第25話
──XXXX年X月
目が覚めたとき、ホウヤは自分が地獄に来たと悟った。目の前には荒野が広がっている。山も人家もない。慣れ親しんだ伯希の景色ではなかった。火星のような茫漠とした大地が続く。岩が転がる地平線の先、太陽が眼のようにふたつ輝いていた。
ホウヤは奏太が心配だった。突然自分が消えたことで動揺していないだろうか。帰れるなら奏太の元に戻りたかった。
「……あの世はつまんねえな」
身体を起こそうとすると腕が動かなかった。足も動かない。錆びた足枷にはまっている。そこで初めて自分が磔にされているのだと気づいた。
「……?」
ホウヤから見て2メートルほど手前の砂がすり鉢状にへこんだ。数は3つ。等間隔にさらさらとすり鉢が渦を巻く。中から腕が這い出す。ホウヤの前に3つの異形が現れた。
「
「
「
聞き慣れない言葉だが、彼らが名乗ったのだとホウヤは分かった。
右端の異形、円は髪の長いマネキンのような見た目をしている。黒いレザーに包まれた手足は異様に長く、細かった。黒い長髪から見える顔に目鼻口は無い。首には何枚もの舌をつなげた有刺鉄線がぶら下がっていた。
中央の異形、砕頭は仏像の仮面を被った大男だった。首から腕、胴、脚にかけて太い鎖が巻かれている。鎖からは絶えずいくつもの唇が浮き出ては消える。仏像の頭頂部からは絶えずガムを噛むような音が聞こえていた。
左端の異形、糜爛糜爛は幼虫のような頭をしていた。白く半透明の丸い頭部に赤い宝石が輝く。首から下は燕尾服を来ており、前二つの異形よりも理知的な雰囲気があった。手にはサッカーボール大の人の頭を抱えている。
ホウヤが見つめていると、糜爛糜爛が顎を鳴らした。
「彼女はどこですか?」糜爛糜爛の声は落ち着いた低音だった。
「いつものフリフリドレス。ねじりたいよ。あそびたいよぉ」砕頭が泣きそうな声をあげた。
「あんたら一体なんなんだ」
「サイトウ、レムちゃんはどこ?」黒い髪を細長い指に巻きながら円が言う。
「わかんない〜わかんない〜」
「レムちゃんはどこ? 私悲しいわ……」
円は鎖を掴み、砕頭を問い詰めた。
「またくしゃみしたいの?」
「ひっけひっ!」
仏像の頭頂部を円がかき回す。濡れた肉の擦れる音が不快だった。
「うあぁあうぁああ……べしょっ」
砕頭の頭から赤黒い肉が噴き出た。
ホウヤは見ているしかなかった。だが、彼らの言う「レム」には心当たりがあった。フリフリドレスといえば一人しかいない。
「夜見坂の娘さんか」
「きひ!」
ホウヤの言葉で砕頭の鎖が笑った。脳に響く不快な音だ。
円が頭から手を抜く。そのままホウヤの口へ指を入れる。牛乳を絞った雑巾の臭いが口を満たす。吐き気がこみ上げた。
「あの子を知ってる?」
ホウヤが抵抗しても無駄だった。指が上顎をなぞり、前歯で止まった。
「知らない……」
ホウヤが円の顔を見る。肌が紙袋のような質感だった。
前歯に激痛が走った。唇に火を押し当てられたような痛みだった。口の中に鉄の味が広がる。
「私、悲しい」
円はそう言って砕頭に前歯を食わせた。
ごりごりと音がした。円と砕頭が糜爛糜爛を見た。
痛みに喘ぐホウヤの額に、手に持った生首を近づける。青い光が灯ると、ホウヤの前歯が元に戻っていた。
「人が最も必要なこと」
「ああ……?」
「それは体験」
糜爛糜爛が生首を揺らす。ホウヤの右耳がちぎれた。ホウヤは歯を食いしばる。
「ぐぅうう……」
「夢は何のために機能するのかご存知ですか」
「さあな……」
「それは体験。あなた方が「夢でよかった」と思うたび、現実に対応する力を手に入れているのです」
