第2話
剛介と伊都が連れ立って東山へ向かったのは、その数日後だった。学生の身でという遠慮はあったが、清尚に「東山で伊都と出湯に浸かってきます」というと、あっさり許しが出た。丁度剛介が先学期、丸山家の短期間の労務の手伝いをしてきた駄賃が手元にあり、伊都と東山に一泊してくる位の小金はあったのである。
清尚は取り立てて子供の事を言わなかったが、結婚してからも若夫婦に子供ができる気配がないのは、気にしていたのかもしれない。
東山温泉は伊都も何度か来たことがあり、馴染みの場所である。珍しく剛介も寛いだ様子で、伊都にあれこれと話しかけてくれる。
「東山には、遠藤家の皆さんもよく来ていた?」
「はい。敬司兄様は、芸者にちょっかいを出して、父上に叱られていたと記憶しています。
伊都の返答に、剛介が思わず吹き出した。剛介の前では切れ者の敬司だが、どうやら若い頃から女と遊ぶことに長けていたらしい。それを一番下の妹は、しっかり把握していたということだ。剛介より一つ年長だったという二番目の兄を伊都は失っていたが、その思い出は決して悪いものではなかったようだ。
その流れで、せっかくだからと、二人で芸者のお座敷も少しだけ見物した。男だけで湯に入りに来れば遊女が
遊女の芸が終わると、二人は男女に別れた出湯に入りに行った。
女湯の垣からは
「お姉さん、城下の人?」
湯に浸かっていると、一人の女が話しかけてきた。どうやら、先程剛介と見た謡の女らしいと伊都は気づいた。
「はい」
「いい旦那様だね」
「はい?」
「お座敷の間、奥さんしか見ていなかったでしょう、あの人。うちらは商売上がったりだったよ」
遊女は、くすりと笑った。
「そうなんですか?」
伊都も剛介を気にしてばかりいたから、それが当然だと思ったのだ。
「今晩、思いっきり可愛がってもらうんでしょう?」
さすがは遊女である。男女の情事の事を指しているのだと気づき、伊都は顔を赤らめた。あからさまに言われると、恥ずかしい。
「剛介様がその気になれば、ね」
「こんな綺麗な奥様がいて、その気にならないなんて男じゃないでしょう」
「ちょっと、聞こえるじゃないですか」
女湯の下の方には、一段下がったところに男湯がある。男湯から女湯を見ることは出来ないはずだが、男湯の逞しい背中は、柴垣の隙間から微かに見えた。そっと柴垣を分けてみると、男たちの体躯に混じって、剛介の小柄な体がちらりと見えた。その背には、大きな火傷の跡がある。何でも、
「もうそれだけ胸もあるんだし、お綺麗なんだし。旦那様が夢中にならない方がおかしい」
遊女はそう言うと、やおら伊都の胸元に手を伸ばしてきて、そのまま伊都の胸をなで上げた。女同士と言えども、色っぽいその仕草に、伊都は思わず声を立てた。
「あら、反応も悪くないんじゃないの」
「やめてくださいって」
伊都の反応を見て、遊女は思わず吹き出した。眼の前の女人は、自分でその魅力に気づいていないらしい。
少女時代を卒業して今にも花開こうという風情は、男を魅了して止まないだろう。
「剛介さんって言ったっけ?旦那様のお名前」
「ええ」
「小柄だけれど、目がいいよねえ。いつも、姉さんのことを可愛がってくれるんでしょう?」
伊都は、曖昧な笑みを浮かべた。伊都もいつまでも子供ではない。剛介の体に触れるだけで満足できなくなっているのが、このところの悩みなのだ。夫は時折伊都と臥所を共にして伊都の体を抱きしめてくれるが、たいていはそこでお終いである。
剛介に抱かれたい。そう願っているのに、剛介は疲れているのか、その気にならないのか。その心中は、伊都にも謎だった。
「男の人が女を抱きたがらないって、私、そんなに魅力がないんでしょうか」
思わず、遊女に本音を吐露した。
遊女は束の間きょとんとしていたが、伊都の事情を察したか、何事か耳に囁いた。
「そんな真似、恥ずかしくって……」
「やってごらん。姉さんの魅力は、絶対にご主人にも効果があるはずだから」
その商売の達人らしい助言を受けて、伊都はこっくりと肯いた。
女達のきゃあきゃあ言う言葉は、下の湯にいる剛介の耳にも届いていた。伊都の燥いでいる声も届き、女達と夜の話をしているらしいと気づくと、自然と顔が赤くなった。
一体妻は何という話をしているのか。
「賑やかですな」
一緒に湯に浸かっている男たちは、女達の賑やかな声に耳をそばただてていた。
「どうやら旦那と一緒に来たらしいな」
