昔ながらの喫茶店

@mana_m

はちきれんばかりのタキシード

 親父が入院した。

 家の風呂場で転んだらしい。

 元気に見えても歳は歳だ。


 俺は二十八才、フリーター。定職にもつかず、ふらふらしている。

 どうせ暇だろ、と親父は笑い、喫茶店の鍵を手渡された。

「しばらくの間、マスターやってろ」

 病院のベッドの上、白い包帯をぐるぐると巻かれた脚以外は健康そのもの。昔からやけに威圧感のある親父の命令にはなかなか逆らう気にはなれない。小さい頃から厨房の中をうろうろしていたから困ることもそうないだろう。

 たしかにどうせ暇だし、と大した仕事もない田舎の喫茶店を任されることとなった。

 軽い気持ちで引き受けた店に、今日もぽつりぽつりと客が訪れる。


「クリームソーダをもらえるかい?」

 はちきれんばかりの腹をさすりながら、その男はやって来た。背の低い中年の男は、こんな田舎に見合わない上質なタキシードを着て、シルクハットを被っていた。短い手足に似合うはずもないその格好に、俺は思わず吹き出しそうになった。

 背丈にぴったりと合う長さの杖をついて店内を数歩進み、男はカウンターの俺の目の前に座った。コルク製の丸いコースターの上に、シュワシュワと気泡の上るクリームソーダを差し出す。

「偽物が好きでねえ」

 赤いストローでカランと氷を鳴らして男は言った。

「偽物はいいよ。気楽なくせに陰気でね」

 意味はよく分からなかったけれど、はあ、と曖昧な相づちを打って俺は笑う。

「クリームソーダと呼ぶくらいなら、透明のソーダに生クリームが乗っているべきだ」

 人差し指を立て、大袈裟に眉をしかめて、男はぐいっと俺の方へ身を乗り出した。

「それなら、アイスクリームメロンソーダのさくらんぼ添え、とかになりますかね」

 ほう、と頷いた男はようやくストローを咥え、溶けかけたアイスクリームを混ぜ込みながら緑色のジュースを飲み始めた。

 しばらくすると、男はシルクハットを頭から下ろした。額の広い丸顔で、短い、と言うべきかを悩ませる髪の毛は清潔に整えられている。静かにクリームソーダを口にする男の方を気にしながら洗い物を片付けていると、また声をかけられた。

「ああ、メロンソーダ、も偽物だね」

「たしかに、メロンは入っていませんね」

「だったらその、君の言うアイスクリームメロンソーダのさくらんぼ添えでも偽物でいられる」

「そうですね」

 男は随分満足そうだった。

「物の名前なんてどうでもいいと思うかい」

 片手間に答える俺の態度に気を悪くしたかと思い表情を窺うと、頬を薄い桃色に紅潮させて微笑んでいた。ただのおじさんなのにやけに可愛らしく見える人だと思った。

「まあ、個人的には。名前よりもそのものの中身が大切なんで。クリームソーダでもメロンソーダでも、うまけりゃいいっす」

 なるほどねえ、と男は言う。手を止めた俺の目をまっすぐに見つめていると、自然と上目使いになってより可愛らしい。

「わたしには二人の息子がいてね。二人とも、自分の名前が嫌いだと言うんだ。一人は本当に自分の名前を憎んでいて、もう一人は君のように、名前なんてただの記号だと言う。親はいろいろ考えて、望んで、期待しながら名前をつけるものだけれど、それは結構勝手なことなんだろうね」

 ほとんど空になったグラスへ男が視線を落としたとき、入り口のドアが開いてスーツを完璧に着こなしている紳士が現れた。

「そろそろお時間です」

 紳士は胸に手を当てて腰を折り、カウンターに座る男へ礼をした。

 うむ、とわざとらしく偉ぶった小柄な男はお札を置いて席を立った。

 ドアを押さえる紳士の脇を通りすぎようとしたとき、男はこちらを振り返ってにこやかに笑った。

「この次は、ホットケーキを頼むことにするよ」

 シルクハットを丁寧に被って店を出ていく男の背中を見送る。

「ありがとうございました」

 声をかけながら、あたたかいショートケーキを想像して胸焼けがした。

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