北帰行 Ⅳ


     Ⅳ


 予約した旅館は、堂々たる木造三階建ての日本建築だった。正面玄関も手抜きなしの宮造りである。ただ、さほど古い建物ではないらしく、館内の造作は外人客でも馴染めそうな和洋折衷の風合いだった。

 和服姿の若い仲居が、さっそく足元にスリッパを用意して、二人の手荷物を受け取ろうとする。斎実ときみはすなおに預けたが、慎太郎は辞退して、自分で運ぶことにした。安民宿やビジネスホテルにしか縁のない慎太郎としては、それが老舗しにせ日本旅館の流儀だとしても、若い女性に重い荷物を運ばせるのは気が引ける。

 帳場ともフロントともつかぬ受付で、番頭らしい初老の男に予約を確認し、宿帳もその場で記入する。

 記入している間、番頭がどこかに電話を入れると、帳場の奥の暖簾のれんを分けて、仲居よりも年嵩としかさの女性が現れた。年は三十代半ばだろうか。渋いなりに華やかな和服としとやかな裾さばきに、格段の風格がある。

「当館の女将でございます。ようこそいらっしゃいませ、御上みかみ様」

 女将自らの先導で、仲居を従え案内されたのは、三階の最奥の一室だった。

 そこまでの部屋とは、明らかに扉の間隔が違う。つまり格段に広い部屋らしい。

「こちらがご予約いただいた、鳳凰ほうおうの間でございます」

 堂々たる名称にふさわしく、渋い鳳凰の木彫が施された引き戸を開けると、横三畳ほどもある板の間の奥に、やはり鳳凰の日本画が描かれた華麗なふすまがあった。

 女将は板の間にひざまずいて、しとやかに襖を開き、

「どうぞ、おくつろぎください」

 中を覗いて、慎太郎は立ちすくんでしまった。

 黒檀らしい重厚な座卓を中心とする広々とした日本座敷と、やはり広々とした木目のフローリングの洋間が、瀟洒しょうしゃな間仕切りで違和感なく調和している。その間仕切りにも細密な鳳凰の透かし彫りが施されており、それだけで国宝級の美術品のようだ。外に面して開け放たれたガラスの雪見障子しょうじの奥には、小型の日本庭園と呼んでも過言ではないベランダが、山と夜空を背景に広がっている。おそらく眼下には、川を挟んだ温泉街の夜景が望めるのだろう。

「……おお、ゴージャス」

 感嘆する斎実に、

「以前、宮様もお泊まりになったお部屋なんですよ」

 女将が頬笑んで言った。

「外の小庭の横手には、専用の露天風呂もございます。外から見えないように工夫してありますから、よろしかったら、お二人で」

 そうしようそうしよう、と言うように、斎実が慎太郎の腕を引いた。

 慎太郎はあわてて振り払い、女将に訴えた。

「二部屋、別々に頼んだはずなんですが」

「あら、婚約者いいなずけ同士だから仲良く一緒の部屋にと、お祖母様に伺ったんですけれど。もう宿代もいただいておりますし」

 それは本家の陰謀だ――慎太郎は思わず叫びそうになった。しかし旅館の女将に抗議しても仕方がない。

「とにかく、もう一部屋お願いします。そっちは俺が払いますから」

「あい済みません。今夜は他に空いている部屋がなくて」

「寝られればどこでもいいんです。蒲団部屋でも物置でも」

「それでしたら――こちらでお休みになれば」

 女将は、板の間の横手の奥に、慎太郎を導いた。

 洗面所やトイレではなさそうな、そこそこ立派な扉がある。

 これほどの客室になると、専用の蒲団部屋や物置が付属しているのか――。

 感心する慎太郎に、女将が扉を開いて言った。

「お付きの方々がお泊まりになる、別の間でございます」

「お付きの方々?」

「ええ。宮様なら侍従の方々、外国の王族なら召使いの方々、そんなところですわね」

 メインの客室に比べれば四半分もないが、確かに数人くらいは詰められそうな和室で、扉の内鍵もちゃんとある。

 慎太郎は安堵して、

「上等です。俺の蒲団は、こっちにお願いします」

「承知いたしました」

 斎実は、あからさまに「ちっ」と言うような顔をしている。

 若い仲居が訊ねた。

「ご夕食も、それぞれにお運びしますか?」

 すでに夕食と言うより、夜食の時刻である。

 斎実は、はいはいと元気よく手を上げて、

「二人分まとめて、あっちのテーブルにお願いします!」

 差し向かいの晩餐だけは譲れない、そんな意気ごみだった。

 女将は苦笑しながら、それでいいですか、と、目顔で慎太郎に訊ねた。

 慎太郎は妥協してうなずいた。

 斎実が嬉しそうに言い添えた。

「あと、お銚子もお願いします。とりあえず熱燗あつかんで二三本」

「おまえは未成年だろう」

「慎兄ちゃんが飲むでしょ?」

 確かに慎太郎は日本酒を好む。当節の若者には珍しく、夏でも熱燗を欠かさない。しかし今夜は旅の疲れがある。うっかり酔いつぶれでもしたら、斎実に露天風呂へ引きずりこまれかねない。

 躊躇ちゅうちょしている慎太郎に、女将が訊ねた。

「辛口はお好みですか?」

「はい。甘口は苦手で」

「でしたら、本当においしい地酒がありますよ」

 女将は自身満々の顔だった。確かにこのあたりは、東北でも有数の酒所である。

 まだ迷っている慎太郎に、斎実が畳みかけた。

「安心して飲んでいいよ。あたしは召使いにアルハラもセクハラもしないから」

「……どこの女王様だ、おまえは」

 女将と若い仲居は、息の合った漫才でも見るように、くすくす笑っていた。

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