先ほど結婚式をあげたばかりの旦那様が「お前を愛するつもりはない!」と寝室で叫んでいます。たったひとりで。
新 星緒
結婚初夜の寝室で。
「いいな、ニコレッタ! 俺はお前を愛するつもりはない!」
扉の向こうから、つい数時間前に結婚したばかりの旦那様の叫びが聞こえてきた。
「わたくしはここにおりますが、屋敷には他にもニコレッタという名前の女性が?」
と案内役の執事に問いかける。老齢の彼は表情を変えないまま、
「いえ、おりませぬ。寝室には旦那様おひとりのはずです」と答えた。
閉まったままの扉を見る。
わたくしと元勇者ティエリー様との挙式は急なもので、引退後の彼に会うのは今日が初めて。祝福された婚姻ではなく、お互いに嫌がらせを受けたようなものだ。
「旦那様はニコレッタ様に申し訳ないと思っていらっしゃるのです」と執事。
それからおもむろに扉をノックした。
「奥様をお連れしました」
「えっ! もう?」
中からは当惑したような返答があった。
きっとわたくしの到着が早かったのだわ。先ほどの叫びは聞かなかったことにしたほうがいいみたい。
執事が開いた扉をくぐり、旦那様の寝室に入る。背後で閉まる扉。
ほの暗い部屋の奥に寝台があり、その前にガウンを着たティエリー様がいた。
大きな黒い目がじっとわたくしを見ている。他には誰もいない。
「よろしくお願いいたします」
静かにそれだけを伝える。
「……ニ、ニコレッタ!」と旦那様。
「はい」
「お、俺はお前を愛するつもりはないっ!」
はい。それは先ほど廊下で聞きました。
「今夜は王太子の監視がいるから許すが、明日からは俺の寝室に入るな! 夫としての役割を期待するな!」
叫ぶ旦那様を見る。五年前に魔王を倒し、世界を救った勇者ティエリー様。彼はそのときに魔王に呪われて、頭をはじめとした体の一部がトカゲになってしまった。功績を称えるために伯爵位と土地屋敷が授けられたけれど、場所はろくに作物が育たない辺境地だった。トカゲ頭のせいなのか、王は救世主が邪魔なのか。多分、その両方なのだと思う。
「俺は仕事があるから、寝台はお前が使え」とティエリー様。
対してわたくし、ニコレッタはパウジーニ公爵家の長女で王太子コルラドの婚約者だった。けれどコルラドは愛人にうつつを抜かし、わたくしが彼女を虐めたというありもしない事実をでっち上げて婚約を破棄。挙げ句に『お前のような可愛いげのない女に相応しい夫を用意した』と言って、ティエリー様との結婚を勝手に決めた。
今までのティエリー様の様子と執事の言葉からすると、わたくしは嫌われているわけではないと思う。
勇気を奮ってガウンを脱ぎ捨て、夜着のボタンを外す。
「ニ、ニコレッタ嬢! なにをっ!」
ティエリー様が飛び上がり駆けてくる。床のガウンを拾い肩にかけようとするけれど、それより先に夜着が脱げ落ちる。
「ニ、ニコ……!」
ティエリー様は慌ててガウンを掛けて前を見えないように合わせる。優しい人だ。けれど、わたくしより頭ひとつぶん大きい勇者様を睨みあげる。
「わたくしに、王太子に捨てられたうえに勇者様にも拒まれた女となれと言うのですか!」
「いや、そうではなくてですね……」
「魔王が倒され世界が平和になって五年、王は横暴になり過去を忘れたかのような言動を繰り返し、かつて優しき少年だったコルラドは居丈高で鼻持ちならない人間に成り果てました。あんなクズと夫婦になんてなりたくない、どうやって婚約を解消しようと考えていたら、幸運にもあちらから破棄をしてくれたのです!」
「そうだったのですか……」
ティエリー様の口の中で二又の舌がチロリと動くのが見えた。
「ティエリー様は勇者に選ばれる前から、どれほど自分が傷つこうと民を絶対に見捨てない騎士と名高かったお方。たとえ姿が少し変わっていようとも、わたくしは婚姻を楽しみにしておりました」
「ええ……」戸惑いの声。「会ったときの挨拶は社交辞令ではなかったのですか」
「もちろんです。わたくしトカゲの生態についても勉強してきましたわ! 卵を産む覚悟もできております!」
執事の話ではトカゲ部分は頭と手のみということだけど、そんなことは知らなかったからトカゲについてすべて学んだのよ!
