第三話

 三月二十七日。硫黄島の朝は、それまでと何も変わらない蒼さで明けようとしていた。急速にその勢力を弱めつつある闇と、地平線の彼方から駆け上がる太陽が描き出すグラデーションの紡ぐ一つの演劇が、人間の作り出した三流の劇など及びもつかない素晴らしさで開演する。日々行われるこの演劇を観る悠長な人間はさほど多くない。彼らには彼らの劇がある。

 しかしながら、この日は少しばかり観客が交じっていた。いや、役者プレイヤーと言うべきかもしれない。海に溶け込むようなグロスシー・ブルーに彩られ、清らかな薄明の大気を野蛮なプロペラ音と窒素化合物で汚しながら突き進む、米海軍の硫黄島攻撃隊162機であった。彼らの接敵時間は5時30分。まだ20分程の余裕はあるが、硫黄島の日本軍が迎撃体勢を整えられる可能性は無いだろう。彼らの偵察機には発見されなかった上に、情報部によれば黄色人種はまだレーダーを持っていないことになっている。もっとも、それは部分的な正解でしか無いのだが。

 

 VF-7「ワスプ」戦闘機隊の第一中隊長、アルバート・クラフス大尉は、海と島影以外何も見えない青空の下を注意深く飛んでいた。高度15000フィート(約4500メートル)を征く本隊(F4Fワイルドキャット36機、SBDドーントレス63機、爆装したTBDデバステーター27機)ではなく、高度7000フィート(約2100メートル)を征く制空隊(F4F36機)に属している彼の中隊は、迎撃に上がってくる(かもしれない)敵戦闘機を迎え撃つ任務を負っている。遥かな高みから奇襲を受けたり、後方からの一撃でパープルハート章を受け取る羽目になる訳には行かなかった。

 (結局のところ、こっちに来なけりゃいいんだ)

 後方視界の悪いF4Fの機内で、苦労して首を回して警戒しながらクラフスは思った。彼の中隊は米軍の中では比較的練度の高い部隊だったが、悪魔のような日本軍ジャップには劣る。ならばこっちの手は一つ。離陸前に破壊するのだ。

 空中進撃速度は約180ノット(320キロ強)と定められていたが、彼はそれを破ることにした。この時点での米軍機の数少ない長所の一つたる無線電話で、配下の制空隊に伝達する。

「クラリネット1よりウッドウィンド・アルファ(制空隊の呼び出し符丁。本隊に付いている直掩隊はウッドウィンド・ベータ)、落伍機は無いな?」

「オーボエ1よりクラリネット1、こちらは落伍なし」

「フルート1よりクラリネット1、こちらも問題無し」

「ピッコロ1よりクラリネット1、揃ってます」

「ヨークタウン」、「ホーネット」、「サラトガ」の制空隊隊長が、それぞれの感情を滲ませながら答えた。「サラトガ」のボルカー大尉の声が暗い。励まそうか、と言葉を発しようとして、彼はあの日パールハーバーにいたことを思い出す。本土で呑気に訓練していた俺には分からないことがきっとあるのだろう。

 けして触れてはならないコアのような物の存在を感じ取ったクラフスは、もう一度周囲を見渡して安全を見出だすと本題を切り出した。

「俺たちは少し加速する。速度を200ノット(360キロ)に上げろ。あと十分ほどでイオー・ジマだ。上空の安全を確かめたら対空砲陣地に突撃するが、ピッコロは敵機の出現に備えて7000(フィート)を維持しろ。後で交代させるから、お前たちの奴らへの復讐はその時だ」

「「「了解」」」

 

 硫黄島には三ヶ所の航空基地がある。島の南にある千鳥飛行場、島中央の元山飛行場、北部の北飛行場がそれだ。このうち千鳥飛行場には第二十七航空戦隊の零戦18機があり、元山飛行場は陸攻用の基地として新鋭の一式陸攻(哨戒用)が18機あった。また、普段は緊急時の着陸用とされる比較的小さな北飛行場には、トラックへの増援に向かう零戦24機が、燃料補給と休息のため翼を休めている。米軍が送り出した162機にも達する大攻撃隊ーこれは真珠湾攻撃における日本軍第一次攻撃隊の機数より多いーは、正直なところオーバーキルといって良かった。風船のように膨らみ過ぎた日本軍への恐怖感が理由であった。

 

 そんな硫黄島の元山飛行場。ある整備士が、二時間ほど前に帰ってきた陸攻のエンジン系統と格闘している。この機体は夜間哨戒中、エンジン系統に異常を来してよろめきながら帰投したものだった。その結果、哨戒網に穴が空いたのは仕方無い。

 彼の見るところ、こいつは右エンジンのシリンダーがイカれているらしかった。今ここにある予備部品を使って直すしかない。ネジを回して外し、「火星」用のシリンダーを持ってきて取り付ける。「栄」と互換性が無いのは仕方無い。そもそも開発元も異なるのだから。

 整備の観点から、互換性を持たせて貰えるような上申でもしてみるか。上手くは行かないだろうが。前線の基地でもないのだし、何もそこまで逼迫しているわけでもない。

 さっきまでの思考を脳の片隅に置き直し、彼が直したエンジンの試運転を行うため搭乗員を呼ぼうとしたとき、遠雷のような音が鼓膜を叩き始めた。それが何よりも早い空襲警報だったと気付くのは、ほんの少し後である。

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