夜会




 ――その正装ふくを着てくれ。


 夕刻を少しだけ過ぎた頃、そう言い残した青年は、きっかり一時間後に再び部屋に訪れ、言われた通りに白を基調にした薄青の正装に袖を通した少年に「へぇ」と吐息を零す。

「ちょうどいいね」

 寸法が。

 まじまじと少年を眺め、頷いたザインは、その綺麗な造作の顔に満足気な笑みを広げる。

「思ったよりも似合っている」

 褒め言葉を受けて正装を押し付けられて挙動不審な程戸惑っていたリルは、きょとんと目を瞬かせた。

 暁に飲まれかけた黄昏色の礼装を身に付け、ご丁寧にも服と同じ意匠を凝らした帽子も被っているザインを見上げる。

「そう?」

 聞き返してきたリルにザインは、口端を少しだけ持ち上げた。さっきと同じように頷いてみせる。

「似合っている。もしかしたら黒よりも茶色の毛並みの方が色栄えがいいのかな」

「黒って……まさか」

 語尾を振るわせた少年に、黒髪の王子は、にんまりとした。

「この私でも可愛い時代っていうのはあったんだよ?」

 東の大陸、その南西に位置する大国。

 犬族の老王の一人息子であり第一王位継承者であるザインの隠さない豊かな毛並み揃う尾の先が軽く揺すられるのを見て、リルは、はたと我に返った。

「笑うの?」

 青年は肯定するように息を漏らした。

「では、出かけようか」

 さもそれが当然と差し出された手に少年は、そろり、と青年を上目遣いに見上げる。眉間に皺を寄せた、怪訝な表情。

 感情を素直に表に出すようになった少年を見下ろしたザインは、差し出した時と同じように、そっと手を引いた。

「リル」

 名を呼ばれ、手ばかりに気を取られたリルはびくりと肩を震わせた。

「では、行こうか」

 言って少年に背を向けて歩き出したザインに、リルは慌てた。

「行くってどこに?」

 リルにと宛がわれた部屋は寝台以外の調度品は一つも無く、壁は全面白一色に統一されていて、勿論扉も白い。

 白く塗られた取っ手を掴んだまま、早足で隣りに並んだリルにザインは僅かに首を傾げた。艶やかに長い黒髪が、肩口を音を立てて滑り落ちていく。

「おや。猫族の王子様はピンと来ないのかい?」

 ザインが大国の王の息子なら、リルは亡国の王の息子で、その大国の王の手によって殲滅させられた一族の生き残りは、とてもとても複雑な顔で余裕に笑みすら浮かべる青年を見上げる。

 睨まないのは、その悲劇が少年にとっては幼き日の遠い昔話でしかないからだ。

 だから、余計、そう、複雑なのだ。

「ザインの誕生日とか……じゃないよね。笑わない、で」

 推測を口に出しかけて、その先の答えを予想し笑い零す青年に、リルはムスりとする。

 当時のリルはとても小さい上に幼く、正装というよりも普段着ているものより綺麗で色形の格好の良い服という印象の方が強く、それを着ていたのは自分や妹の誕生日の日くらいという、おぼろげな記憶しかない。

 ザインの誕生日は知らないが、この反応を見ると、誕生日の祝い、というわけではなさそうで。

 リルは、やはり、複雑そうに唇を噛んだ。

「そう、だねえ」

 取っ手を掴んだまま、左手を口元に当てて、ザインは実に楽しそうに横目でちらりとリルを眺め、一度軽く頷いた。

「でも、あまり変わらないかも」




 王室から中庭へと続く回廊。

 白塗りの壁には国旗と民族色の強い色とりどりのタペストリーが飾られ、等間隔に蝋燭の明かりが灯る燭台と意匠の凝った花瓶等の陶器類が置かれ、大きく刳り貫かれた窓は全て開け放ち、夜風に流れて中庭に咲き乱れる白薔薇の芳香が迷い込み、満ち溢れる。

 窓はリルの背丈より少しだけ高い場所にあって、残念ながら外を見ることができない。ただ、花の香りと一緒に風に乗って届けられる人々の声に、少年は忙しなく耳先を動かした。

 白い部屋から出ることを禁じられているリルにとってあの部屋から出たのはこれで二回目。

 長い回廊は目の覚めるような純白。

 けれど、多彩な色混じって、窓があって、風が流れ込んで、良い匂いがして、人の声が聞こえる。外の音が聞こえる。抑え込まれていた心が開放されて歩を進める足は次第に軽くなっていく。

