ところで懸念はもうひとつ。分別のない実の兄の存在だ。


この兄、とにかく女癖が悪い。数多の女性と交際できるなら男振りが良いとも言えるだろうが、残念ながら女性に対しての態度がだらしない方向だ。


少しでも関心を持てば即座に声をかけ、戸惑う暇も与えずぐいぐいと質問攻めにする。配慮という言葉を知るのかどうかも怪しく、許可も取らずに女性の髪や手に触れて、蛇蝎の如く嫌われてはにやついていること多数。実の弟なのだからどうにかしてくれと言われること多数。


よくよく考えてほしいのだが、見ず知らずの相手でさえそんな態度を取るような相手が、実の弟の話など聞き入れるはずがない。しかし何故か兄に強く言えない女性は自分に対しては要求を突き出してくる。こちらからすればどちらもどっちで無遠慮な人間だ。


それに兄の悪癖に関してはまったく他人事ではなく、奴は女性だけでなく三つ下の弟である自分に対してもそうだ。父母や友人に対しては多少礼節を保ったまともな対応をとるくせに、兄好みの女性と自分にはたいそう過干渉だ。


遠慮というものを知らない兄のことは嫌いではないが、出来うる限り関わり合いになりたくない。だが遠慮というものを知らない兄のこと。当然こちらの築いた垣根など意にも介さず距離をつめてくるもので。



兄曰く、日々猫ばかりを愛でているしょうもない愚弟の家に、年頃の白い髪の女性がいると噂を聞きつけて、以後怒涛の勢いで通い詰めている。

なんともわかりやすい兄だ。オス猫でさえそれなりの手順は踏むというのに、うちに押しかけてはろくに用件も言わず、ずかずかと踏み込まれて迷惑だ。


最初に猫だと言ったら笑い飛ばされた。何度も説明するうちにつまらないとさえ言われてしまえば、次第に口を閉じても仕方がない。昔からいつもこうで、兄の前で呑み込んだ言葉は数知れず、澱のように腹の底で淀んでいる。


肝心のワタは猫の頃から兄を毛嫌いしているようで、兄が来るとかっと瞳孔を開いて物凄い勢いで逃げる。それを見ると溜飲が下がるような心地だが、やはり見ていて快いものでもない。


ひとの形になってからはどうやら厠に入って閂を下ろし、兄が帰るまで隠れているようだ。たいそう可哀想なので、次に兄が来た時は自分のもとに来るようにと言うと、目を輝かせて見えない尻尾がゆらりと揺れていた。案外したたかな愛猫にしてやられた気がしたが、それで安全が確保されるなら良いことだ。


「その、そういうことで…この子にちょっかい出すのはやめてくれるか」

「可愛いな。真っ白でふわふわだ」

「聞いてくれよ」

「はあ、そういうことって何だよ?お前の恋人なのか?はっきり言え」

「…とにかく嫌がってるから」


ワタを膝の上で抱きながら兄にそう言ったが、そうまでしても色惚けは挫けなかった。襟が乱れるくらいしがみついて兄のほうを見もしないワタに、何故か腕を伸ばして触ろうとしてきたので咄嗟に腕を払い除けた。


「いいだろ。俺にもちょっとくらいさ」


何がだ。猫だけど猫じゃないんだぞ。だけど思えば兄は人だけではなく動物に対してもこうだった。犬ならまず匂いで挨拶するべきだし、猫には距離感がある。初対面でいきなり手を差し出せば、当然噛まれたり引っ掻かれたりするわけで。懲りずにもう一度差し出された手に顔を顰めた。


「やだ!くさい!」


痛快な音と共にワタが兄の手をひっぱたいた。兄は赤い手を引きもせず固まって言われた言葉に驚いている。以前、ワタに近寄ってきたオス猫のようだった。くさいと復唱してかなり衝撃を受けている。


