うちの猫がひとの形になった。
梅行き
前
うちの猫がひとの形になった。
とはいっても行動があれこれうちの猫なので、ひと月もすれば受け入れた。
賢くなったぶん言う事をよくきくが、きかなかったりもするところは変わらない。食べられるものが増えたが煮干しは相変わらず好きで、何故か烏賊が好きになった。普通猫にとっては毒になるはずが、いまは葱も海老も平気でこちらの椀から奪い取って食べている。
他にもひとになったようだと思う要素は幾つかあり、触り心地が良かった肉球は柔らかな手のひらとなり、爪は桜貝のように丸く、喉をごろごろと鳴らすこともなく、そして何よりひとの言葉を話すようになった。
それによりこの頃、飼い主が勝手に考えていたあれやこれやの憶測が目覚ましく訂正されていったのだが、それはまた後述する。
「ちょうだい」
「あ、こら、仕事部屋に入るなって言っただろう?」
「ねーちょうだい」
「待ってくれ、ああっ、紙が」
襖が開いて転がり込んできた猫に慌てて机から身を引いた。以前からこの猫は随分な甘えたがりで、食事中だろうと書きものをしていようと容赦なく膝の上に無理やり割り込んでくるが、前と違って質量が大きいぶん被害の程は甚大だ。
急いだものの脇を下から持ち上げられた弾みで、いずれ自分の収入源となる二束三文の御伽草紙の草案に墨が大きく横切った。暫しほんのりとした無常感が漂うが、猫を怒ることは決してしない。仕方なく眉を下げ、力なく筆を転がし、空いた手のひらで頭を撫でた。
親戚の伝手で住まわせて貰った古い小さな田舎の家で、一切合切の遊興もせず枯れ木のように暮らしていた自分に色をつけたのはこの猫だ。それが何故か突然にひとの姿に変わってもなお、胸の奥に色づくような感情は健在で、つまるところ少々甘やかしすぎている。
「ワタ。下りなさい」
たまにはと叱ってみたが、もぞもぞ動かれた上にとうとう落ち着かれてしまった。にこにこと満足そうに見上げられると可愛くて、威厳を出せたためしがない。
拾った時の仔猫の姿からワタと名付けたが、今となっては安易な自分に少し後悔している。ふわふわの毛並みは白く透ける髪になったが、綿毛というよりは絹糸だ。言葉少なに訴えかけてくる小麦色の瞳は変わらず栗のように丸く、瞳孔は猫の面影が強い。
「ちょうだい?」
「仕方ないな。さっきから何が欲しいんだ?ご飯か?」
「かいのこねこのもとー」
「…それは駄目」
甲斐とは、自分の名前だ。仔猫のもととは、オスでいうあれから出るそれのことだ。困ったことに、十五歳くらいの見た目の可憐な少女になってしまったうちの猫は、現在発情期を迎えている。
というよりも最近言葉を喋るようになったワタ曰く、そもそも自分と交尾をしたいからひとになったのだという。
両手で抱えられるほど小さな仔猫の頃から育てているが、ワタはまだオス猫と交尾したことがない。したがらなかったというのが正しいか。
暖かくなって発情期が来ると自分の足に絡みついていつも以上に甘えてくるが、他のオス猫が少しでも近づくと毛を逆立たせ、一目散に自分のところに逃げだしてきていた。自分は猫が好きなので、ワタがいつか仔猫を産んだら可愛いだろうと期待したのだが、なかなか好みに厳しい子なのだろうなと。なんて少し残念に思っていたのだが、どうやらずっと前から自分を相手に選んで発情していたらしい。
「わたのこねこ、ほしいってゆった」
「確かに言ったけど」
「だからがんばったの」
確かに仰有るとおり。ワタは、物凄く頑張っていた。
うちの猫が突然ひとの形になって一ヶ月。突然一糸まとわぬ姿で現れ、喃語まじりの猫語を話し、必死にふらふらの二足歩行をしていたワタは、ここ一ヶ月で血を吐くような凄まじい努力を見せた。
今は匙も持てるし、二本脚で走ることもできる。どうにか服を着ることから教えこみ、自分の唇をじっと見つめて言葉を繰り返す姿に褒めて褒めちぎり、もはや飼い猫というより娘のように思いはじめていたのだが、それもまた飼い主の勝手な思い込みというものであったらしい。
そこまで急いでひとに慣れようとした理由を知ったのは本当につい最近。