砕頭がホウヤの右腕を握る。万力のような握力で手の感覚がなくなる。
「私たちはここで、ある少女の痛みと恐怖を取り除いていました」
糜爛糜爛が空を見上げる。焼け爛れたような赤色だった。
「それがあの子って言うのか」
「幼い頃から彼女はこの瓶にやって来ました。初めはとても怯えていました。このままでは辛い現実に壊れてしまう。私たちは懸命な処置を行いました」
砕頭の鎖がホウヤの手首を這う。乱杭歯の並ぶ口が鎖にいくつも浮かび上がる。ホウヤの皮膚をゆっくりと突き破る。
「レムがいない今。あなたに処置をします」
肉が引き攣れる。鎖が締め上げると骨が軋み、ホウヤの手首から骨が突き出る。電流が走るような痛みだった。
「彼女はこの程度では痛がらなくなりました。あなたもすぐに……」
再び痛みが走る。ホウヤの体から脂汗が出る。
ホウヤの手首から円が指で筋肉を裂いている。バナナを剥くように手首の腱を骨から引き剥がす。空気に触れるたびに腕が焼けるようだった。
なぜこんな目に遭っているんだ。
ホウヤの疑念はすぐに痛みに塗りつぶされた。
砕頭は足の指を一本ずつもいでいた。親指の根本を摘み、外側に曲げる。骨の関節が耐えきれなくなって取れた。
知らぬ間に叫び声が漏れていた。首には砕頭の鎖が絡まり、皮膚を食い破っていた。絶えず首を絞めたり緩めたりすることで、血の噴出を楽しんでいるようだった。
「みてろみてろ」
砕頭は指をもぐたびにホウヤに見せびらかした。爪の生えた肉の塊。それは全てホウヤの身体から摘出されたものだ。たっぷりと見せた後に砕頭は頭頂部で咀嚼した。
「いたいか?」
全ての指がなくなると、糜爛糜爛が生首をかざした。再び指が生えてくる。早送りで植物が萌芽しているようだった。傷口から骨と肉が盛り上がり、指が形成された。
空に浮かぶ二つの太陽がホウヤを見下ろす。太陽が次第に消えていく。目を瞑るようにひとつの線になっていく。夜になって20回目の指もぎをホウヤは受けていた。指があるのに無い感覚がする、指がないのにある感覚がするのを繰り返していた。
ホウヤは無心に謝り続けていた。自分が何をしたか分からず弄ばれるのは気が触れそうだった。
ふたつの太陽が再び大地を照らす。
三人の仕事は分業されていた。
痛みによる気絶が起こるたび、円がホウヤを覚醒させた。覚醒の方法は鋭く硬い指による執拗な解体だった。ホウヤの側頭部を両側から円が掴む。指の一本一本が重機のような力でめり込む。目の中が赤く変わる。側頭筋を無理やりむしる。
「何が入ってるか見ましょうね」
後頭部から頭頂にかけて厭な振動を感じる。ベニヤを折るような音と水っぽい音がした。
「ほおら、取れた」
ホウヤはヒトの脳が灰色の塊でしかないことを学んだ。
太陽が再び目をつむり、開ける。七日たった。痛みは別の痛みによって簡単に上書きされてしまう。
「いたいか」
円がホウヤのへそに左右の指を入れて引き裂いた。自分の体から赤くて白い塊がこぼれ出る。
砕頭は躊躇なくホウヤの内臓を引きずり出した。
「これうまいんだ」
赤黒く艶のある肝臓をかかげて砕頭が喜ぶ。ひとしきり弄ぶと頭に入れた。血が失われて意識が遠のく。糜爛糜爛が蘇生させる。
奏太……。奏太……。
ホウヤは太陽の瞬きを数え続けた。際限のない痛みの連続の中、そうでもしなければ正気を保てなかった。
8……9…..10……
31……50……100……