剛介は、体を洗い終わった後、黙って湯に浸かっていた。まさか、女達の話題に上っている「剛介様」がこんなに若いとは思わないのだろう。
「でも、旦那というのがどんな顔をしているのか、見てみたいもんだな」
一人が揶揄するように笑った。それを聞いた剛介は、今湯に浸かっているのが、その旦那なのだと心中ごちる。
「あんな若い嫁だったら、さぞかし抱き心地もいいだろうな」
その言葉を聞いた途端、剛介は顔が強ばるのを感じた。伊都にちょっかいを出そうとでもいうのか。冗談ではない。思わず、顔をざぶざぶと洗う。
剛介の憤懣にお構いなしに、男たちの会話は続いている。
こちらも、なぜか夜の話になっていった。女も古びてくると、男の意のままにはならなくなる。男がその気がないのに、無理やり抱かれようとするのは、興ざめだ。だが、男にされるがままになっているばかりで寝ているだけというのも、可愛げがない。
「なあ、兄さんもそう思うだろう」
唐突に話を振られ、剛介は困惑した。
「いえ、私はそうしたことはまだ未熟で……」
伊都を抱きたい気持ちはあるのだが、結婚してからも、家には舅である清尚がいる。清尚が横に寝ているところで伊都を抱くのも憚られ、初夜を除けば、伊都を思う存分抱くのを遠慮していたのだ。
そもそも、色恋の話題は元より苦手だったし、普段の学友同士でも夫婦のことは話しにくい。剛介は同級の中でもかなり早く結婚した方であり、あの芳賀などは「やはりそうなったか」と嘆いたものだった。
「兄さん、女を知らないのかね?」
一人が剛介をからかうように、笑いかけてくる。
「知っていますよ」
馬鹿にしないでください。思わず反射的にそう答えた途端に、伊都の柔らかな体を思い出した。伊都の体は近頃ますます女らしさを増し、夫の剛介ですら見惚れることもある。だが、剛介自身があの柔らかい体を抱くのかと思うと、未だにこそばゆいような恐れ多いような、妙な気分になるのだ。時折、流し目をこちらに向けてくることもあり、その誘惑をかわすのは並大抵のことではなかった。
今晩は、さすがに臥所を共にすることになるだろうが、伊都は、自分の腕の中でどのような反応を見せるだろう。そう思うと、下半身に疼きが走る。この感覚には、覚えがあった。
その剛介の下半身にちらりと目をやると、男は意味有りげに口元をひしゃげた。
「ふうん」
まったく、出湯は人を開放的にする魔力があるらしい。手拭いで下半身を隠すと、剛介は慌てて湯から立ち上がった。
湯から上がると、男女別の出湯の入り口にある長椅子で、伊都はぼんやりと腰掛けていた。先程の遊女と話して、どうせなら「旦那をその気にさせてやれ」ということで、浴衣をいつもよりもほんの少し、項がむき出しになるように着付けてもらったのだ。今は、剛介が湯から上がるのを待っている。
自分の体がまだ微かに子供っぽさが残っているのは、自覚があった。だが、剛介と結婚して以来その体つきも丸みを帯びてきて、近頃は登美子のようにめりはりのある体つきへ、変わっている。
「姉さん、一人?」
見上げると、二人の男が下卑な目つきでじろじろと伊都を眺めている。久しく、剛介以外の男に声を掛けられたこともなかったから、戸惑うばかりだ。
「いえ、夫を待っています」
ためらいながらもそう答えると、男のうちの一人が鼻を鳴らした。
「作り話はいいよ。これから、俺たちと一緒に飯でもどうだ」
困ったな、と伊都は眉根を寄せた。遊女に教えてもらった出で立ちは効果抜群だったが、剛介以外の男に効果を発揮しても、仕方がない。
そこへ、背後からふわりと何かを掛けられた。男物の丹前だ。振り返ると、険しい顔をした剛介の顔があった。
「うちの妻に、何か御用でしょうか」
声も、いつになく尖っている。
「あ、いえ。ご主人がいらっしゃったのならば。なあ?」
明らかに怒っている剛介の雰囲気に恐れをなしたのか、男たちはそそくさと退散した。
「剛介さま」
日頃穏やかな剛介が怒っているのは、伊都も初めて見た。
「もしかして、妬いていらっしゃる?」
おずおずとそう尋ねると、ふいっと顔を背けた。
「少しは、自覚してくれ」
剛介はそう言うと、伊都の手を引いた。
その言葉に、伊都は顔を俯かせた。どうやら、剛介は妻の湯上がり姿を他の男に見せたくないらしい。その事実に気がつくと、俯きながらも、伊都は忍び笑いを隠せなかった。
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