一昨日の夜。下半身の開放感とざらざらとした快感に目を開けて布団を捲りあげてみると、うちの猫が素っ裸で、一生懸命あれを舐めていた。当然たいそう驚いた。自分からすれば、猫は好きだがそういう対象ではない。
慌てて押し退けると離れたが、一瞬おいて堰を切ったように布団の上で泣き喚かれた。ワタは拙い舌で何やら伝えようとするが、不慣れな上に泣いているせいで自分は上手く聞き取ることが出来ず、とりあえず頭を撫でて宥めてどうにか落ち着け、じゃあ寝ようかと言うと何故か平手打ちを食らった。
猫の頃の勢いのまま人間の力でやられると結構な威力で、情けない話だが、当方痩せがちで体も小さく、出不精の文筆業故に兎に角筋力のない男である。猫語で何か言われながらぐしゃぐしゃの顔で何度もはたかれ押し倒され、ついさっき舐められていてすぐに萎むわけがないあれがそれにそういうこととなり。
というわけでいま現在、飼い主としての責任のほかに男としての責任も負っている。
愛猫と思えばどうしても強く出れない。だからといって、女性と思えばさらに苦手という意識が勝る。つまるところ自分はとても情けない男だという話だが。
ただ言っておく。未遂…だと思う。痛みでワタの力が緩んだ隙になんとか逃げ出して、昨日から自分だけ鍵がかかる蔵で寝起きしている。昨日の朝まで一睡もせず考え、昼に起きてからまた今日に至るまで考えた末、ある程度の結論に至った。
問題は、猫は繁殖力が高く、一度の交尾でほぼ確実に妊娠するらしいこと。
「…ワタ、妊娠してないよね?」
「こねこはいるのー」
「それは要ると居るのどっちなんだろう…」
様子を見ていると発情期はまだまだ続いているようだが、そこらへんは人基準なのか猫基準なのかわからない。というか仔なんて出来るのか。万が一妊娠していたらどうするのか。いったい何が産まれるというのか。
眉間にしわを寄せて悩んでいると柔らかいものに頬を包まれた。目を開けるとワタの顔が目の前にある。白くふわふわの毛並みに小麦色の瞳が陽だまりの花のよう。ひとの形になったものの、あれこれが愛する猫そのもので。
「わたはわただよ?」
「うーん。そうなんだよな…」
「がんばるからすてないで」
その言葉に首を大きく横に振り、白くて柔らかい髪を撫でた。一昨日からの行動は…発情期もあるだろうが、ひとになったことのワタ自身の混乱に加えて、飼い主の戸惑いも感じ取ってしまって、こちらが思っている以上に不安にさせているのだろうと思う。
つい昨日のように思い出す。草葉の蔭で鳴きもせず丸まっていた小さな命。自分が拾い上げなければ恐らくいま頃死んでいた。
「捨てないよ。捨てるわけないだろ」
「すてない?」
「うん。だから俺とどうするのかも、その姿に慣れるのも、少しずつでいいんだよ。ワタが望む限りずっとそばにいるから」
どちらにせよ、最後まで一緒に暮らしていくつもりで拾いあげたんだ。諸々の責任は全部ひっくるめて背負うのが飼い主ってものだろう。
発情うんぬんは困りものだが、結局のところ何日悩もうが結論は決まっている。まあ想定が多少…根っこから崩れただけだ。当分膝の上から降りないだろう愛猫を抱えなおして、縒れてしまった机の上の紙を除けた。新しく紙を広げて、ワタの右手に筆を握らせる。
「ワタ、文字を覚えようか。ひとの姿のままでいるなら、届け出に名前を書けるくらいにはなろうな」
「うん。かいのおよめさんのかみに、わたのなまえかくの」
お嫁さんか保護対象か。正直に言えば自分はどちらでも構わない。ワタは日々目覚ましい勢いでひとの暮らしを覚えて、それと同じくらい一生懸命、夜這いをかけようと毎晩蔵の前で頑張っている。ワタは家の外が嫌いだし、何より敷地内とはいえ夜は危ない。今夜あたり観念するべきか、まだまだ鬼になって断じるべきか。
筆を握る小さな手に指を重ね、背中と膝の温もりを感じながら考えを放棄した。もう、諦めていい気がしている。
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