暢子
@wakumo
第1話 裸婦
大学校内の昼下がり、窓越しの日差しが暖かく、長く差し込む彫塑室には、提出作品の中間報告のために集まった学生の声が響いていた。
先月から始まった新しい作品づくりのディスカッションをする学生たちの闊達な声。順調に進んでいる者も、行き詰まっている者もそれぞれに熱がこもっていた。
浜田教授の彫刻家特有の彫りの深い顔、説明する時の大袈裟な動きをいつまで経っても見慣れない。先頭の席で激論を交わしている同級生の横顔を時々目で追いながら、真っ青に晴れ渡った小春日和の空に、ゆっくりと流れ過ぎて行く白い雲をぼんやりと眺めていた。
同級生の激論は必ずしも自分の作品に反映しない。ただ、漫然と眺めているその動きも心の何処かに刺さっているのではと思っている。
暢子のそれほど積極的でない性格は、自分の出番にならないと発揮されない。その他の時は、ボッーとしているか、何かに打ち込んで近づき難いかのどちらかで、周りに放ったらかしにされることが多かった。その方が居心地良かったし、目立たないことで自分のやりたいことがやれる気がした。
一心不乱にオモチャに打ち込む子供のような、取り付く島のない性格だった。
授業を終えると何度も腕時計に目をやりながらロッカールームへと急ぐ…
細かいことにはいちいちこだわらないおおらかな性格の暢子だったが、時間にだけは慎重で、待ち合わせには遅れないように早めに出かける事を習慣にしている。時計の動きを気にしながら着替えを急いだ。
石膏や粘土があちこちにこびりついた年季の入ったツナギは高校時代から使っているもの。その実習服を脱ぎ捨てると、小綺麗な私服に着替えて鏡の中の髪を整えた。天然のウエーブの軽くかかった髪。柔らかく跳ねる額の髪の癖が朝から気になっていた。
細身のジーンズの似合う長い脚で一気に駆け下りる階段の踊り場、一面の大きな高い窓越しに見上げるポプラの木は、残り少なくなった葉を風にはためかせて、ガラスのキャンパスに寒々と枝を伸ばしていた。
渡り廊下を忙しく歩く背中に、二階から聞き慣れた声が降りてくる。
「暢子これから付き合わない?」
友達の理子が、製図室の窓から顔を出して暢子に声をかけた。
「駄目、今からバイトなの!」
「また、あのバイト…」
少々嫌気がさした顔で宙を見つめた理子がため息をつく。
「次から次からよく見つかるもんだね」
と、半分ヤケクソで叫んだ。
「だって、引き受ける人あんまりいないんだよ〜」
説明にもなってないけどそれが実感だった。最近の暢子は仕事の依頼が多く、親友の理子と遊ぶ暇もないほどいつもバタバタと飛び回っていた。頼まれると嫌と言えずなんでも引き受ける暢子のことを、真面目な理子は、肝心な制作がおろそかになりはしないかといつも心配していた。
「そうなの?AVとか写真集に出る人、めちゃくちゃ多いじゃないよ〜」
暢子はその言葉に弱い…
「そういうのとは違うんだな〜こっちは結構地味だからさ。骨も折れるし…」
最後の方は尻切れトンボ気味に声が小さくなった。
そう、理子が思ってるほど簡単な仕事じゃない。サークルや貧乏学生相手のモデルは、収入が良いわけでもなかった。
「ふうん、いいや、じゃあね」
「うん、また後で」
そう言うと暢子は手を降ってバイト先へ向かった。
今日から始まる新しい依頼場所を探して歩き回る。
余裕を持って学校を出てきたはずなのに、FAXで届いた地図は肝心なところがぼやけて、目印が見つからない。
方向音痴の暢子は、新しい場所に出かけると決まって何度も迷う。そのため、ついた頃には結局、丁度いい時間になってしまう事が多かった。
「町田ビル、町田ビル。あった!あった!ここだ」
大通りから細い路地を一本入ったところでようやく見つけたレンガ造りのビルは緑の多い国立の町並みに溶け込み悠久の時の中、何かが封印されたように静かに佇んでいた。
「『下里美術研究所』か〜何かものものしい看板だなぇ〜」
古ぼけて埃っぽくなった看板に、力強く彫り込んだ文字で下里美術研究所と書かれていた。古いビルには蔦が絡み、しみじみと見上げずにはいられない。扉を前に、電話で対応した依頼者の声を思い出してしばしば想像する。この扉の中にまた新しい暢子の仕事が待っていると期待が膨らんだ。
ふと横を見ると、ビルの横の駐車場には、車の荷台にストーブがいくつも積まれた藍色のバンが止まっている。芝生の剥げた駐車場から入口に続くエントランスの踏み石が、不規則に並んで三色の心地良いリズムを作っていた。
暢子は深呼吸をした。重たい木製の扉を細めに開けて中を覗く。…ギイと年代物の錆びついた音。中には忙しそうに掃除をしている男が一人。振り向いて暢子を見付け、
