綺麗に見えた。
部屋に帰ってすぐにベランダに出て煙草に火をつけた。
二口も吸わない間に椿さんがいつもの格好で手にグラスを持ってベランダに出てきた。
「どうしたの?今日はなんだか嬉しそうだね」
「分かりますか?」
「うん、いつもはでっかいビルに煙吐いてるのに今日は空に向かって吐いてるからね」
「何ですか、それ」
「まあまあ、そんなことより何があったの?」
話をはぐらかす椿さんに今日の出来事を伝えた。
「よかったじゃん!」
「はい」
椿さんは自分のことの様に喜んでくれた。
「真面目にやってるといい事が起こるもんだね君も私も」
そう言って椿さんはグラスを掲げた。
「椿さんもいい事があったんですか?」
「なんとこないだのライブ大成功だったよ」
「そうなんですか?」
「勿体ないなー、君は伝説バンドの始まりを見逃したんだよ」
「マジか、行けばよかったな」
「そんな君にいいものあげる」
そう言って椿さんは一枚のチケットを手渡してきた。
「いいんですか?」
「いいよ」
椿さんは照れ隠しをするようにお酒を飲んだ。
「お金払います」
「いいよ、その代わり絶対見に来てね」
「絶対行きます!」
その言葉を聞いた椿さんはいつもより楽しそうにグラスを回した。
僕は冬が好きだった。冷たい空からたまに差す日差しに人の温もりを感じられるから。
「おい、聞いてんのかって言ってんだよ」
「申し訳ございません」
椿さんのライブ当日僕は一人の常連客の怒鳴られていた。
理由はなんてことない事だったが虫の居所が悪かったのかいつもの優しさは鳴りを潜めてこの常連客は怒りが収まらないようだった。
結局店長が出てくるほどの騒動となって客は怒りを収めて帰って行った。
「君さ、もうちょっと要領よくできないわけ?」
「すみません」
「はー、もういいよ。今日残って在庫整理してもらってもいい?」
「今日ですか?」
ライブの時間は仕事が終わったあとすぐだった。
「何?何か用事でもあるの?」
「はい、今日はちょっと…」
「は?迷惑かけといて仕事もしない気なの?」
「分かりました、やります」
「うん、じゃあよろしく」
店長は言うだけ言ってすぐにバックヤードにある自室に戻っていった。
僕は急いで仕事を片付けた、それでも一時間以上もかかってしまった。
結局僕がライブの会場についたのは始まってから二時間も経ったころだった。
案の定彼女のバンドの出番は終わっておりトリのバンドが最後の歌を歌っていた。
僕が消沈して帰ると椿さんはすでにベランダに出ていた。
いつもの半袖半ズボンとは違い今日は季節感を備えた服を着ていた。
「椿さ」
「なんで今日来なかったの?」
椿さんは僕の言葉に覆い被さる形で口を開いた。
「行ったんですけど…」
「嘘、私探したけどいなかったじゃん」
「行ったけど残業で間に合わなかったんです」
「あーはいはい、正社員さまはさぞかし忙しいでしょうね」
「次は、次こそは絶対に行きます」
「そう言って今日来なかったよね」
僕は何も言えなくなっていた。僕はいつの間にか彼女の事を強く傷づけてしまっていたのだ。
「もういいよ」
「え?」
「私春でバンド辞めることにしたから」
「な、なんで?」
「今日で分かったんだ、どうせ誰も私の歌なんか興味ないって」
「そんなこと無いですよ!」
「聞いたことも無いくせに何が分かるの」
そう言って椿さんは自分の部屋に帰って行った。
僕は冬の夜風に吹き曝されたまま立ち尽くした。
僕は冬が嫌いだ、誰から構わず吹き付ける寒さが人の優しさまでも殺すから。
一か月ほど経ったがあの日から僕がベランダに出ても椿さんが出てくることは無かった。
結局僕たちはベランダで少しだけ話す隣人さんくらいの関係だったのだ。
今日も僕はひとりで煙草を吸っていた。一人で吸う煙草はなぜか味気なかった。
そしていつものように冬の夜風が煙を攫っていった。ただ隣の部屋のベランダにはもう臭いが付くのを気にする洗濯物は無かった。
僕たちの関係は過ぎ行く季節と同じ一過性のものでしかなかったのだ。
僕は今回も仕方が無かったと諦めるのだろう、そう思って吸った煙はまだ味気なかった。そこで僕はやっと気づいた。僕は彼女が鳴らすグラスの音が無いともう満足に煙草を吸うこともできないのだ。
僕はいつの間にか煙草を吸うためじゃなく彼女と話すためにベランダに出ていたのだ。
