第5話
足音が遠ざかるのを確認して奏太は「令嬢」に駆け寄った。今やっと着いたかのように、公園の入り口から走った。
もっと早く来ていれば。あと少しだけ学校を出るのが早ければ。嘘でもいいから何もできなかった自分に適当な言い訳をつけたかった。
スニーカーに伝わる湿った土の感触が気持ち悪かった。
「令嬢」は角田が去ったときのまま横たわっていた。
「大丈夫?」
「……」
「令嬢」は何も答えなかった。彼女のワンピースがめくれ、太腿があらわになっていた。奏太は目を伏せながら、手を貸そうとした。いやでも視線が太腿に吸い寄せられる。「令嬢」がワンピースに手をかけたので、奏太は慌てて目を逸らした。彼女は何事もなかったように立ち上がる。あれほど角田に蹴られていながら傷ひとつなかった。ツインテールを整えて「令嬢」は公園を後にしようとした。
「本当に大丈夫?」
奏太が声をかけても、彼女は振り返らない。不思議なことに公園は水を張ったように静まっていた。普段は家からでも聞こえる鳥の声も虫の声も聞こえてこなかった。
土の上をローファーが歩く音だけがした。
「角田たちにいつもやられてるの」
返事が返らないのは知っている。それでも、背中に話しかけていた。
「令嬢」は公園からそのまま消えると思ったが、足を止めた。彼女はくるりと振り向く。
奏太と一瞬だけ眼があった。薄暗い中に浮かび上がる艶のあるリップ。潤んだ黒い瞳。カメラがシャッターを切ったような僅かなこの瞬間を思い出し続けるのだろうと思った。同時に、どうして彼女を助けなかったのだろうと胸が痛んだ。
奏太が気づくと、黒いワンピースの背中は遠ざかっていた。「令嬢」の後ろ姿は小さくなり公園の出口に消えていった。
ひとりで公園に残ると、周囲の薄暗さが増したように思えた。赤いジャングルジムは古びているはずだ。綺麗に見えるのが不気味に感じた。
奏太は公園をぐるりと回った。草むらや木々は伸び放題に自分たちの居場所を拡大していた。ブナの木は「令嬢」のいたところよりもさらに奥、神社の本殿の跡地にあった。枝ぶりが良く、太い枝がひさしのように成長している。昔よりも背が伸びてクワガタのいた幹にも手が届くようになっていた。
園内をぐるりと歩く。奏太は透け地蔵も探した。手がかりの一つでも見つかると思ったが想像よりも難しかった。ホウヤの話では神社の周りを探し続けていたという。奏太もそれに倣ってみた。手頃な木の枝を拾い、木の裏や草むらに突っ込む。透けていてもこれなら見落とすはずがない。それでも地蔵らしきものは見つからなかった。
気がつけば日が沈みかけていた。墨を落としたような暗さが辺りを包みはじめる。探すのは今度にしよう。奏太は切り上げて家に帰ることにした。
「……あ」
地面に銀色に光るものがあった。拾い上げると、銀のチェーンに惑星が繋がれたネックレスだった。
それは「令嬢」が倒れた場所に落ちていた。
公園を出ると夕陽が眩しく感じた。
奏太が家に着いてもまだ四時だった。
「ただいま」
「おう」
居間に入る。蚊帳を被せたホウヤ手作りのクッキーが机に置かれていた。
「弁当と水筒、台所に出しとけよ」
流しに水筒と弁当を置き、こたつに足を入れた。
今日のクッキーは抹茶味だ。生地に抹茶を練りこみ深い緑色をしていた。奏太は一口かじる。抹茶の苦味のあとにじんわりと甘みが広がる。
「テストはどうだった」
ホウヤも洗い物を終えてこたつに入った。
「赤点は回避かな」
「それならよし」
ホウヤは勉強でとやかく言わなかった。食事中に食べながら喋って怒られても、テストの点数が理由で怒られることはなかった。
「そういえば、巳月公園行ってきたよ。地蔵なんて無かったよ。本当なのか?」
「婆さんに聞いてくれ。ちゃんと探したのか?」
「公園を8周は回った。けど、地蔵なんて見つからない」
「まだ足りないな。土の中まで探さんと」
「無茶言うなよ」
「じいちゃんの頃はそこまでやったぞ。神社を穴だらけにして神主に殴られた」