「あ、如月さんですか?宜しくおねがいします」
と、如才なく挨拶した。
「あ、どうも…」
人付き合いが苦手そうなギクシャクした雰囲気なのに、無理してか愛想よく振る舞う。不器用を絵に描いたような30前後の華奢な男が暢子に頭を下げた。
「どうぞどうぞこっちへ。僕も今来たところなんです。急いで支度しますから、待ってて下さい」
「はい、お邪魔します」
そういう暢子に椅子を勧め、男は外に出ていくと、ストーブを抱えて何度も部屋と外を往復し、会場の中に運んだ。全部で4つ。
「もうすぐ仲間が来ると思います。そしたら…始めて下さい」
穏やかな男の言葉使いに暢子はホッとしていた。
「あの、下里さんて言うんですか?」
「え、下里?なんですかそれ?」
「何ですかって外に看板…」
「看板…ああ、看板?気づかなかったけど、昔此処使ってた人の看板かな〜」
男は頭をかきながら天井を見上げた。
「昔、此処って…そんな前からそれ専門だったんですか?此処」
「専門、それは知らないけど…知人に、裸婦デッサンしたいんだけど適当な場所を知らないかと聞いたら、此処を紹介してくれたんです」
男は照れて赤くなる。
「ああ、そうなんですか」
男の緊張が連鎖して暢子も赤くなる。
「あ、そろそろ時間ですね」
男は暢子と二人でいるのが耐えられない様子で、腕時計に目をやり時間を確かめた。
「はい、解りました」
暢子は椅子の陰に回ると、男に背中を向けてコートを脱ぎ、一気に下着になった。それはジャングルの真ん中で自然を相手に振る舞うような、周りのことなど全く気にとめないサバサバした様子だった。
「そんな露天風呂にでも入るような気っ風の良い脱ぎ方ですね」
びびる男の顔を見て、暢子は不安を吹き飛ばすように、
「あ、仕事ですから」
と、答えた。モジモジしているとそれはそれで恥ずかしい。脱いだ服をさっとまとめて、用意してきたガウンを羽織った。
「あ、章介と言います。僕、榎並章介です。今回このデッサン会の代表をします」
と、自己紹介をした。
「あ、はい。宜しくお願いいたします」
「月に何回か皆んなで集まってデッサンしたいなって、ずっと、前から言ってたんですよ」
と、顔を赤らめてバタバタとストーブに火を入れて回った。
「裸婦デッサンしたことないんですか?」
素朴な疑問だが、聞かずにはいられない。
「大学の講座で、一、二度は、僕は風景が好きだったんで、人物はあんまり」
「ああ、風景画、道理で…」
真っ赤な顔をしているわけだ。と、暢子は吹き出すのを堪えた。
「え?」
「いや、何も」
その時入り口が開いて、黒い革ジャンを着て大きなカルトンバックを抱えた、背の高いお世辞にも好感が持てるとは言いにくい男が入ってきた。
「あ、友達の有吉と言います。今回の同好会のメンバーの一人です」
暢子は軽く頭を下げると、全身を黒で包んだ有吉の、上着の胸に金で縫い込まれた派手な鷹の刺繍に目が止まった。
裸婦モデルの依頼は、美大の先生の紹介や友達を通して頼まれることが多い。身元は確かだと分かっていても初めて会う時は仕事が仕事だけに相手がどんなサークルかと緊張する。今回は最初に見かけた章介の人の良さそうな様子にホッとして、一癖ありそうな有吉にも怯まずにリラックスできた暢子だった。
「何人くらい集まるんですか?」
と、尋ねると、
「10人くらいになると思います。女性もいます。夫婦で絵を描いてる友達もいるんです」
と、章介が穏やかに答えた。
それから3人で雑談していると、人がドヤドヤっと入ってきて、久しぶりの再会に沸き立ち、その後それぞれの位置について木炭紙を広げ始めた。
暢子は言われるままにいくつかポーズを取り、デッサンが始まった。
白い木炭紙に少しずつ暢子の裸体が写し取られていく。細部も見逃すまいと沢山の視線が暢子の体に注がれる。静けさと木炭や布のこすれる乾いた音が暢子の緊張感と集中力を高めていく。
榎並章介は、この会を取り仕切り、準備の段階からそこにいた割にはかなり要領の悪い男だった。ほとんど背中しか見えない妙な位置でしかも真っ赤になりながら木炭を走らせていた。ストーブを4つも焚くほど寒いと思って来たんだろうに、額に薄っすらと汗までかいていた。
時間と空間に縛られて身動きが取れない。暢子の視線は会場の雰囲気と一体となって一箇所に集中する。このゾクゾクとするような感触に包まれる時、暢子は全てを超越して伝説のビーナスになる。それぞれの木炭紙の上にビーナスの裸体が刻まれる。
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