「たまご……」
ぽかんと開いた大きな口。中でまた二又の舌がちろちろ動いている。
「……そこまでは考えていなかった」とティエリー様。
「わたくしをお嫌いで近づくなとおっしゃるなら従います。でも唐突に拒絶されて、とても傷ついていますのよ!」
「いや、違う! 優しいあなたは俺を拒めないだろうと思ったから、こう宣言するのがいいと考えたんです。傷つけようとしたわけじゃない、あなたの負担になりたくなかっただけで」
優しいあなた……?
まさか旦那様は、わたくしとは今日が初対面ではないと気づいているのかしら? ご記憶にはないと思っていたのに。
「あの、ティエリー様、もしかして」鼓動が早くなり胸が苦しい。「わたくしのことを覚えていますか?」
「あなたこそ、俺を覚えているのですか?」
ティエリー様の真っ黒で大きな瞳がわたくしを見ている。
「もちろんです。あのときは本当にありがとうございました」
予期しなかった事態に羞恥をこらえ、お礼を言う。
十年近く前のこと。魔物が現れ始めてまだ一年も経っていなかったと思う。王宮でコルラドの誕生日を祝う園遊会が開かれ、そこに空を飛ぶタイプの魔物が何体も現れた。わたくしは両親とはぐれ、逃げ惑う人に突き飛ばされて転び、魔物に食べられそうになった。もうダメと観念したわたくし。そこを助けてくれたのが、まだ衛兵だったティエリー様だった。
ティエリー様はわたくしをかばい左腕を負傷した。けれどその腕でわたくしを抱きかかえ、右手に持った剣で戦ったのだ。
そうしてわたくしは助かった。あとで知ったことだけど、この襲来では十人を超す貴族や使用人が亡くなったらしい。衛兵はもっとたくさん。わたくしは幸運だった。
「当時幼かったとはいえ、困らせてしまってごめんなさい」
わたくしはそれまで人が大怪我をしたり血を流したりするのを見たことがなかった。だからティエリー様のちぎれかけの肉と流れ続ける血に恐慌をきたしてしまった。それだけならまだしも、なんとかくっつけようと怪我を手で押さえ続けたのだ。ティエリー様が困っているのも気づかずに。
結局ティエリー様の、
「この怪我を治す魔法には、笑顔が必要なんです」
との嘘に騙されて怪我から手は離した。その代わりに一生懸命に笑顔を見せた。彼にくっついて歩いて。それはお父様がわたくしを探し出すまで、かなりの時間続いた。
「お怪我、相当に痛かったでしょう? 無駄な時間を費やさせてしまって本当にごめんなさい」
ティエリー様には後日両親が礼をしたけれど、わたくしにその機会はなかった。また彼を困らせると思われたかららしい。
そうして命の恩人に会う機会がないまま、十年が過ぎてしまった。
魔王征伐の旅のさなかに、星の数ほどの民を助けたというティエリー様。わたくしのことなど忘れていると思ったのに。きっと困った子供との印象が強いからだわ。
いずれ仲が深まったら機を見て打ち明けようと思っていたのだけど、まさか覚えているなんて。あのときの子供が妻だなんて、がっかりしているかしら。
ティエリー様を見ていられなくて、視線が下がる。
「謝らないでください」
優しいお声。顔を上げるとトカゲのお顔がわたくしを見ていた。表情はわからないけれど、怒ったり呆れたりはしていなさそう。
「あなたが気にする必要はありません。俺は自分の仕事をしただけです。むしろ、あれほど心配してもらえて嬉しかった」
「本当に?」
「ええ」とティエリー様。「あなたが王太子に冤罪を掛けられたことは知っています。王宮にはまだ俺の友人が少し残っていて、今回の騒動について教えてくれましたから」
勇者様と共に魔王を倒した仲間はみな、理由をつけて地方に住まわされている。きっと衛兵時代のお友達なのだわ。
「あの優しく可愛らしいご令嬢が、こんな俺に嫁がされるなぞ可哀想で」
