短編集
等星シリス
ピアノの亡霊
想い、というものは時に不思議な現象を引き起こす。
理屈で説明できないその現象が引き起こされるまでには様々な経緯が存在する。
これはそのひとつ、とある町で起きている不思議な現象にまつわるお話だ。
その町ではある月のある日の夜になると町の一角にある慰霊館からピアノの旋律が
聞こえてくる。
この慰霊館はとあるピアニストの死を悼んで建てられたもので中には彼が生前愛用
していたピアノが安置されている。
旋律はこのピアノから奏でられているわけだが演奏者はいない。
誰も弾いていないはずなのに旋律が奏でられるピアノ。
この不思議な現象が起きるようになった経緯を語るためにはピアノの持ち主である
ピアニストの過去を語らなければならない。
そのピアニストは偉大な音楽家である父の作った曲を皆の前で披露したいと言う淡い
夢を胸に毎日ピアノの練習に励む少年時代を送っていた。
彼の父親は自分の息子の夢が叶う日が少しでも早く来ることを願いながら時に厳しく、時に優しくピアノの指導をした。
幼い頃に母を亡くした少年にとって父と過ごすその時間は掛け替えの無い宝物だった。
しかしある日、少年の父親は不幸な事故で帰らぬ人になってしまった。
町の人々は偉大な音楽家の死を悼み、唯一の家族を失ってひとりになってしまった
少年を哀れに思い、父を亡くした少年は悲しみに打ちひしがれ、何日も何日も泣き続けた。
涙が枯れ果てるまで泣き続けても少年の悲しみが薄れることは無かった。
葬儀が行われてから数日後、少年は楽しかった頃のことを思い出して悲しい気持ちを
少しでも紛らわそうと訪れた父の書斎で今まで一度も見たことの無い譜面を見つけた。
それは偉大な音楽家である彼の父親が生涯最後に作った曲、いわば遺作だった。
少年は遺作となったその曲が世に知られることなく書斎に埋もれていたことを悲しく思った。
そして譜面を眺めている内にふとあることを思い立った。
自分がこの曲を弾いてその存在を世に知らしめれば良いのではないのか、と。
それならば沢山練習をしなければと父親が亡くなって以来止めていたピアノを再び弾き始め、遺作の練習に明け暮れた。
それから何年もの時が過ぎ、少年から青年に成長したピアニストは父の遺作であるあの曲を弾きこなせるようになっていた。
彼はその喜びを胸に招待状を書き、それを町の人々に配った。
招待状には次の満月の晩、今は亡き父が残した遺作を皆の前で披露する演奏会を行う、と書かれていた。
彼の努力を知る人々が招待状を受け取って喜ぶ一方で憂いの表情を浮かべる者がいた。
それはこの町でただ一人の医者だった。
医者が招待状を受け取って憂いの表情を浮かべた理由、それはピアニストに残された時間があとわずかであることを知っていたからだ。
ピアノの練習で無理に無理を重ねたピアニストの身体は重い病に蝕まれていたのだ。
演奏会の二日前、医者は彼に告げた。
このまま無理をし続けると死んでしまうよ、と。
しかしピアニストは父の曲を弾いて死ぬことが出来るのなら本望です、と微笑みながら言った。
彼にとって父が遺した曲を弾くことは命を投げ打ってでも果たしたいことだったのだ。
そして訪れた満月の晩、執り行われたのは彼の演奏会ではなく葬式だった。
それまでの無理が祟ったのか招待状を配ったその日から突然病状が悪化し、演奏会の前夜にピアニストは息を引き取った。
町の人々は志半ばでその短い生涯を終えてしまったピアニストの死を悼み、せめてもの慰めとして彼が生前愛用したピアノとその日演奏されるはずだった曲の譜面を安置する慰霊館を作った。
話を現在に戻そう。
誰も弾いていないのにピアノが旋律を奏でる現象、これが起きるのはピアニストが曲を披露する筈だった満月の晩と同じ日、同じ時間だ。
演奏される曲はピアニストが披露する筈だった彼の父の遺作。
つまりこの現象は父の曲を披露したいと言うピアニストの想いが引き起こしたものだろう。
無論これは憶測だ、真実とは限らない。
けどもし誰も弾いていないピアノから奏でられる旋律に驚くことも怯えることもせずただ静かに耳を傾ける人々がいる町があったとしたら、それはこの物語の舞台である町かもしれないね。
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