得意そうにホウヤは鼻を鳴らす。話は嘘くさいがもう少し調べてみる価値はありそうだった。「令嬢」が殴られていた鈍い音が蘇る。角田かれんたちがいない時を見計らわなければ。
「奏太……、嫌なことでもあったか」
「なんで?」
「お前、なんだか淋しそうな面してるよ」
「どうしたんだよ急に」
ホウヤは奏太の眼を見つめていた。
「篠田さんっていたじゃん。あの子、亡くなったんだって」
「坂を降りたとこの子か?」
ホウヤの顔が陰る。
「そうか……」
町内会での行事にも篠田は参加していた。ホウヤは顔を知っているだけに衝撃も大きいのだろう。奏太は躊躇ったが、「令嬢」の噂についても話した。
ホウヤは聞き終えるとため息を吐いた。一言だけ「馬鹿野郎」と言った。
「奏太。やっちゃいけねえ三つのことを覚えてるか」
「人を笑う、人を殴る、……人を覗く」
「知らない人様の敷居をまたぐのはやっちゃならねえよ」
「うん」
ホウヤはこたつ越しに奏太の頭に手を乗せた。ごつごつした暖かい手だった。
「令嬢」が巳月公園で殴られていたことは、言えなかった。
「風呂沸いてるから適当に入っちゃえよ」
そう言ってホウヤは夕飯の準備に台所へ向かった。
脱衣所の戸を閉める。奏太はポケットからネックレスを取り出した。公園から持って帰ってきてしまった。奏太は手のひらに包んでみる。大きさに比べて重さがあった。手を揺らしてみる。細いチェーンが砂のように、さらさらと動くのを感じる。
ネックレスを広げると、オレンジ色の電球に照らされ、土星がキラキラと輝いた。光は「令嬢」が振り返った時の眼を思い出させる。この伯希町でこれが似合うのは「令嬢」だけだろう。しばらく奏太は鎖を見つめていた。
ネックレスを置き、スウェットを脱ぎかける。なんとなく憚られる気がした。今度ちゃんと返そう。奏太はネックレスをポケットにしまった。
夕飯にはホウヤ特製のミネストローネが出た。昔はホウヤはミネストローネを食べなかった。「トマトは生が一番。煮込んで美味いわけがない」の一点張りで、奏太が勧めてもしばらく食べなかった。
「じいちゃんさ、なんでミネストローネ作ろうと思ったの」
奏太はスプーンで具をすくいながら尋ねる。
「うまくなかったか」
「いや、昔食べなかったのになぁって」
「ああ? なんでだっけな……。そうだ、じいちゃん以外な、みんな美味そうに食うからよ、そんなに美味いもんかと思っただけだ」
「みんな?」
「おう。茉耶が小さい頃も好きだった」
「食べてみてどうだった?」
「美味いのか分からんな。トマトはやっぱり生だよ」
そう言ってホウヤは笑った。奏太もつられて笑ってしまった。
「俺は好きだよ。これ」
「いっぱい作ったからな。じいちゃんの分も食え」
奏太はスープを掬う。コンソメとトマトの香りが鼻に抜ける。煮込んで柔らかくなったキャベツがちょうどいい歯応えになっていた。
椀を抱える。スープを飲み干す。暖かさが喉を通るたび、今日の出来事が解れていくような気がした。
「そういえば、夜見坂のおばさんがさつまいもありがとうって」
「そうか」
奏太は二杯目を食べ終えた。体はすっかり暖かくなっていた。
それから、しばらく二人でテレビ番組を見た。司会が喋るとタイミングよく観客や俳優が笑う。奏太は脳に同じ形のボタンがあるのを想像した。それを司会が押すと同じ反応を示す。
「令嬢」にはボタンはあるのだろうか、ふと思った。
9時になると、ホウヤは早々に自室に戻った。外能家で一番早く寝て一番早く起きるのはホウヤだ。
「早く寝ろよ」
「うん、おやすみ」
「こたつ消すの忘れるなよ」
「はいはい」
「あとそれから」
「何?」
「奏太、夜見坂の嬢さんと仲良くしてやれよ」
奏太が返事をする前に、ホウヤは寝室へ行ってしまった。
一度も喋らない彼女とどう話せばよいだろうか。答えはすぐに出なかった。
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