「わたくし、楽しみにしておりました!」
「……俺も五年で、いや十年で変わったかもしれませんよ?」
「こちらに勤める人たちは、お屋敷と共に賜ったと聞いています」
つまりは勇者様がトカゲ頭になってから雇われた。
「だけれどみんな、ティエリー様を慕っているではありませんか。到着してまだわずかな時間しか経っておりませんが、わかります」
「……寛大な人だけが残ったんです」
「寛大な使用人が慕う主人ならば、旦那様は絶対に素敵な人ですね」
「あなたという人は……」
ティエリー様の目が一瞬白くなる。きっと瞬膜というものね。
「俺の記憶の中ではか弱くて小さなお子様だったのに」
「もう大人です」
「強くて聡明な女性ですね」
トカゲの顔の表情は変わらない。なのにティエリー様がにっこりと笑った気がした。
「ニコレッタ嬢。あなたを抱きしめても?」
「敬語をやめてくださるなら」
「では、あなたも」
そっと抱き寄せられ、それからぎゅっと力を込められた。このようなことを異性にされるのは初めてだし憧れのティエリー様と密着しているし、なんだか良い香りがするしで、鼓動が激しくなりすぎてわたくし、破裂してしまいそう。
「まさかこの姿でも構わないと言ってくださ……言ってもらえるとは思わなかった」
ティエリー様の低い声が耳のすぐそばでする。
「ニコレッタ嬢が、いや、ニコレッタが愛おしい」
っ!
胸のドキドキが!
気が遠くなりそう……
「ああ、でも。やはり人の姿が良かった」
まあ! まだおっしゃるの!
がんばって顔を上げ、ティエリー様を見る。
「今の姿も素敵よ」
「でもキスができない」
キス!
「できるわ!」伸び上がり、ティエリー様の口にちゅとキスをする。「ほら!」
「触れるだけのなら。俺はもっと……」
「触れるだけでないキスがあるの? 習っていないわ」
「……っ!」
ティエリー様がなぜか顔をそらす。と。
「ウワッハハハハハ!! トカゲの生態は学んできたのにキスは分からぬのか!
ティエリー様でももちろんわたくしでもない声。成人した男性のようだけれど、見える限り部屋にはわたくしたちしかいない。ティエリー様もキョロキョロしている。
「誰だ!」と鋭い声で誰何するティエリー様。
「しまった! つい!」
「……この声はティエリー様から聞こえたように思います」
「……奇遇だ。俺も」首をかしげるティエリー様。「なんでだ? 俺の中になにかいるのか?」
「……」
「仕方ない、ニコレッタになにかあってはいけない。久しぶりだが、できるだろう。自分に向けて魔の消滅魔法を使おう」
「待て待て待て、せっかくここまで回復したのに!」
回復、とは?
ティエリー様がため息をついてわたくしから離れた。
「……その声には覚えがある。まさかと思うが貴様、魔王か」
魔王!
「倒したのではなかったのですか?」
肩に掛けられただけのガウンを着直しながら尋ねる。
「勝利はしたが、ヤツの死体はない。姿が消えたんだ。魔物も同時にすべていなくなったから討伐は成功したのだと考えのだが」
「余は不死だ。残念だったな勇者よ。貴様に入り込み、力を奪って回復している最中だ! フハハハハ!」
「やはり消滅魔法を」
「待てい! やめろと言っている! やめないと貴様の恥ずかしい秘密をそこのおなごに暴露するぞ! 五年も共にいたのだからな!」
「うっ! やめてくれ!」
「ならば貴様もくだらぬことを考えるな。余は回復途中。元の力を取り戻すにはまだ二百年はかかる。貴様らには関係ないことだろう?」
「わたくし、ティエリー様の恥ずかしい秘密に興味があるわ。攻撃しましょう」
両手を重ねてティエリー様のお腹の辺りに向け、対魔消滅魔法の呪文を唱え始める。
「やめろと言うとるに―――!!」
魔王(?)の叫び声。それから
ぽん!
