【余話】夢に奪われた

 言葉の通り彼女は本当に眠っているようだった。

 白い肌に影を落とす長いまつ毛は今にも震えて宝石のような瞳を覗かせるのではないかと思わずにはいられない。

 彼女の表情はとても穏やかで幸福そうに見えた。


「夢に、とられたんだ」


 彼女の父親が呟いた。


「いつか、こんな日が来る気がしていた。

 この子が手の届かないところに行ってしまう、そんな気がずっとしていたんだ」


 彼女を誰よりも慈しみ守ってきた手が花に埋もれるようにして眠る彼女の頬を撫でて唇を噛む。こぼれ落ちた嗚咽につられるようにすすり泣く声が響いた。


「……花を、手向けてあげて」


 彼女の母親の声に手に取った白い花に視線を落とす。

 痛まし気な視線が突き刺さる中、一歩また一歩と足を進める。

 彼女へ近づけば近づくほどに足が重くなり手が震えた。


「ユリア」


 自然とこぼれ落ちた音が世界を止めた。

 鮮やかに色づいていたはずの世界が急速に色彩を失い、白と黒だけが残る。

 彼女は触れられる距離にいる。それなのに伸ばした指先から伝わる熱がない。

 指を伝う冷たさは彼女がもう手の届かないところに行ってしまったのだと知らしめる。


「ユリア」


 声が震えた。

 彼女は確かにここにいる。手を伸ばせば触れられる距離に。

 彼女が愛した花々に埋もれるようにして眠っている。

 なのに、彼女はもう、いない。

 名前を呼んでも応えてくれない。

 手を握って握り返してくれない。

 涙を流しても叱ってくれないし、慰めてもくれない。


「夢に、とられたんだ」


 あの夢に。幼い頃から彼女が繰り返し見ていたあの夢に。

 そうでなければ、こんなに穏やかな顔をしているはずがない。

 こんなに幸福そうにしているはずがない。

 例え、彼女がその夢を覚えていなくても。

 例え、彼女がその夢を忘れてしまっていても。

 あの夢を見ている彼女はとても幸せそうで、聞いたことのない声で誰かを呼んでいた。

 彼女にとっての夢はこの世界だったのかもしれない。

 それでも。


「あいしてる。

 ユリア。君を、誰よりも、愛している」


 誰の耳にも届くことなく空気に溶けた言葉が彼女にだけは届けばいいと願う。


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