白波
「マスター、私、ベッドのところにいますねー!」
脱衣場と廊下を隔てる扉越しに、白波の声が響き渡る。それを報告する意味がどこにあるのだろうと思いながら、僕は乾きかけの髪を手櫛で梳かしていた。夕食後の満腹感と夏の蒸し暑さとが、全身をどこか気怠いような雰囲気にさせる。手で顔を扇ぎながら寝間着に着替えて、そのまま白波のいる祖父の部屋へと向かった。煌々と照る照明に反して、窓硝子の向こうは、仄暗い。
「おぉ……きちんと来るんですね、マスター」
「別の用があったから来ただけ」
「またまたご冗談をっ」
ベッドに腰掛けながら茶化してくる彼女を適当にあしらって、僕はデスクチェアへと座る。用があるのは本当だった。祖父がデータとして残していた幼少時代の写真を、特に意味はないけれど、漠然と眺めてみたくなったのだ。まだ全てを確認し終えていないこともあって、これが今朝からのちょっとした楽しみになっている。さっそくフォルダを開いて、一枚ずつ確認していった。
「あっ、マスターまた昔の写真見てる……。昔の私の方が好きなんですか? うるさいのは嫌いですか……?」
「いや、今の方が好きかな」
「ほんとですか!? えっへへ、嬉しいなぁ……」
軽くいなした感があるけど、別に嘘を言ったわけではない。締まりのない顔で笑みを洩らしている彼女を横目に見ながら、僕はモニターの方に視線を戻す。ほとんど記憶にない光景が写真として収められているのは、なんだか変な感じだ。しかしまぁ、よくこれだけ撮った──
「……うん?」
──少しだけ変わった構図の写真に、僕は思わずモニターを凝視する。映っているのは、この部屋だ。この部屋、なのだが……なんだろう、この、いかにも盗撮したような画角は。扉の隙間から隠し撮りをしている……?
「あ、そっか」
疑問に思ってよくよく観察してみると、この構図になったのも仕方ないな、と思った。大型モニターに映る白波の姿はしっかり捉えられている。その視線の先にあるのは、床に寝転がっている僕の姿だった。変に起こさないように、祖父は隠れて写真を撮ろうとしたのだろう。窓硝子から射し込む昼下がりの陽光が、少し明るい。
似たようなものが数枚ある。モニター越しに、あの優しい笑みで僕を見ている白波の姿。隠し撮りをしていた祖父に気づいて、カメラ目線になっている姿。困ったような苦笑をして、口元に人差し指を立てている姿。
「ふふっ」
頬杖をつきながら、僕は口元が緩むのを感じていた。白波もしっかり、お姉さんをやってくれていた時期があったんだな──と、そんなことを思う。今の彼女に、お姉さんという感じはほとんどしない。黙っていれば綺麗なのは、認めるけどさ。今はなぜか、一人でじゃんけんをしている。それが面白くて、僕はまた笑みを洩らした。
「……マスター、楽しそうですねぇ。昔の私に構うより、今の私に構ってくださいっ。時間は有限なんです。後で後悔したって遅いんですよ! 昔の私が綺麗なのは分かりますけどっ、今の私の方が可愛いんです……!」
ベッドの上で足を崩しながら、彼女は不満げな語調で僕へと文句を言ってくる。自分のことを綺麗だの可愛いだのと微塵も疑わないその姿勢は、嫌いじゃない。とはいえ騒いでいる白波を無視し続けるだけのメンタルは持ち合わせていないので、僕は渋々、彼女に顔を向けた。
「じゃあ、何をしてほしいの」
「なんでもいいですよっ。今の私に構ってくれれば」
「ふーん……。なんでも、ねぇ」
「あっ、えっちなことは、その……めっ! です」
「うん」
わざとらしく恥じらう白波に呆れながら、適当に返事する。なんだろう、この既視感。すごく覚えがある。そういえば、数日間にも同じようなことをやってたな。
「でも、ほら……昨日みたいなことなら、いいですよ? 抱きしめてあげましょうか? 可愛い私に抱きしめてもらったら、どんな疲れも一気に吹っ飛んじゃいますよっ」
「え、いい」
「まぁまぁ、そんなこと言わずにですねっ。せっかくマスター、パジャマ姿なんですし、ベッドで寝たらどうですか? ベッドで寝ることを覚えてください!」
「それは君の方でしょ……あぁもう、袖を掴まないでっ。分かった、分かったから! パソコンの電源だけ落とすからちょっと待ってて……! いい子だから……!」
袖を掴んでベッドへ引き込もうとする白波になんとか抵抗しながら、僕は最後の力を振り絞ってパソコンをシャットダウンする。「えいっ」と意気込んだ彼女に身を委ねたまま、ベッドにダイブさせられた。乾きかけの髪が靡いて、肌のあたりが少し涼しい。あと柔らかい。頬や耳元がくすぐったいのは、これは一体、なんだろう。
「えへへ、膝枕ですよマスターっ。私に捕まったのが間違いでしたね! 大人しく赤ちゃんになってくださいっ」
いつの間にかベッドに寝かせられていた──いや、白波の膝に寝かせられていたことに気づいて、僕は思わず息を呑む。満面の笑みで顔を覗き込んでくる彼女の面持ちが、照明に少しだけ翳っていた。それに反照する純白の髪も、頬のあたりをこそばゆく撫でていく。後頭部にある柔らかさを感じながら、僕はひとつ、深呼吸をした。
「……なんで、膝枕」
「バリエーションってやつです!」
「うん。そうじゃなくて」
目を丸くしている彼女を上目に見ながら、続ける。
「距離感が、近くなったから。なんでかな、って」
白波は僕の問いを聞いて、何度か瞬きをした。それから少しだけ、気恥ずかしそうに笑っている。笑みを洩らした時の吐息が、乾きかけの空気に、涼しかった。
「……私、小さい頃のマスターと一緒にいた記憶が、ほとんどありません。それがちょっと、残念です。だから、今くらいは、楽しみたいかなって。これが最後の夏休みになりますし、時間はやっぱり、有限ですからね」
淡々と語る彼女の声は、透き通って綺麗だった。瞳の群青も、髪の純白も、すべてが玲瓏たる様で、天井から降り注ぐ照明の白に照り返っている。白波が綺麗なのは、昔からまったく、変わっていない。そんなことを思いながら、僕は彼女の返答を、押し黙って聞いていた。
「昔の私は、バーチャル空間から出ることができませんでしたけど、でも、きっと、こんな感じで、マスターとお話してたのかなって、ふと思いました。年齢は今と違いますけど、でも、昔から変わっていない気もします」
……そうなのかな。僕自身、やはり昔のことだから、いくら思い出したとはいっても、記憶が曖昧な節がある。でも、なんとなく、白波の言うことも、分かるような気がした。特に根拠はないけれど、どこか腑に落ちる。
「ねぇマスター、私ね、実は子守歌が歌えるんですよ。昔、たまに遊んでいたことを思い出した時に、時々、子守歌も歌ったことあるなぁって。偶然ですけどねっ」
「……子守歌って、どういうの? いっぱいあるよ」
「えへへ、聞きたいですか? でしたらぁ、おめめをつぶって──うん、私がトントンしてあげますねっ」
作ったような甘ったるい声が、耳元で反響する。このままでは人間としての尊厳を失いかねない──と思ったけれど、もはや抵抗するのも面倒臭かった。白波に膝枕されているのは、別に悪い気はしないし、その子守歌がどんなものかも、ぶっちゃけ、気になっている。自分でも笑ってしまうほど素直に、僕は目蓋を閉じていた。
彼女の指先と手が、胸のあたりに触れる。人肌ぶんの温かさがあった。夏の蒸し暑さとは、まったく違う。目蓋の裏に広がる薄闇を凝視していると、やがて白波は拍を刻むように、優しく手を動かし始めた。トン、トン、という、規則的な感覚が、どこか心地よい。小さく息を吸い込んだ彼女の、その呼吸の音も、聞こえていた。
「ゆりかごの歌を カナリヤが歌うよ──
──ねんねこねんねこ ねんねこよ」
それは確かに、子守歌だった。懐かしくて、温かくて、どこか物悲しい──けれども昔に聞いたことのある、そんな透き通った声で、白波は歌詞を諳んじる。光が射さないはずの目蓋の裏で、僕はあの、いつか見た夏の眩しさを、思い出したような気がした。幼少期、この島で過ごした夏休みを、彼女と共にいた夏休みの断片を──夏の群青と入道雲の純白のなかに、確かに見つけた。
「ゆりかごのうえに びわの実が揺れるよ──
──ねんねこねんねこ ねんねこよ」
白波の歌声を聞くのも、初めてではなかった。窓硝子から射す、昼下がりの白い陽光に降られながら、僕は沈みゆく意識のなかで、曖昧な記憶のなかで、この歌声を聞いていた。子守歌を子守歌だと思わないまま、ただその優しい声だけに安堵して、幼い僕は、どれほど昼寝をしたろうか。澄み切った彼女の歌声だけは、覚えていた。
「ゆりかごのつなを 木ねずみが揺するよ──
──ねんねこねんねこ ねんねこよ」
懐かしさと眩しさに包まれながら、だんだんと意識が遠のいていく。白波の声も、手の感触も、どこか不規則的に思えてきた。このまま寝落ちてしまって、大丈夫なのだろうか。そんなことを、一瞬だけ思う。目蓋の裏に見えたはずの風景も、ほとんど薄闇に掻き消されていた。
「ゆりかごのゆめに 黄色い月が──」
ふと、歌声がそこで途切れる。わずかな静寂が、果てしもない薄闇のなかを満たしていった。澱む停滞を押しのけようと、僕は恐る恐る、目蓋を開く。照明の明るさに、思わず目を細めた。こちらを見つめているらしい群青色の瞳が、今はよく見えない。何度か瞬きをしてようやく、僕は白波の面持ちをうかがうことができた。それはあの夕凪にも似た、平静にほど近い表情だった。
「……私、昔もここで、この歌を歌った気がします」
淡々と、或いは細々と、彼女は言葉を紡いでいく。
「小さな男の子がいて、一緒に遊んで……。だけどお昼を過ぎると、その子は眠くなって、床で寝てしまって……」
脳裏に、十数年前の光景が蘇る。それは、褪せたセピア色なんかではなくて、僕自身の、色彩豊かな記憶だった。たとえ記憶そのものを失いかけたとしても、目と耳は、それを覚えていた。初恋の少女を、瞳の群青を、髪の純白を、或いは澄み切った歌声をも、覚えていた。
「だから、いつの間にか、今の私よりも、背が伸びてしまったんですね。目線も、拳一個ぶんほど違います」
白波はそう言って、小さく笑う。向日葵というには弱々しくて、路傍の名も無き花というには、まだ明るい。入道雲の純白というにも鮮やかすぎて、群青色の夏空というには、まだ遠い。さしずめこれは、僕が思うに──
「──お久しぶりです。大きくなりましたね」
──泡立つ白波のように、儚い微笑だった。
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