と可愛い音がして、空中に小さななにかが現れた。素早くティエリー様の背後に隠れる。
「ニコレッタ、魔物用攻撃魔法が使えるのか? 消滅は最高ランクだぞ?」
「ええ。ティエリー様のお供になりたくて、必死に学んだの。魔法使い認定試験に受かった直後に魔王が討伐されてしまって、無駄になってしまったけれど」
「う、初いやつだが怖い……」
震える魔王(?)の声がする。
「すごいな、ニコレッタ」
ティエリー様に褒められた! 嬉しい! でも――
「ありがとう。だけどティエリー様、人になってるわ」
「え!」
ティエリー様が手で顔を触る。
「鏡をご覧になったら?」
「あ!」とティエリー様は壁際に駆けていく。その先には姿見がある。
「俺の顔だ!」
「余が出たからな」
「ていうか老けてるな……」
「貴様、二十八歳だろう? 知っているぞ、人間では『中年』というのだろう?」
「ま、まだ若い……はず!」
足音を忍ばせ、ティエリー様に近づく。彼の背中に赤い蝙蝠のようなモノがついていて、魔王(?)の声はそこからする。
静かに手を伸ばし――
「んぐぇっ! こらっ! なにをする!」
首の根本を掴んだそれが、ジタバタと暴れる。
「蝙蝠?」
「なんと失敬な! 余はありとあらゆる魔物を統べる王、ドラゴン属のラケルタなるぞ! 頭が高い!」
ドラゴン?
振り返ったティエリー様が自称魔王を覗き込む。
「ん、なんだこのサイズは?」
「だから貴様のせいで魔力を失くして回復中なのだ! 五年かかってようやく体を持てるようになったばかりなのだぞ!」
「そうか、ずいぶん可愛くなったな。手乗りドラゴンか」
それを出されたティエリー様の掌に乗せる。身の丈せいぜいが15センチというところ。ドラゴンというわりには角や牙、爪といった凶悪なものはなく、後ろ足で犬のようにお座りした赤いトカゲに、翼があるだけのように見える。
「ちんまりとして、可愛らしいわ」
「ちんまりと言うな!」
「あなたが中にいたから、ティエリー様はトカゲの頭だったの?」
「トカゲではない! 幼体の余だ!」
「やっぱり殺そう」とティエリー様。
「余は不死だ! 永遠に死なぬし、貴様がなにをしようと貴様に宿ることができる!」
「本当かしら。それなら攻撃をそこまで嫌がらなくてもいいのじゃない?」
「だーかーらー! 阿呆どもめ、言っただろう! 『五年かかってようやく体を持てるようになったばかり』と」
「ふむ。言ったな、確かに。ならば五年ごとに消滅魔法を掛ければ、お前は永遠に実体化できないということだな」
「馬鹿め! 今なら余は貴様から離れられる体があるのだそ? だというのに貴様は余を宿したまま、このおなごとまぐわうことを選ぶのか? すべて見るぞ? 彼女のあられもない姿を!」
ティエリー様がビシィィッと直立不動になった。
「死んでも攻撃しませんっ!」
「よろしい」と偉そうに言う、威厳ゼロの魔王。「約束を守るなら、夜は貴様から抜けてやるからな。人の姿で堪能するがよい」
ティエリー様が魔王になにかを囁く。
「『夜だけとは限らない』?」と魔王。
その口を急いで塞ぐティエリー様。
「そうね。昼の光の中で、ティエリー様のお顔を見たいわ」
「お前は初いのか恐ろしいのか、わからぬおなごだな」
「とても愛らしい」とティエリー様。
「コヤツはなあ」手乗りドラゴンがパタパタとたどたどしく飛んで、ティエリー様の肩に乗った。今度は肩乗りドラゴンだわ。ペットみたい。「お前の件を相当腹に据えかねたらしい。かつての仲間の魔法使いに頼んで――」
「あ、こら、話すな!」
「王太子に呪いを掛けたのだ」と魔王。
