朝靄の殺人者(あさもやのさつじんしゃ)
岩幸
第1話 戦慄の朝
青白く昇った朝陽は逆光となり、背中越しにその姿を照らした。
仁王立ちとはまさにこの事を言うのだろう。さほど大きくない体の稜線を強烈な光が真後ろから映し出した。
眩しさに幾分目が慣れた僕は、視線を足下に降ろした。そこには不自然に横たわった人から夥しい量の血が流れていてあたり一面が真っ赤に染まっていた……
父の存在がなくなって我が家の状況は一変した。パートだった母はフルタイムで正社員として新たな職に就き、中学校に入学したばかりの僕は新聞配達を始めた。母ひとり子ひとりで、決して大きくはないが持家の我が家は、父がいなくなっても生活が苦しいという事はなく、新聞配達も家計を助けるというより、父がいた頃は普通に買ってもらっていた物を自分で買いたいから始めたようなものだった。
1979年6月、その日も朝5時に起きて僕の一日は始まる。新聞少年の朝は早い。クラスの殆どが夢うつつの時間に家を出る。
中学生にとって睡眠ほど大事な時間はない。毎朝が眠気との闘いだ。僕の部屋は2階にあり、下で寝ている母を起こさないようになるべく大きな音を立てないでベッドから起き出すのはなかなか難しかった。
顔を洗う時、手のひらにすくった水を縦ではなく顔と平行に洗う癖がある僕は、凹凸がきれいに洗えず、残った目やにが乾いて指で取る時いつも少し痛かった。
僕の通う新聞の販売店までは自転車でおよそ15分。中一から始めてもう二年ここへ通っている。『曽我原新聞販売所』ここには瓶の底のような眼鏡をした、販売所のみんながおっちゃん、おっちゃんと親しんでいる60過ぎのあるじがいて、休む間もなくみんなが配る各ルートの新聞の準備や、チラシの折り込み作業を何人かの成人した従業員と一緒にテキパキとこなしている。
おっちゃんはすごく優しくて、怒っているのを見たことがない。僕が寝坊した時なんかは、わざわざ僕の家まで配達分の新聞を届けてくれた事もある。
販売所ではおっちゃんが「〇〇君、昨日誤配があったよ。気をつけて!」とか「〇〇君、今日は新しい子にルート教えてあげてよ」と甲高い声のアドバイスが響いて、配達員を送り出した。
配達員は僕を含めて10何人いたが女性はおらず、みんな男ばかりだった。
同年代の配達員もいるにはいたが、お互い軽いあいさつを交わす程度で、会話は無く、そそくさと自分の配る新聞を自転車やバイクに積んで出発する。
僕の配る部数は約120部、全国紙ではなく地方新聞なので、配る家々は割と密集している。
まず自転車の前カゴに半数ほどの新聞を丸めて入れ、残りはビニール製の黄色いカバーにくるんで荷台にゴムで結えた。
僕の配るエリアは市内の繁華街から少し外れた所で、昔の赤線街いわゆる女郎屋が多くあった地域で、今はソープランドとラブホテルがひしめき合った歓楽街である。
夕方になると何色ものネオンがギラギラして、呼び込みや立ちんぼのおばさん達がウロウロして、とても子供の僕が気軽に歩ける場所じゃないが、早朝は静まり返り、人通りもない。
ソープランドやラブホテルのほかにも、昔ながらの木賃宿や古いアパートも多かったりで、独特の雰囲気があり中二の僕には薄気味悪いエリアだった。体格には恵まれていたが臆病な僕はいつも自転車を止めると小走りで新聞を配って回った。
ソープランドの入口の盛り塩でさえ意味を知らない僕には、変なまじないに思えて気持ち悪かった。
早朝とは言っても、場所柄ラブホテルから男と女がいちゃいちゃしながら出てきたり、安アパートからスケスケのネグリジェを着た女が泣きながら飛び出してきたのに出くわした時なんかは、「うわぁー!」と思った以上に大きな声でびっくりしてしまい、目のやり場に困った事もある。
秋から冬にかけては配達の終わる6時を過ぎても真っ暗なので、余計に気持ち悪く怖い感じだった。
その日は6月にしては肌寒く、僕の配達エリアのほぼ中央を流れる鏡川に靄がかかり、町全体がうっすら霞んだ朝だった。滑り止めのついた軍手を両手にはめて、僕はいつものように小走りで新聞を配っていた。7軒あるソープランドの6軒目『来夢来人』に向かうその時だった。
「ぎゃーっ!」という断末魔の叫び
が聞こえた。これまでも物騒な町だから酔っ払い同士が取っ組み合いのケンカをしてたり、見るからにヤクザっぽい人が女性に手を上げてたりといった現場には遭遇した事はあったが、それとは明らかに違う町中に響き渡る程の悲鳴であった。
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