糜爛糜爛の言葉は正しかった。肉体の痛みはホウヤを強くした。指が身体に潜りこむたび、ホウヤは身体を力ませていた。動けない状態で痛みに抗う唯一の方法だった。一生分の痛みを一日に何度も味わう。鼻を削ぎ落とされ、喉に臓物を詰められ死に続けた。砕頭の責め苦を跳ね除ける身体能力はなかった。蘇生してもやせ細った犬のような身体はホウヤに諦念をもたらした。痛みを諦めていくしかなかった。それが強い痛みであるほど、肉体の損壊を客観視できるようになっていく。それでも、死への恐怖は薄れなかった。
150……180……250……
日数が過ぎていく。
「ちゃんと強くなれるじゃない。がんばってるわ」
「奏太に会わせてくれ……」
歯を失った口でホウヤは言った。200日を過ぎてもろくに眠れない。唇が勝手に動く。ホウヤは無意識にうわごとを垂れ流していた。
円が許可をとるように糜爛糜爛を振り向く。幼虫の頭が頷く。
円がホウヤの頭に手をかざす。砂の中にすり鉢ができた。手が這い出す。よれたTシャツにジーンズ姿の少年が砂から現れた。ホウヤの目に光が戻った。
「奏太……奏太!」
見間違えるはずがなかった。麻耶によく似た二重の大きな目、少しへの字に曲がった口、地獄に現れたのは奏太だった。自分がどこにいるか分からないようだった。辺りを見回している。三人の異形には反応しなかった。
「どうしたんだよ、そのケガ……!」
奏太はホウヤを認めると、磔になった腕を剥がそうとする。縄は頑丈に縛られていた。
「本当に……本当に奏太なのか」
ホウヤは震える声で語りかける。
「医者に行こう」
「行くんだ」
ホウヤは首を振る。
「最後に会えてよかった。じいちゃんのことは置いていけ」
「何言ってるんだよ。帰ろうぜ」
「……だめだ! 行け! 行くんだ。」
砕頭が奏太の背後に現れ、大きな影を落とす。
奏太は気づかずに縄に苦戦していた。
じゃりん
鎖が空を裂く。奏太の頭がぶつんと千切れた。首から血の柱が迸る。頭のなくなった身体が力なく倒れた。
「はいおしまい」
円が嬉しそうに言った。
無表情な奏太の頭は砕頭の放った鎖に巻かれている。
「あなたの記憶で一番大事な人を作ったのよ」
「おお……おお……」
奏太の顔が醜くゆがむ。赤い亀裂が走り、破裂した。頭蓋骨の破片や眼球がホウヤの顔に当たった。ホウヤはそれらが目に入るのを厭わなかった。自らへの責め苦よりもはるかに心を壊された。
「殺す」
ホウヤは無意識に口走っていた。
「何事も体験です。体験しましょう」
糜爛糜爛が何事もなく言った。奏太の肉片が砂に埋もれていく。
「体験は身体に染み込ませます」
円が砂に手をかざす。再び手が這い出す。
260……300……365……
最初の一年が過ぎた。ホウヤの精神は崩れかけていた。糜爛糜爛たちは構わずにホウヤに成長を迫った。
ホウヤは日に幾度も異形を殺す方法を編み続けた。
双子の太陽が目を開き、閉じる。目を開き、閉じる。
異形たちは念入りだった。ある種ホウヤへの期待と個人的な悦楽があったのかもしれない。奏太の人形を叩き潰すたびに円は笑った。ホウヤの顔を見るたびに砕頭は鎖に力が入った。糜爛糜爛の説教は熱を帯びた。
「殺す……殺す……」
破壊と陵辱は999年続いた。歳月はホウヤの怒りと憎しみへ狂わせるのに十分だった。
最後の千年目。磔のホウヤの頭上に声が降り注いだ。
「……聞こえてますか。伯希町に来てください。母さんも父さんも苦しくない世界にしてください。誰も怖がらない痛くならない町にしてください……」
初めて聞く声だった。千年の間、自分の叫び声と肉のちぎれる音だけを聞いていた耳には、その声は甘く響いた。そう思ったのはホウヤだけではなかった。
「おお……おお……」
「レムちゃんだわ!」