「呪い? もし気づかれたら大変ではないかしら?」
「大丈夫」と自信を持って答える魔王。「気づかれない。嫌がらせ程度だからな。よくもあんな低レベルを考えつくものだ」
「まあ、どんな?」
「一日の半分は鼻水が止まらない呪い」と魔王。
「……美貌自慢の王太子には、辛いだろ?」とティエリー様。
コルラドは自他共に認める国一番の美青年。それが常に鼻水を垂らしている……。
ふふっと笑いがこぼれる。
「ええ、いい気味だわ!」
「良かった、笑ってくれて」とティエリー様。
なんとはなしに近くの長椅子に並んですわる。
「王太子に勝手なことをしてすまない」
「いいえ。お礼を言うわ。わたくし、そんなことはまったく思いつかなかったもの」
「中身が幼いのだ」と魔王が混ぜっ返す。「なんだったら余が徹底的に仕返しをしてやるぞ」
「そんな力があるの? 危険だわ」
うなずくティエリー様。
「余にはない。何度も『回復中』と言っているだろうが。情けないことにこの姿をとるだけで精一杯だ」と魔王。
「ならば、どうやって?」とティエリー様。
魔王はぱたぱたと飛んで、ローテーブルの上に乗った。すぐ隣に葡萄の盛り合わせがある。
「ザイードを起こす」と魔王。
「あいつも死んでいないのか!」と驚愕の表情のティエリー様。
「当たり前ではないか」
「まさか姿が消えた奴らは全員……」
「異空間に避難させただけだ。みなあちらで体力回復のために眠っておる。余は浅ましい人間とは違うのだ。部下は大切にする」
ティエリー様がうめき声をあげた。
「……貴様も貴様の仲間も強かった。我らはこの先二百年は人間共を攻撃できぬ」
「勇者様の戦いは無駄ではなかった、と言いたいのかしら?」
「……余はそんなことは言っておらぬ」
幼体ドラゴンはぷいと顔をそらした。
ショックを受けている様子のティエリー様の腕に手をかける。
「ティエリー様とお仲間様が平和をもたらしたことに、変わりはないわ」
「……余が負けたことは事実だ」と魔王。
「魔王に慰められるってどうなんだ」
そう言ったティエリー様は、ほんのり微笑んだ。
「平和をありがとう、ティエリー様」
「ありがとう、ニコレッタ。ついでに魔王も」
「余はついでか!」
魔王が怒ったのか、羽をぱたぱたさせている。可愛いとしか言いようがない。
それからティエリー様がザイードというのは魔王軍の四天王のひとりで、幻術を得意とする魔法使いだと説明をしてくれた。
「あやつもまだ、三割ほどの回復だが」と魔王。「油断しきっている王宮を混乱に陥れることくらいはできるぞ」
「どうしてわたくしのために、そこまでしてくれるの?」
「貴様のためじゃない!」魔王がくわっと口を大きく開く。威嚇かもしれないけど、ただただ可愛い。
「腹が立っているのだ! 余を負かすほどの力がある男にこの仕打ち。人の上に立つ者のすることではない! それにこれでは余が小物みたいではないか」
翼がぱたぱた。
「そうね。――なんだか魔王のほうが為政者として立派だわ」
「……残念だが、そうだな」とティエリー様。
「当たり前だ。貴様ら人間は昔から卑怯だ!」翼の動きが止まる。「……いや、卑怯者ばかりだ。たまになら、まともなヤツもいる。悔しいが、貴様はすごい。この痩せた土地で葡萄の栽培ができるよう尽力した」
魔王が自分の頭ほどの大きさがある葡萄を一粒、房からもぎ取った。
ろくに作物が育たない土地をもらったティエリー様。執事の話によると彼はかつての仲間の知恵を借り、己の魔力と努力で葡萄がなる土地に変貌させたそうだ。
「余は葡萄が大好物なのだ」と魔王。
え。血の滴る生肉とかではないの?