「リル」

 呼ばれて、リルは振り返った。

 その自分の動きに、少年は思い出した現実に、ぎょっとした。

 振り返ったということは、自分の名を呼んだ人間は自分の後ろに居るということ。それは捕虜という立場の者が決してやってはいけない行動である。

 箱に押し込められていたときのように燻らず、色鮮やかに現実を感じ取れるリルの視界の数歩先で、実母である亡き王妃を凌ぐ美貌を持つ黒耳の大国の王子は、白薔薇の香りを纏いながら微笑み佇んでいた。

 その、怒りを含む微笑。

 ザインの機嫌の見方は白薔薇と赤薔薇の見分け方と似ている。そう話してくれたザインの側近の言葉。

 白と赤の、所詮は同じ花。その違いを安易と取るか、困難と取るか、その時点で判断に狂う。

 リルは自分と彼との関係を、心臓を鷲掴みにされた気分で、何故たったの数秒でも忘れてしまったのだろうかと後悔した。

 こつ、と。ザインの靴音が廊下に響く。

 こつ、こつ、こつ。と、わざとらしく音を出して近づいてくる、黒犬。

 薄紅の塗られた微笑の形の唇の向こう側に肌よりも白く鋭い牙が並んでいることをリルは知っている。

 人気の無い回廊。使用人は皆、宴の準備に奔走しているのだろうか。

 王族は皆会場に出払ってしまったらしい。ザインのことだ、時間をずらして行動しているのだろうことは明白で、この場にはリルとザイン、二人しかいない。

 叫んでも、きっと、聞こえないのだ。外はまさしく宴の真っ最中なのだから。

 じり、と心が焦る。

 たったの数歩。近づき過ぎて見上げなければ彼の顔が見れないリルは、吊り上り歪んでいく紅を震えだす拳を握り締めて見詰めた。

 先に振り上げられるのは、手だろうか。足だろうか。

 目は瞑らない。

 恐怖が増してしまうからだ。

 じっと見ていたほうがマシとザインの次の行動を息を詰めて見守っていたリルだが、彼が手を動かすのを見て、結局は力一杯に瞳を閉じてしまった。


 シュ。


 と、音が聞こえた。大気が微かに動いた気もする。

 突如、濃くなった白薔薇の香りに驚いたリルの口内目掛けて、ザインはもう一吹きと香水瓶を動かした。

「げほ、げほげほげほッ」

 香りの塊そのものをまともに飲み込んでしまったリルの、その慌て様に「ふふ」とザインは笑いを零した。

「それは私の香水だよ」

 言うと、楽しくて仕方ないと言う顔でザインは小さな小瓶を隠しに仕舞う。

「今夜のはね、父上自ら仕切っている」

 激しく咳き込むリルの片手を取って、ザインは歩き出した。

「父上は昔から猫族が嫌いなんだ。さて、匂いはこれでなんとかなるだろうし」

 ただでさえ匂い混ざる会場。息子と同じ香水を使えば、その場限りだが老王の鼻は誤魔化せる。

 あとは、と呟いてザインは被っていた帽子を手に取った。

「耳は、これでいいかな」

 淡い黄昏色の帽子を頭に押し付けられたリルは、けほと咳き込みながら涙目でザインを睨んだ。色素の薄い薄茶色のくしゅくしゅの短い髪は光を孕むと金色の艶を帯びて、黄昏色の帽子が良く似合って、そんな彼に、ザインは「秘密ね」とご機嫌に片目をつぶったのだった。




「リルは、社交界の世界は知らないんだよね?」

 人々のざわめきが大きくなってきた。大量の蝋燭の明かりで暖かくなった大気と、風に乗せられた料理の香しい匂い。

 見えなくても、会場が近いのがわかる。

「社交、界?」

 ザインに手を引かれて並んで歩いていたリルは青年を見上げた。

 首を傾げられて、当然かなとザインは頷く。

「そう。たくさんの王族や貴族達の大掛かりな交流会さ」

 交流と聞いてもピンとこないリルにザインは、んーと小さく唸り、に、と笑うように唇の両端を持ち上げた。

「リルは踊らなくてもいいよ。勿論、お酒も勧められたら断ってもいい」

 踊り?

 酒?

 単語はわかる。けれど、この場にどうしてそれが出てくるのがわからなくて、リルの頭に張り付く疑問符は増える。

「食べ物で嫌いなものはある? お菓子は好きだったよね。特に焼き菓子」

 飲み物は何にしようか。南で手に入った珍しい炭酸水もあるはずだよ。リルは飲んだことある? などと語る青年についていけないリルはずっと握られた手に視線を落とした。それに気づいたザインは一瞬だけ少年の手を導く己の手に力を入れる。

