第3話(2) 闇の書庫
「シド、うちの書庫は蔵書が多いから、奥の棚から順に二手に分かれて調べましょう」
「承知致しました」
ギギと音を鳴らして扉を開けると、あの、古いインク独特のにおいがたちこめる陰気な室内は異様なほど真っ暗闇に包まれていた。広過ぎる為、二灯のランタンの明かりだけでは奥がどこまで続いているのか分からないほどだ。まるで古い絵物語に登場する“黒の魔道師”でも潜んでいそうなほどの不気味さである。
以前、バゼルや父やその侍従や前の侍女など複数の人とたくさんのランタンを使って入っていたフィリアは急激に恐怖を覚え、我知らずシドの袖を掴んだ。
「ほ、ほ、ほらね、信じられないくらい真っ暗でしょう。ミーナが怖がって逃げ出すわけよ……ちょ、ちょっと、シド、離れないで、近くにいてちょうだい」
「大丈夫でございますか」
ランタンを掲げ、フィリアの顔を覗き込んできたシドは、整った眉を寄せて少々心配そうな色を滲ませていた。
貴賓室の茶会では、シドの手前、他家の令嬢達よりもひと際淑女らしく慎ましやかに振る舞っていたから、ここまで腰の引けた娘に変わるとは思いもしなかっただろう。
彼の目には初めて対面した時の鷹のような気負いはそれほど感じられない。ただ、やたらと思いやりの感じられる、フィリア好みの端整な顔が近付いてきたから慌てふためいた。
「だ、だ、大丈夫よっ」
顔がちょっと赤くなってしまったが、暗いから気付かれなかったと思いたい。
結局、片手にランタン、もう片方の手で執事服の袖を掴んだまま、フィリアはシドに連れられて書庫の奥へと入って行った。目ぼしい棚の前に到ると、もはや単独行動などあり得ず、彼が選んで開いた本を横から覗き始める有様だった。
「ど、どう? あの書簡を解読する手がかりになりそうな文献はない?」
「まだ何とも……あまり見かけない文字ですからニーア王国と交易の薄い国を探せばたどり着けそうな気もしますが」
「確かにそうね」
当然のように真面目に調査を始めたシドをよく観察する。
もしフィリアの占いと推理が正しいならば彼こそが運命の人であり、あの書簡を落として行った『黒髪の騎士』の可能性が高いのだが――――これは演技なのだろうか。
書庫はかなり広く、等間隔に並べられた書棚も天井まで届く高さがあり、圧倒されるほど大量の蔵書が至極大雑把に種類分けされて詰め込まれている。実際に一冊ずつ手にとって調べようなどと思うなら恐らく何ヶ月もかかってしまうだろうが、彼は今後もすっとぼけたまま頑張るつもりなのだろうか。
シドは意図して自分に会いに来たわけではないかもしれない……とか、もしかすると、正体を明かせない事情があるのかもしれない……など、あれこれ考える。
こっそり背後から(あなたは私を迎えに来たんでしょ。正体を明かすなら今がチャンスよ!)とテレパシーを送ってみたら「あちらの書棚に交易に関する文献があるようですよ」と返事が返って来た。
その棚へ行くにも、フィリアはシドの袖を掴みっぱなしだった。
「なかなか見つからないものね。きっとマイナーな小国の言葉だと思うのだけれど」
「そうでございますね……字体からして表意文字を主体とする東方の国ではないと思います。あれはどちらかというと、アイル文字やレタリー文字など、我が国と同じ表音文字に近いかと」
「そうね、私もそう思うわ。だとしたら大陸の内側か近隣の島国が怪しいわね。暗号の類ではないと思いたいけれど……」
「まさか、そんなことはないと思いますが」
しばらく近隣諸国について話してみると、シドはかなり勉学の心得があるらしく、一介の使用人とは思えないほど地理の知識を豊富に持っていた。
その上、闇の中では声に感情が伴って聞こえることがフィリアを感動させた。他の人達の前では教科書通りのセリフと、もっと抑揚の少ない話し方だったような気がするから新鮮だ。勘違いの可能性も捨てきれないが、フィリアに恋をして潜入してきた影の騎士である可能性がゼロから5%くらいまで急上昇した。
フィリアはそれとなく、用意してきた自然なセリフをシドへ投げた。
「ねえ、シドは外国へ行ったことがある?」
「……え? ええ、以前少しだけ」
怪しいわ、と彼女は目を光らせた。生涯をオリーズ家に捧げて多忙のはずのアイボット家の人間が侯爵領を出るなんて変だ。
「まあ、いいわね。私は領内の田舎の方へしか行ったことがないわ。どんなところへ行ったの?」
「例えば……一度ルシアール公国を旅しました」
「……!」
ルシアール公国! 随分前にこちらの国と小競り合いがあったと聞いたことがある。つまり、その時騎士として派兵されたに違いない。
「そ、それは大変だったでしょう。あの戦は協定を結ぶまで半年かかったと聞くわ。怪我などしなくて良かった」
「……? いえ、私が行ったのは戦よりずっと後です」
「……え、でもどこかへ戦には行った事があるでしょう?」
「まさか。戦など行ったことはありません。ルシアール公国では広い海と、とても綺麗な港を見て参りました。あれは本当に素晴らしい所だった」
不毛な問答に負けフラグが立った。
フィリアは現実から目をそらした。シドの正体より、話の最後に一瞬彼の顔が優しくゆるんだことの方に全力で意識を傾ける。
「そ、そうなの、素敵ね……! 私、海を見たことがないの。海って本当に広かった?」
「ええ、信じられないほど青くて、広くて――穏やかな日にはいつも静かな漣の音が聞こえるのです。お嬢様も行かれれば、きっとお気に召されると思いますよ」
「行ってみたいわ……! そこにはたくさんのおかしな生き物がいるんでしょう? 本当に魚よりもおかしな姿をした生き物がいるの?」
「はい、生き物も大変興味深いものが多い所ですが、一番の見所は抱えきれないほど大きな水平線と空、そして静かに通りすぎて行く潮のにおいです。沖から吹く気持ちの良い風と、それにのって聞こえて来るかもめの声や汽笛の音も良い。驚くほど雄大でありながら凪の海は足元に優しい波を寄せてくれるのです」
どうやら海が好きなのか、シドはしばらく話をしてくれた。見てきた情景を熱っぽく語り、その度に目を細め、硬く結んでいた唇が少しだけ笑んでしまうのが分かった。
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