「よなよな貴様に葡萄を食べたいと囁きはしたが、まさか土地を改良するとは思わなかった」
「は? あの葡萄への狂ったような渇望はお前のせいだったのか!?」
「良いではないか。おかげで美味なる葡萄が食べられる」と魔王。葡萄にかぶりつく。「んまい! とにかくだ、結果良しとはいえ、貴様らの王は気に食わん。一度くらいは協力してやるぞ」
「だが、まだ三割なのだろう? 起こしたら可哀想だ」
「わたくしもそう思うわ。それに国王はいずれ報いを受けるわよ、きっと」
ティエリー様がわたくしを見る。
「そんな気がするの。民にも臣下にも嫌われているもの」
「だとしたら『いい気味』だ」
ティエリー様がにっこりしたから、わたくしもにっこりした。
「ふぅん」と魔王。「ま、ザイードが必要なときは言え。余はすっきりしたい」また葡萄にかじりつく。
「わたくし、コルラドと王には感謝しているの。当人たちは嫌がらせのつもりでしょうけど、ティエリー様と結婚させてくれたから」
「トカゲ頭なのに」と苦笑混じりのティエリー様。
「子供のときの夢は、あなたのお嫁さんになることだったのよ」
「……それは……俺はただ、自分の仕事をしただけだ」
「わたくしが泣きすぎないよう、優しい嘘をついてくれたわ」
あの事件から間もなく、わたくしはコルラドの婚約者に選ばれてしまった。わたくしの夢は、公爵家の娘という立場では捨てざるをえないものだった。
「ティエリー様。わたくしは幼いころの憧れだけを抱いてこちらへ来ました。だけど再会したあなたはやっぱり優しくて。改めて好きになったわ」
「俺こそ。少し前までは君を子供だと思っていたのに。今はどうしようもなく惹かれている」
「嘘をつけ。再会したときあまりの美しさにときめいて、生唾を飲み込んでいたではないか」と魔王。
「まあ」
「余計なことを言うなっ!」
「おなごよ、コヤツは『今夜はしっかり拒絶するんだ、己に負けるな』と言って小芝居の練習をしていたのだぞ」
「魔王!」
ティエリー様が耳まで赤くなっている。
「練習は廊下で聞いたわ」
「え!」
「ワハハハハ! いいザマだな!」
ごきげんドラゴンがティエリー様を指差し、ティエリー様は指を弾いた。ドラゴンが『うわぁっ』と叫びながら後ろに吹っ飛ぶ。きっとミニミニ攻撃の魔弾を弾いたのだわ。ずいぶん弱い魔王だこと。
「でも、わたくしの顔がティエリー様のお好みなら、嬉しいわ」
「顔も好みだが、訳のわからない性格も愛おしい」
「まあ、幸せ!」
ドラゴンを見ると、落ちかけたテーブルに必死にしがみついて登っている。
「魔王。そろそろ遠慮してくださる?」
「む。なんと図々しいおなごだ」息も切れ切れなドラゴン。「そも、お前はキスもよく知らぬで、閨のことは分かっているのか?」
「都を出る前にきちんと習ってきたもの」
「それは良かった」
「トカゲの生態を学ぶのに忙しくてあまり時間が取れなかったけれど、トカゲの交尾とそうは変わらないでしょう?」
「んん?」
「ばあやが、『だから勇者様にお任せしておけばなんとかなります』と言っていたわ」
「……それはなげやりになっていたのではないか?」
ティエリー様を見る。どうしてなのか、頭を抱えている。
「なにか違うかしら?」
「……とりあえず、一回トカゲから離れようか」
「そうね。人の姿に戻ったのだものね」
「うん……」
ドラゴンがぱたぱたと飛んできて、ティエリー様の膝に乗る。
「しっかりせんか、萎えたのか?」
「いや、可愛すぎてたまらない。最高ランク魔法の使い手で公爵令嬢で、王太子の婚約者だったのに、この……」
「ううむ。なまじ他が優れていたから、ポンコツ具合に誰も気づかないまま大人になってしまったのかもしれぬな」
ポンコツ? わたくしが?
やっぱりなにか違っているのかしら……。
「よし!」と気合を入れて立ち上がるティエリー様。飛び上がったドラゴンが
「急に立つな! びっくりするだろうが」
と抗議する。
構わず長椅子にあったクッションと葡萄の皿を取るティエリー様。
「魔王、お前は別の部屋で寝ろ。葡萄は全部やるから、おとなしくしていろよ」
「うむ。久しぶりの実体化で余は疲れた。きっと深く眠るだろう」
「ぜひ、そうしてくれ」
ティエリー様は魔王を連れて廊下に出て、すぐにひとりで戻ってきた。
「それじゃあニコレッタ」にこりとするティエリー様。「前言撤回。俺はニコレッタを深く愛するつもりしかないが、妻になる覚悟はできているかな?」
「もちろんよ!」
立ち上がり旦那様の元に駆け寄る。
「わたくしだって、ティエリー様を深く愛するつもりしかないわ」
ぎゅっと抱きしめられて、胸が高まる。
二度目のキスはティエリー様から……
◇◇
翌朝。ドラゴンな魔王に、
『トカゲの生態はこれっぽっちも参考にならなかっただろう』
と笑い飛ばされたけれど、まったくもって、そのとおりだったわ!
《おしまい》
先ほど結婚式をあげたばかりの旦那様が「お前を愛するつもりはない!」と寝室で叫んでいます。たったひとりで。 新 星緒 @nbtv
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