そのことに気づいた僕はすぐに彼女のバンドの事を調べると幸いなことに今週末にもう一度ライブがあることを知った。
ライブ当日、僕は三千円払って会場の中へと入った。
椿さん達の前のグループは人気があるようで熱気に包まれていた会場も椿さん達が出るや否や露骨に温度を冷ました。
それでも彼女はそんなこと気にしないかのように歌い始めた。
彼女が歌い始めた瞬間に僕は引き込まれた。
あのベランダで安酒を飲んでいる姿からは想像できないほど彼女は格好良かった。ありていに言って僕は彼女のそんな姿に感動した。
他の観客がスマホを覗き込んでいるのを他所に僕は会場の隅っこで彼女に視線を注ぎこんでいた。
時間にして三十分ほどのライブで僕は彼女の虜になっていた。椿さん達が裾にはけた後も僕は余韻に浸っていた。
ライブが終わり帰宅してすぐにベランダに出て煙草を吸った。
一本吸い終わるとすぐにもう一本に火を付ける、そうして吸っては付けを何度も繰り返しながら僕は待った。
大体二時間ほど経ち灰皿に山ができ始めたころに隣の窓が開く音がした。
「いつまでそうしてるの、風邪ひくよ」
「椿さんが出てくるまでいくらでも待つつもりでした」
「じゃあ、もういいでしょ。部屋戻りなよ」
そう言って部屋に戻ろうとする椿さんを僕は引き止めた。
「今日ライブ見に行きました」
「それで笑いに来たの?」
「違います、感動したって伝えたかったんです」
「なに?適当にお世辞でも言ってるの」
僕の言葉など椿さんに届かないようで自嘲気味にそう返された。
焦った僕は何を思ったのかポケットから煙草の箱を取り出し椿さんの方に突き出した。
「僕ヘビースモーカーなんです」
「は?」
「一日二箱くらい吸うんです」
「何言ってんの?」
困惑気味の椿さんを無視して僕は喋り続けた。
「一日我慢したら千三百円溜まります、二日で二千六百円溜まるんですよ」
「だから、何言って…」
椿さんはそこでやっと僕が言いたいことに気が付いた。
「もし椿さんがまたライブやるなら絶対に行きます。だから…」
「なに、それ…」
椿さんは泣きそうな声で笑った。それにつられて僕まで泣きそうになった。
「チケットいっぱい余ってるなら僕がその分禁煙します。だから椿さんは好きな事辞めないでください」
「その言葉信じてもいいの?」
「はい」
「チケット余ったら本当に買ってもらうからね…」
「その分頑張って禁煙します」
「そこまで言われたら続けるしかないじゃん…」
椿さんはとうとうこらえきれずに泣き出してしまった。僕の目からもいつの間にか涙が出ていた。
大の大人が二人してみっともなく泣いた。
この古びたアパートは冬風に揺られて落ちた涙をシミの一つとして僕たちを受け入れた。
「ねえ、一緒にお酒飲もうよ」
「いいですね、乾杯しますか」
二人が落ち着いたころに目を赤く腫らした椿さんが優しくジェスチャーをしながら誘ってきた。
「あー、でも私今日お酒切らしてるわ」
「冷蔵庫に何本かあるんで取ってきますよ」
「いいよ、私がそっちいくから」
そう言った椿さんはベランダの柵を飛び越えて煙草の煙が当たる距離までやってきた。
そうして僕たちはお互いに安酒を持って乾杯した。
いつも美味しくないと思いながら飲む酒も椿さんと飲むと何故だか美味しく感じた。
僕は最後の一本の煙草に手をかける。
「これで吸い納めですね」
「いいよ、辞めなくて」
「え?」
「ライブそんなに一杯あるわけじゃないしね」
「そうなんですか、てっきり二週間に一回くらいあると思ってました」
「それに煙草吸ってる君の横顔見るの結構好きなんだ」
椿さんはそう言って安酒の入った缶を回した、回した缶が僕の缶にあたって小さく音を立てた。
僕はいつものように椿さんから顔をそらして煙草を吸った。
お酒で火照った体を冬の夜風が撫でた。それがなんだか心地よかった。
僕たちは今でもベランダで話をしている。ただ変わったのは僕たちを隔てていた仕切りが無くなったことくらいだ。
僕たちは冬が好きだ、なんたって辛く苦しい冬が明けたら春が来るから。
冬は僕らに優しかった 千哉 祐司 @senya_yuji
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます