第二章

最後の夏休み

「それじゃあ、しゅっぱーつ!」



威勢よく声を上げて、白波は右腕を空に掲げる。彼女と一緒に行く朝の散歩も、日課となりつつあった。四宮家を出てから、緩やかに下るアスファルトを道なりに進む。


今日は少し、潮風の勢いが強かった。頬を撫でて、髪の合間を抜けていく、それが残した爽涼の気を肌に感じながら、やかましい夏の眩しさを上目に見た。


──自分が十数年間、片恋に想い続けてきた相手が、まさかこの島で出会ったばかりの、バーチャル・ヒューマノイドだったなんて。しかも、祖父の遺産で、あろうことか、余命一ヶ月の、ヒューマノイドとしてはポンコツで、家事なんかとても任せておけないような、少女。


僕たちは昔、幾度かの夏休みで顔を合わせていた。けれどそれを、お互いに忘れていただけ。今はちゃんと、思い出せている。記憶の奥底に褪せてしまったセピア色なんかではなくて、色彩鮮やかに蘇る思い出として。


『過去』を振り返った僕と白波の関係は、なんとなく、曖昧なものになったような気がした。単なるマスターとヒューマノイドとしての主従関係ではなくて、幼少期の幼馴染であり、言うなれば、現在の友人でもあり、身内でもあり──しかし、かつて片想いしていただけの、恋人にまでは至らない、曖昧な関係。そう感じている。


初恋の相手と過ごす日常、そこに昔のような好意が湧いてくる──かは、自分のことながらよく分からない。好きか嫌いかでいえば、もちろん、好き。けれどそれを、異性に対する恋情と決めつけるのも、いささか早計に思えた。これは所詮、身内に対するものと似ている。



「ねぇ、マスター。今日は何をしますか?」


「白波は、何がしたい?」


「えっ? えぇー……? 質問に質問で返すんですかぁ」



あからさまな困り顔で、彼女は一度、二度、と瞬きをした。純白の髪が、ガードレール越しに見える群青色の海に、よく映えている。日射しの白い眩しさが燦燦と照りつけて、アスファルトに薄ぼけた影を映していた。


これが最後の夏休みなんだから、楽しんだ者勝ちだよ──そう言おうとして、僕は咄嗟に口を噤む。背筋のあたりに、悪寒が走ったような気がした。一瞬だけ感じた心地の悪い冷たさの、その余韻が段々と引いていく。脈拍が一気に速度を上げて、少しだけ目眩がした。


……この島に来て、白波の口から余命のことを言われた時は、ショックこそ受けても、さほど気にはしていなかったのに。なぜだか今になってようやく、彼女の余命というものが、生身の人間の死と同等に感じられた。それを意識するとやはり、胸のあたりが重苦しい。軽い吐き気すらも覚えそうだ。白波への想いがそうさせるのだとしたら、僕は相当、自分に都合の良い人間だろう。



「……いや」


「……?」



頭を振る僕に、白波は怪訝な顔をする。ときおり目蓋の上に落ちる枝葉の影が、陽光の眩しさを際立たせていた。二人分の靴音が硬く響いて、いつの間にか、掲示板の見える通りまで来てしまったらしい。「今日はちょっと、遠回りしてみよう」とだけ、付け加える。無性に、考えごとをする時間が欲しくなった。それだけだ。



「白波の余命は、あと一ヶ月くらいだよね」


「はい」


「昔、僕と一緒にいたことも、思い出したもんね」


「はいっ」



屈託のない、いつものような笑みで、彼女は笑う。それは本当にいつも通りの──事実をもとに受け答えをしているような、淡白な回答だった。こういうところは、どこかヒューマノイドらしさを感じる。自分の寿命に固執していないことも、最初から分かりきっていた。


ふと頭上を見上げると、四方に伸びていく電線が、昊天に線を引いたように映っている。視界の向こうに掛かる真白い入道雲と、足元にある横断歩道の白色は、少し似ていた。塗装の掠れたそれを踏みながら、僕と白波はまた、下り坂の狭い路地を歩いていく。見上げるほどに高い、苔の張り付いた丸石造りの石垣と、錆の浮いた落下防止のフェンス──奥のカーブミラーが低く見えた。



「……白波は、自分の寿命について、どう思ってる?」


「寿命……ですか」



彼女の声が、石垣の合間に沁みていくようだった。壁一面に張り付いた苔と、蔓草と、鬱蒼とした木々に囲まれながら、右手に折れていく緩やかなカーブを曲がる。そこを抜け切って次のカーブミラーが見えてきた頃に、白波は小さく呟いた──ように聞こえた。潮風が枝葉を揺らしたその騒めきに、掻き消されたのかもしれない。



「特に、なんとも思っていません。それは私だけではなく、ヒューマノイド全てに与えられた、絶対の宿命ですので。だから、私もそれに従うだけですね」


「……そう」



そこからは、ずっと無言だった。右手に連なるアパートや民家、軒先の木々を横目に、先の長い、緩やかな下り道を進んでいく。やがてその民家も、鬱蒼と茂った蔓草と木立に隠されていった。下りきるところまで下りていくと、青青とした土草の匂いに紛れて、海の匂いもする。広大な太平洋を遮るものは、何も無かった。道なりに伸びていくガードレールが、鮮やかに白い。


右手は、まだまだ下り坂が続いていた。あの一本道をそのまま進んでいけば、やがて桟橋に着く。左手には、ちょっとした東屋──ベンチと屋根が備わっているだけの、簡素な休憩スペースとでもいえばいいのだろうか──が建ててあった。何がなしに、そこへ向かう。落下防止用の柵に手をつきながら、あたりを眺めてみた。ここも高台だけあって、見晴らしはかなりのものだ。


夏という名前のインクがあったなら、きっとそれは、こんな感じの群青色なのだろう。潮風に靡いて、波間の揺らめきがよく見える。海中に沈んだ港の名残──堤防やテトラポット、そこに射し込む陽光の白、目蓋を焼いていく眩しさが、いかにも夏らしい気がした。どこか退廃的で、けれどもその美しさに、見蕩れてしまっていた。


水位を上げた海面のせいで、護岸用のコンクリートに打ち付ける波の音が、よく聞こえる。泡沫のように弾けては消えていく白波の儚さが、脳裏をよぎった。肌に感じる蒸し暑さも、潮の匂いが消していく。燦燦と降る炎陽の視線を浴びて、入道雲は眩さを増していた。



「……夏、ですね」



僕の隣で景色を眺めていた白波が、小さく零す。考えていることは同じなんだな、と、不意に思った。



「ねぇ、マスター。私、やりたいことができました。……我儘ですけど、聞いてもらっていいですか?」


「いいよ、なんでも。白波のしたいことをやろう」



彼女は小さく頷くと、それから何度か深呼吸をした。嬉しさを押し殺したような、けれども隠しきれていない笑みが、目元を綻ばせている。いつものように笑ってほしい気がしたけれど、これもこれで、ありかもしれない。白波はやがて、その群青色の瞳で、僕を見上げた。



「──これが最後の夏休みなので、せめて、この夏休みを楽しく過ごせたら嬉しいです」



だって、と彼女は続ける。



「今の私は、昔よりもずっとずっと、自由ですから」

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