闇への供物 Ⅱ
Ⅱ
パソコンの予備バッテリーだけでなく、大容量のモバイルバッテリーをフル充電するのに思ったより時間がかかり、拓也が
バックパックに入れた大型バッテリーは、父親が僻地のフィールドワークを行う際に
当然、拓也の今日のバックパックは、異様なほど重かった。
日盛りの体感温度も半端ではなく、昨日以上におびただしい汗が流れる。
それでも、ペットボトルのスポーツドリンクを補給しながら小公園を歩む拓也の足取りは、昨日の朝より遙かに軽かった。
あれからまだ二十数時間しか経過していないのに、よくぞここまで自分の内的世界が変貌したものだと、超高層ビルを見上げながら思わず失笑する。
しかし真夏の炎天や湿気同様、外の世界は、さほど変わったわけではない。自分と他の何人かの立ち位置が激変しただけで、あの正体不明の縦穴も、異形の者たちが
昨夜、兵藤記者が入手した初期設計図のデータは、タワーシティー開発決定後、検討用に作製された、いわば叩き台だった。各階のレイアウト等、現状とは異なる部分も多い。ただ、叩き台の中でも比較的後期のデータらしく、各所のエレベーター配置には、ほとんど変更がなかった。ほとんどと言うのは、兵藤記者が先に入手した警備用の各階見取図と比較して、唯一余分なエレベーターが記載されていたからである。
そのエレベーターは、全階を貫く業務用エレベーターと同型で、あの教育長室の奥にある縦穴と、位置的にぴったり重なっていた。しかし警備用の各階見取図では、いずれも『長周期地震動軽減用構造物』、そんな名義の密閉空間となっている。そしてその最上部は、屋上の設備室の一角、第四貯水槽室の床下に位置している。佐伯康成が指示してきた場所も、確かにそこだった。
それらの事実が判明した時、拓也は昨日、
――本来なら、これは警備員や設備管理者用のエレベーターなんだ。だから全階もれなく繋がってる。ただし表から入れない階で降りても、通路前に厳重な扉があって、専用のカードキーとパスワードがなければ通れない――。
現在、業務用エレベーターの一つが、同じ用途に使われている。しかし、商業階の従業員用エレベーターや荷物運搬用エレベーターと隣接しているので、セキュリティー上、けして妥当な配置ではない。本来、部外者が絶対に立ち入らない場所になければおかしい。
あの謎の縦穴は、本来、佐伯康成が述べた用途に使われるべきエレベーターのシャフトだったのではないか――それが昨夜、温泉旅館の峰館勢と、ホテルの兵藤記者と、自宅の哀川親子が談合した上での推測だった。
しかし、そのための空間を何者かがあえて密閉し、隠蔽した理由は判然としない。佐伯康成の死体を隠すだけなら、最深部だけ塞げば済む。十八階の教育長室に、扉を残す必要もない。
まだ多くの謎が残されている。
今後の夏期講習のスケジュールなど、すでに拓也は頭から捨てていた。父親にもそう伝え、了承を得ている。父親の
拓也もまた、今回の怪事に収拾がつくまでは、あの地底のマヨヒガに関わり続けようと腹を据えていた。夏休み中に終わらなくても、終わるまで関わり続けるしかない。拓也にとって重要なのは、自分が志望する将来像のみならず、そこに至るまでのルートの社会的な公明性である。そのためなら、年単位の時間的ロスも問題ではない。そもそも今回の怪事が起こらなかったとしても、時間的ロスは有りうるのだ。東大入試、国家公務員試験、場合によっては司法試験もそれに加わる。一年や二年の浪人は想定内だ。
拓也は、昨日とは別人のように確かな足取りで歩を進めた。
今日は正面玄関ではなく、ビルの横手、マンション階専用のエントランスに向かう。
地下駐車場へのスロープに近い木陰に、一台のミニバンが停まっていた。
ミニバンの横扉が開き、小柄な老人が声をかけてきた。
「やあ、拓也君、今日は」
この老人が山室民次、奥に座っているのが山室美津江――。
昨日出会った御子神家の二人よりも、さらに神秘的で奥深い佇まいである。
畏敬の念を覚えながら、拓也は
「初めまして。わざわざ御苦労様です」
「ちょっと乗ってくれたまえ。車の中で話をしよう。妻の体が弱くて、近頃の都市熱には耐えられないものでね」
二人が座っている座席と、あらかじめ対面させてあった前の座席に、拓也は腰を落ち着けた。
美津江
「あなたが哀川拓也君――確かにお父様に似てるけど、一筋縄じゃ行かないくらい鍛えてるみたいね、体も中身も」
美津江刀自の赤い瞳と肌の白さに、拓也は常ならぬ違和感を覚えたが、それを顔に出さない程度には、確かに自分を鍛えている。
「よろしくお願いします」
美津江刀自は、拓也の内心など承知の上、そんな微笑を浮かべ、
「こちらこそ、よろしくお願いできそうな子で安心したわ。トビメの目に狂いはないわね」
美津江刀自の白衣の懐から、あの白い小動物が顔を出した。
「きゅん!」
トビメは嬉しそうに一声啼いて、拓也の肩に駆け上がった。
「きゅん、きゅん」
「やあ、昨日はありがとう。君のおかげで助かったよ」
「きゅん!」