「かいー、このひとくさいよ。かいがだっこしてくれるけど、がまんできないの」

「え…っと、あ、煙草かな。ごめん気が付かなくて」


慌てて兄から遠ざけ、伸ばした片手で障子を開けた。自分は吸わないが、さっきも兄は煙草を吸っていたからワタにとっては臭かったのだろう。


「ううん。あのひとなまぐさい。きらい」

「え、生臭いって何?」

「くちあけるとくさいのがくるの」


遠くで兄が再び復唱してさらに落ち込んでいた。思わず少し同情した。何を食べたんだか知らないが、生臭いは自分も言われたくはない。


「兄さん、とりあえず帰ってくれ」

「…歯を磨いてうがいしてまた来る」

「もう来ないでくれって言ってるんだ。次は家に入れないし、遠江屋の冴子さんにも言う」

「な、おまえそれは」


情けない弟が反抗するとは思わなかったのか、最近ようやく成就しかけている片思いの女性に相当尻に敷かれているのか、兄は慌てふためいて帰っていった。

暫く来ないだろうから、その間に一通りの親戚や友人にワタを紹介してしまおう。怠けず根回しさえすれば兄も手出しできなくなるだろう。


ワタは最近、蚯蚓のような字で名前を書けるようになったばかりだ。嬉しそうに報告してくる姿を見るたびに、可愛くて健気で、不安だ。飼い主は別に自分じゃなくてもいい。違う誰かに飼われても文句も言えない。


だけど自分の戸籍に入れば。ワタが届け出に名前を書いてちゃんと手続きが出来たら、自分がこの手で守ってやれる。


「かい?どうしたの」

「…ワタ、本当に俺でいいの」

「かいがいいの」


思いつかなかったけれど、もしかしたら代筆でも手続きが可能かもしれない。ひとまずまともな親族に相談しよう。これはあまりひとに会いたくないからと、面倒がっていた自分の責任だ。


「ごめんな。俺も厭なことから逃げてた」


ようやく兄がいなくなって安心したらしく、ご機嫌に体を擦り付けてくる。胸の内側からじんわりと滲み出るような感情に、自分の心の機微を知った。


自分への苛立ちに喉が灼けるようだ。これが嫌だ。ひとと関わるといつもどっと疲れる。もともと自分の内側に大事なものを抱え込む性分で、その柔らかなところに他人が触れるのが嫌で嫌で、そう、とても怖かった。


「兄さんのこと…出来れば嫌いにならないでくれるか?」

「…くさいのがまんする?」

「それはどうにか兄さんに対処してもらうけど、あんなんでも兄さんがいなければ、俺は家族の連絡先さえ見失いそうなんだ」


怖かったから、人から逃げたくなった。心を開くことは恥ずかしく、心を伝えることは億劫だ。こうして悩むのも厭だ。出来ることなら何も話さず、何も考えたくもない。だけどひとはそれでは生きていけない。耐えきれなくなって全部を捨てかけた時、過干渉な兄だけが弟の異変に気がついた。


この家を見つけたのは自分が落ち着いて話せる数少ない知人で、仕事も兄の友人でもある彼からの紹介だ。その背景くらい理解している。その言葉すら言えてない自分はやっぱりどうしようもなく不器量だけど。


「かいー、ねえ、わたがいるよ」

「うん」

「わたのことは、だいじでしょ?」

「うん。君のためなら何だって頑張れると思う」

「わた、ひとになったから、かいとおなじくらいいきるよ。そしたらかいは、わたといっしょにがんばる?」

「うん。…俺も努力して、兄さんに取られないようにするよ」


自分にとっては難しいけれど、二足歩行や人語を話すことより難しくないはずだ。

伝わる体温より温かい気持ちに満たされて、ワタの首筋に顔を埋めた。猫の時から変わらない匂いを吸い込んで絞り出すようにそう言うと、ワタはきょとんと目を丸くした。


「くさいからとられないよ?」

「……ワタ…その、いや、俺が臭かったら教えてね」

「かい?くさくないよ。かみといんくと、ここからいかのにおいがするの」

「烏賊……そうか…そういうことか」


純粋な顔であれを指さされ、好物の烏賊だと思われていたのかと合点がいった。きっと夜中にあれを舐めようとするのはお腹が空いてのことだろう。発情期も終わったはずなのに、一向に欲しがり続けるから何故だろうかと思っていたんだ。


「今度からちゃんと烏賊をあげるから、欲しかったら我慢せずに言うんだよ」

「たくさんもらえる?」

「いいよ。いくらでもあげる」

「ほんとう?おなかいっぱいにしてね」

「うん。だから…他所の男にいかないでくれ」


ようやく心に抱けた言葉を口にすると、ワタの瞳孔がきらきらと宝玉のように輝いた。


本物の烏賊をあげていればお腹もいっぱいになるだろう。これで次から夜もぐっすり眠れるはずだ。やっぱりワタはどんな姿になったってうちの猫だ。納得してワタのふわふわの頭を撫で回した。安心したと同時にどこかで空風が吹いたような気がしたが、膝の上の暖かさにすぐわからなくなった。


まあ、愚かな自分は仔猫云々言われていたこともすっかり忘れ、ひとに化けた猫が舌舐めずりをする姿も見えていなかったというわけだ。




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