「離れては駄目だよ」

 押された念に、リルは驚き、ただただ目を瞬く。

 それは少なからず、守る、という行為。

 自分の捕虜であるリルを勝手に部屋から連れ出し、猫族を毛嫌いしている父が主催している夜会に紛れ、秘密だと言っておきながら、一番目立つ自分の傍にリルを連れ添わせる。

 言っていることとやっていることがめちゃくちゃだ。

 だが、矛盾しあって、破綻している言動はいつものこと。

 青年の支離滅裂な考えが理解できないのもいつものこと。

 全部やっと慣れ始めたのに、また、わけがわからなくなった。

 弟扱いされていると気づいたのはこの夜会が終わって数日経ってからだった。

 それでも屈折していることに変わりは無かったけれど。




 犬族を束ねし老王が主催する夜会は、息子のそれとは違い、神聖で厳かで、贅沢の限りを尽くした眩まんばかりな権力の象徴そのもの。

「今夜は月が綺麗だ。さぁ、宴の幕は上がりきっている。夜の女王の膝の下、敬意を示して今宵は楽しんでくれ」

 広い中庭で、夜空の闇に響く野太く枯れた遠吠えを耳にして、リルはびくりと怯えた。

 老い先短いと笑い飛ばせない年齢なのに、現役そのままの力強さを声だけで他者に示す父王に相変わらず退位とは無関係らしいとザインは苦笑した。

 姿見えぬ老王に怖気づいたリルの手を改めて握り締めて、身を屈めたザインは少年の耳に唇を寄せる。

「では、私達も私達なりに楽しもう」

 怖いのは最初だけ。

 人見知りする君も、煌々と夜(世)を照らし出す月明かりに包まれて、中庭一杯に灯された明かりに目を奪われることだろう。自然の星屑シャンデリアを見上げて、風に運ばれる白薔薇の香りを胸いっぱいに満たす。

 美味しい料理を食べよう。

 甘い飲み物で喉を潤して、陽気な楽団の演奏に、リズムを刻むのだ。

 美を凝らした淑女達に目を奪われながら、紳士達の礼儀正しさに我が身を振り返る。

 自慢したい正体を隠した猫族を談笑を混じらせながら皆に見せびらかし、眉を顰める二つ名を頂く犬族の王子は機会を伺う人間達に目を光らせる。

 刻々と時は過ぎ。

 徐々に熱気は盛り上がった。

 醒めぬ夢の熱病にかかりながら、リルはザインの名を呼んで、彼の手を引いた。

 あっちに行きたい。こっちに行きたい。

 あれが食べたい、これは美味しいの?

 あっちは駄目。こっちには父上がいる。

 それが食べたいの? 勿論、美味しいさ。

 弾む会話、駆け足になる足。あれもこれも初体験。楽しいことは楽しいのだ。心拍数は興奮している分だけ上がって体が熱を持ち始める。上気した頬で、けほ、とリルは咳を零した。

「リル?」

 けほけほと続く咳を両手で受け止めながら、はしゃぎすぎましたとリルは赤くなった。リルの体は昔からあまり強くない。ちょっと走っただけで息が切れてしまう。

「楽しい?」

「ええ。楽しいです!」

 目を輝かせて答えた少年に、青年は、それはよかったと頷いて、

「誘った甲斐があったね」

 艶やかに笑った。

 リルは、ハッとする。

 白薔薇と赤薔薇の見分け方。

 その方法が少しだけわかった気がした。




「そりゃぁ、息抜きも必要だよね」

 中庭の東屋で午後の一時を楽しむザインは側で控えている側近に淡く微笑んだ。

「君の提案には最初驚いたけど、そうだよね、息抜きは必要だよね」

 日差し柔らかな晴れ日。陽気に暖まる空気と吹き抜ける風の涼しさとの寒暖の差は肌に心地良く、ザインは知らず目を和ませる。

「普通捕虜ってのは陰気な顔つきになってこっちも憂鬱になってしまうけど、あんなにはしゃいでいるリルを見るのは初めてだったよ。誘った……君の提案に乗った甲斐があったていう所かな」

 上機嫌で饒舌に語るが、側近である彼は無言のままだった。それを良しとし、ただの独り言になっていく自分の言葉を見送るように視線を流し、ザインは首だけを動かした。

 その視線の先にはただ一人ザインの護衛を担う狐族の青年が無表情のまま控えている。

「流石元従者、って所でもあるよねぇ」

 主人の扱いには手慣れている。

 皮肉めいた口調にも無表情は無表情な側近にザインは至極愉快そうに唇を歪めた。

「ま、また提案があるならいつでも言ってよ。元気すぎるのもよくないけど、リルに死なれても困るからね」

 既に滅んだ国の生き残りを捕虜として手元に置いて、その捕虜の従者を側近に侍らせて、大国の世継ぎは何を考えているのか、その満面の笑みの中では何一つ悟らせるようなものはなかった。

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