「れむだ! れむ! あああああ!」
地獄は歓喜に沸いた。糜爛糜爛は空を見上げ、膝をついた。円はその場でくるくると回りだした。砕頭は引き摺り出したばかりの奏太の心臓を空に掲げた。
「町に来てですって!」
「いこう! いこう!」
「糜爛糜爛やりましょ!」
考える円を尻目に、糜爛糜爛が生首の口を開いた。舌を伸ばす。地面に着くほど舌が伸びると、歪な粘膜の杖が出来上がった。糜爛糜爛は顎をかちかちと鳴らす。それに合わせ、円と砕頭が足を踏み鳴らした。呪文の代わりだ。
生首の目が緑色に光りだした。糜爛糜爛が杖を振り上げ、砂に突き刺す。砂埃をあげて轟音が響く。ホウヤが目を細める。杖の手前の地面が沈み、四角い穴が開いた。砂が蠢いて階段を作り出す。
円と砕頭が跳ねて喜んだ。
「お出かけよ」
「おまえ。よかったな」
ホウヤを磔にしていた縄を円が解いた。千年ぶりの自由だった。ホウヤは円に掴みかかろうとする。それよりも速く円は平手打ちをホウヤの頬に浴びせる。ぐじ、と音がして視界が地面と並んだ。首のない自分の身体が倒れていくのを見た。首を持ち上げられた。地獄は生死の間をこうして漂うことが多かった。目と口のない顔で円がホウヤを覗き込む。
「また会いましょうね」
「まちであそぼうぜ」
「30分後に向かいます」
意識が薄れていく中、円が何かつまんでいるのが見えた。白い塊だ。カタツムリの殻のように見えた。それをホウヤの口の中に詰めた。
──二◯XX年八月
次に目を開いたとき、何が起こっているのか分からなかった。自分が見ているものが天井だと気づくのに時間がかかった。ベッドから立ち上がり、月明かりに照らされた己の肉体を見た。発達した大胸筋が病衣を破りそうになっている。獅子のような大腿四頭筋がホウヤの身体を支えている。掌を握りしめる。腕に血管が浮き出る。力が溢れているのを自覚した。
痛みがホウヤの身体を変えた。千年の忍耐は圧倒的な筋肉量を老いた身体に与えた。自分の身体が全てを破壊するための武器になった。
「やれる……」
三人の異形を思い出してホウヤは拳を固める。奏太を殺した分の痛みを奴らに返す。自分の内臓を引きずりだした数だけ苦しみを与える。殺され続けながら考えていた策も頭に残っていた。
入院用のベッドには「6/17」と書いてあった。ホウヤは廊下に出ると、看護師と出くわした。
ホウヤが見下ろすと看護師はその場にへたり込んでしまった。ホウヤは彼女が「ばけもの」と言うのを聞き取った。
地獄での最後の瞬間を思い出す。幼虫頭は30分で来ると言った。地獄の体感時間で30分でないことを祈った。現実の体感時間で30分とすれば地獄からなら四か月程度はかかる。それに賭けるしかない。
その間に町から奏太を逃さなければならない。
奴らを殺すのはホウヤの役目だ。その前に、徹底的に殺すための準備が必要だ。
病院を抜け出すのは容易だった。走り続ける。車に乗ってるような気がした。そのまま夜見坂を駆け上がる。ホウヤの家は全く変わっていなかった。黒い瓦屋根が月光で青白い。車もそのままだ。何も変わっていない。奏太が守っていてくれた。
「奏太」
扉の向こうに奏太がいた。千年の責め苦を越えても奏太のことは覚えていた。痩せた子犬に見えた。砕頭に皮を剥がされていない顔を見たのは何年ぶりだろうか。円に腐肉に変えられていない姿はいつぶりだろうか。この非力な少年が地獄の使者から逃げおおせるとは思えない。
「お前を戦士にする」
ホウヤは言った。
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