ミニバンの中で見る式神は、昨日の神秘的な印象とは違い、冬毛のオコジョそのものだった。野生のオコジョは見かけによらず獰猛な肉食獣で、人には懐かないはずである。うっかり手を出して指先を噛みちぎられかけたと、山好きの教師に聞いた記憶がある。しかしトビメは拓也に気を許しているらしく、その小さな鼻を、しきりに拓也の頬にすりよせてきた。
美津江刀自は目を細め、
「今日のお仕事にも、好きに使ってちょうだい。相手が物でも人でも、歩く死骸でも幽霊でも、けっこうお役に立てるはずよ」
「ありがとうございます」
まだ式神の真価を知らない拓也だが、昨日のトビメの働きを思えば、百人の空手有段者より心強い。
「あと、これを」
民治老人が、革装のキーホルダーを拓也に差し出した。
昨日、椎名
「中にディンプルキーは一本しかない。それが自宅のキーだろう」
「ありがとうございます」
マンション階の各戸のオートロックは、ディンプルキーと暗証番号式電気錠の併用で開く。その内のディンプルキーは、いわゆる逆マスターキーになっており、エントランスのドアや各階のゴミ置き場など、共用部分の扉も解錠できる。佐伯康成のメールによれば、人知れず屋上の設備室に達するためには、いったん安田の自室に入る必要があった。電気錠の暗証番号は、同じメールで教えられている。
民治老人は言った。
「安田課長の職場には、彼自身のスマホから、しばらく病欠すると連絡しておいた。遅ればせの新型コロナで喉をやられた、とね。これで数日は怪しまれない。彼がバツイチでよかったよ」
一介の地方公務員の身で億ションに住まいし、二度目の独身貴族を謳歌できるのは、生家が元々資産家だったかららしい。
「ところで、ここからビルを見上げていて思ったんだがね。いっそ深夜を待って、トビメに屋上まで運んでもらうのはどうだろう。抜け穴は屋上の設備室に隠れているそうだが、トビメなら鉄筋コンクリートの壁くらい簡単に食い破れる」
「それも考えました。でも兵藤さんの話だと、このビルの屋上には監視カメラがあります。避難用のヘリポートをチェックするためでしょう。災害はいつ起きるかわかりませんから」
「ほう、さすがに都庁なみに至れり尽くせりだな」
防犯目的もゼロではないのだろう。ヘリで屋上に乗りつける泥棒はいるまいが、テロリストによるドローン攻撃やヘリコプターを使った集団攻撃など、海外の高層ビルでは多数の事例がある。
「じゃあ、やはり佐伯康成の推薦ルートで、中から行くしかないな」
「はい」
「私たちは、公園前のレストランで待機してる。終わったら寄ってくれたまえ」
「承知しました」
拓也は山室夫妻に頭を下げ、それから肩のトビメに言った。
「悪いけど、君はバックパックに隠れてくれるかい?」
式神は一般人の目には見えないはずだが、拓也や父親にも見える以上、他の誰かに見られないとも限らない。
「きゅん?」
トビメは首を傾げ、肩から動こうとしなかった。
美津江刀自が苦笑して言った。
「その子、かなりボキャブラリーが古いの。なにせ平安時代の生まれだから」
バックパックという平成以降の呼称が、通じなかったらしい。
拓也は心得て、
「
「きゅん!」
リュックサックあたりで通じた可能性もあるが、固有名詞に関しては、明治以前の語彙を意識するのが無難だろう。
「斎実ちゃんよりツーカーみたいね」
美津江刀自は頼もしげに言った。
「これが終わったら、あなたもこちら側の修行をしてみない? お父様と同じ
拓也は
内心、それもある意味、現実的な選択肢の一つだと思う。宗教と国政は縁が深い。現に、豊富な資金と信者数を誇る新興宗教団体が政党を結成し、今も政権の一翼を担っている。
しかし今は、目前の現実離れした選択肢をこなさねばならない。
「――じゃあ、行ってきます」
拓也は、トビメとバッテリー類が収まったバックパックを背に、ミニバンを降りてマンション階専用のエントランスに向かった。
エントランスの自動ドアを抜けると、すぐ横手に窓口があった。
窓口のプレートこそ単なる『受付』だが、実質的には億ション相応の立派な警備員室である。複数の職員が常駐し、不審者の入館を妨げるだけでなく、定期的に全階を巡回している。また、部屋の奥には各階通路の防犯モニターが並んでおり、二十四時間チェックされている。
窓口の職員は、一瞬、拓也に物問いたげな視線を向けたが、拓也は折り目正しく会釈して、そのままエレベーターホールへのドアを解錠した。
これだけの戸数のマンションなら、中高生も少なからず住んでいる。兵藤記者の情報によれば、彼らの過半数が県都の名門私立校に通っている。その中高一貫校は、拓也の通う県立高校と同様に服装規定が厳しい。そんなマンションで、似たような服装の少年が、ごく自然に専用キーを使うのである。案の定、職員はそのまま拓也を見過ごした。
拓也は、いかにも自室に帰宅するように、さりげなくエレベーターのボタンを押した。
安田課長の部屋は四十五階、マンション部の最上階に位置している。
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