第二話
その日は東舞鶴駅近くの旅館に泊まることにしていた。料理屋兼旅館の「徳田」に予約を入れてある。ここは本来ならば一介の少佐が泊まることの出来るような店では無いが、近畿でも屈指の魚介卸売業者たる佐々木家の人間の機嫌を損ねようと思うほど無謀な人間はいなかったし、彼自身「徳田」の常連客であった。
「それで、ようやく駆逐艦長になりますの?」
軍港や港町に特有の騒がしさからある程度距離を置いた桟敷席。顔馴染みというわけで比較的安く取ったそこで、同席している三十路の女が弾んだ声で言った。といっても芸者ではない。この旅館の一人娘にして、佐々木の昔馴染みであった。かつては悪戯っ子であり彼女こそが彼の上官であったが、今やその残り香さえも無い清楚な娘である。
「ああ、一国一城の主という訳だが……俺は水雷戦がしたかったんだ。帝国軍人たるもの、与えられた兵器で戦うべしというのは分かっているのだが、なんだかなぁ……」
平野水(彼は酒飲みが自殺志願者に見える人間であった)の入ったコップでテーブルを鳴らし、拗ねたような声をだす佐々木に、
「別に良いではないですか。魚雷が無くともその主砲で御国に仇なす敵を撃滅し、祖国を護ることが出来るのですから。御国のために生き、御国を護り、御国のために行く。それが海軍軍人というものでございましょう?」
彼女は優しげな声で言った。
「そもそも魚雷の無い駆逐艦なぞあるわけがないだろう……何でそんなものの艦長に駆逐艦長を充てるんだ!?護衛など旧式艦に任せていれば良いものを……!」
壊れた機械人形のように喋り続ける佐々木。その横で、彼女は今日の夕飯を尋ねるような声で、
「あら、私はあなたに護っていただけるのでしたら安心するのですけれど……」
と言った。普通ならば言葉の意味に気付いた二人が赤面して、互いの顔をまともに見ることも出来なくなるのだが、この時ばかりは異なった。映画のように正確なタイミングで、同じような士官服に身を包んだ男が扉を開けたのだ。
先に反応したのは相手(大尉)だった。
「あ、失礼。部屋を間違えました」
そう言い残して三方ヶ原の三州公のように撤退しようとする。佐々木はそれを引き留めて、横に座らせた。彼女に平野水をもう二杯出すように伝える。もちろん、出すのはもう少し後でいいと言うことも忘れずに。
軍港近くの店の娘らしい気遣いを心得ている彼女の足音が遠ざかったのを確かめて、佐々木は語りだした。
「時に貴官、乙型駆逐艦については知っているか?」
「はい、機動部隊の護衛兵力として建造されている駆逐艦ですよね。確か基準排水量3000t、九八式10cm連装高角砲を中心線上に5基、九六式25mm三連装機銃を4基、魚雷はなしという、防空に特化した防空駆逐艦とでも言うべき艦と聞いています」
「……?」
何故この大尉はここまで詳しいのだろう。そのような疑問が彼の頭を高速ですり抜けて行ったが、この時点では気に止めなかった。代わりに、
「そんなのは駆逐艦とは呼べないだろう!」
従業員が機密の漏洩に気を遣わなければならないほどの怒声が飛び出した。
「そもそも駆逐艦とはだな、御国に仇なす敵の艦隊に向けて必殺の魚雷を叩き込んでこそのものだろうが!俺はその為に帝国海軍の軍人になったんだ!なのに……なのに!今までの俺の努力を返せ!」
幼稚と言って差し支えないほどの発言にも、大尉は沈黙していた。ややあって口を開く。
「少佐、御国の四方を侵さんとする仇敵は艦艇だけではありません。近年発達著しい航空機もです。航空機の速度性能は朝潮型の三年式ではもはや対処出来ない程のものになっています。搭載可能な爆弾や魚雷の性能も上がっています。
今、何百機もの航空機にたかられては、例え『長門』や『陸奥』、呉で造られていると噂の戦艦ですら耐えられないでしょう。まして空母は、爆弾や魚雷を満載せざるを得ません。爆弾一発で戦闘力を失い、当たり所が悪ければ誘爆して簡単に沈むことすらあるのです。それを防ぐための艦上戦闘機であり、本艦なのです。空母が生き残れば、戦闘機隊が制空権を確保し、味方制空権下での艦隊決戦が可能なのです。それを考えれば、本艦に配属されたのはむしろ栄誉ととるべきでは無いでしょうか?」
「……」佐々木は沈黙した。彼の発言に見るべきものがあったし、昔馴染みの言葉も脳裡に甦ったのだ。人の意見に対して真摯に向き合うのは、彼の持ち合わせた人間的美徳の一つであった。
「……栄誉、か」その言葉を反芻する。
「機動部隊の、さらに御国の護り手としての、栄誉とも取れるな」
この大尉から見れば、自分が最も欲しかったそれは、今やこの手に握られていると言うのだ。安っぽい修身の教材にありそうな話だ。だが、それが自分に必要なことも分かっている。だから、次の言葉は想像よりもずっと自然に出た。
「有り難う、俺にはその栄誉が大量に必要だ」そういって顔を綻ばせる。彼は機嫌がよくなった。目の前の大尉が、
「全くですよ、艦長」
と呟いたことに、気が付かなかい程には。
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