懐かしい群青、絳霄のひとしずく

「いやぁ、美味しかったです……! これが餌付け、調教……! 私はマスターのものにされちゃってるんですねぇ……。喜んじゃってる私も、罪な存在ってことですか……えへへぇ。マスター特製ハンバーグ……。とっても美味しかったです……。また作ってくださいねっ、約束です!」


「だから白波、その言い方をさ……」



食べ終えたばかりの食器を洗浄機にセットしながら、僕はソファに座っている彼女へと小言を洩らす。ついでに、お湯はりの設定を済ませてからリビングに戻った。珍妙なテンションになっているポンコツヒューマノイドを相手にするのはいささか面倒だが、仕方がない。


斜陽の頭が水平線に沈みかけて、朧気な茜が、さざめく波に揺らめいていた。それは、逆さに写した蝋燭の灯火にも似ている。その灯火に目を遣りながら、僕はまた溜息を吐いた。「マスター、ちょっとお疲れですか?」なんて言うのは、天然だか演技なのか分かりゃしない。「今日も一日、頑張りましたねっ」と、彼女は笑う。



「……そうだね。今日は、我ながら頑張った」



白波の隣に座りながら、僕もつられて笑みを零す。今日は、色々と思案にふけることが多かったから、なかなか大変だった。慣れない同級生を相手に、そこそこコミュニケーションをとったこと。白波が、初恋の相手に似ていること。その考えに、無理やり踏ん切りを付けなければならなかったこと。気楽に向かった先の商店では、そんな白波のせいで恥ずかしい思いをしたこと……。



「頑張れることがあるだけ、素敵ですよ」


「うん。ありがとう」



……彼女は、およそ一ヶ月後に寿命が尽きる、らしい。祖父の遺産で、僕が来るまでは祖父に仕えていた。けれど、白波について知っているのは、それだけだ。そもそも、どんなコンテンツなのか、シリーズなのか、リリース日だとか、そういうものを未だに聞いていない。尋ねようとも思わなかったし、説明されることもなかった。


それさえ分かれば、ちょうど今、脳裏をよぎったこんな考えも──やはり初恋の相手と白波が同一人物かもしれない、という甘えも──すっかり納得できる形で、解消されるかもしれないのに。祖父が何か情報を残していればいいけれど、たかがヒューマノイド一体に、そこまでの手間をかけるとも思えない。どうしたものか……。



「──そうだ」


「マスター、どこに行くんですか?」



思い当たる節を見つけた僕は、やにわにソファを立ち上がる。背後に降りかかる白波の声をほとんど無視したまま、リビングを抜けて、祖父がよく篭っていた書斎へと向かった。勢いそのまま扉を開けると、昔とほとんど変わらないままの配置で、家具がそのまま残っている。


壁際の本棚に並べられた専門書の数々や、テーブルがあるくせにして、床にところどころ散らばっている原稿用紙──使い古されたようなベッドとパソコンデスクの位置だけは、僕の記憶と合致していた。下りたブラインドの隙間から、薄い斜陽の視線が射し込んでいる。それを遮りながら、部屋の照明をつけることもせずに、一直線にパソコンのあるデスクへと歩を進めていった。


祖父は昔から、この書斎にはほとんど誰も入れていなかった。僕が遊びに来るのを許すくらいで、その他には誰も入っているのを見たことがない。特にこのパソコンは、僕も触ろうとしたら注意されたくらいだ。それほど大事な仕事道具だったというのは把握している。その中に、もしかしたら白波に関するドキュメントやログ、コントラクトが残っていれば、助かるのだけれど……。



「……マスター? ここですか。大丈夫ですか?」


「うん、まぁね」



突然に出ていった僕を追いかけて、白波が扉の隙間から顔を覗かせてくる。「大丈夫だよ」と言おうとしたところで、彼女は小走りにこちらまで走り寄ってきた。



「……えっ、ちょっ、なになになに」



それから無理やり僕の手を掴むと、部屋の奥にあるベッドの方にまで誘導させられる。その意図を訝しむ暇も与えずに、白波はそのまま「座ってください」と言った。どこか、語気が強いような気もする。どういうわけだ。



「……なんで?」


「いいから、ですっ」


「うん」



言われた通り、ベッドに腰掛ける。彼女も同じように座って、そうして今度は──両腕をこちらに向けてきた。この体勢は、いわゆるところの、あれ、だろうか。



「……なに?」


「私を抱きしめてください、マスターっ」


「なんで」


「……お疲れのようなので」



なるほどと僕は頷く。少し間を置いて、彼女は続けた。



「溜息は多めでしたし、昼間もずっと思案げでしたし、お家に帰ったら帰ったで、ゆっくりされると思っていたら、いきなりさっきみたいに動き出して……。何か心配ごとでもありましたら、なんなりと言ってください」



両腕を僕に向けたまま、白波はそう言って微笑む。思い煩いの元に心配されてしまうほど、態度に出ていたということだろうか。けれど、それを彼女に伝えるには、今の自分にそんな余裕は残されていなかった。何をどう返せばいいかも分からなくて、曖昧に、ひとつ頷く。「大丈夫だよ、このくらい」。これが精一杯の見栄だった。



「……この歳にもなってヒューマノイドに抱きつくとか、恥ずかしいから。僕のことは心配しなくていいし」


「む……、分からず屋さんですね」



白波は呆れ気味に呟くと、少し拗ねたように僕を見る。それから一瞬だけ、ブラインド越しに射し込む茜色を、その群青色の瞳で、一瞥した──ような気がした。ふと、視線の先を無意識的に追っていることに気付く。軽い衝撃で我に返ったのは、それから数秒後だった。



「──これで、どうですか?」



耳元で聞こえる白波の声に、思わず肩が跳ねる。いつも見ている、あの華奢な両腕が、僕の身体を包み込んでいた。バーチャル・ヒューマノイドに感じる体温の、その温かさに僕は、いま触れている。彼女が着ている着物の質感も、人肌ぶんの温かさも、この妙に柔らかいのは、きっと、胸元の感触だろう。今だからどこか、科学技術の進歩に、文句を言いたくなった。やけに、落ち着く。



「誤魔化しても無駄ですよ。マスターが少し疲れ気味なこと、私にだって分かります。……ちょっとでいいです。少しくらい、甘えてくれたっていいじゃないですか。私がまともにできるのは、きっと、これくらいなんです」



その声は、今まででいちばん、優しかった。そうしてやはり、懐かしかった。淡々と、けれど玲瓏として澄み渡る白波の声に、僕はふと、彼女の面持ちが見たくなって顔を上げる。薄暗い部屋には、黄昏時の停滞が、薄い靄のように広がっていた。絳霄のひとしずくが、水面に溶け消えるインクのように、茜色を射し込んでいた。


──思わず、息を呑む。僕はきっと、白波を、昔に見たことがある。そう直覚せずにはいられなかった。薄闇に翳る彼女の面持ちと、透き通るような純白の髪と、その群青色の瞳と、懐かしいこの声と、姿形もがすべて、僕の記憶の底にある、色褪せた写真の一枚を、無理やりにでも引っ張り出したような、そんな感覚に苛まれた。


僕は、この光景を、見たことがある。白波のこの微笑も、優しい声音も、すべて、覚えている。だから僕は、ただ無言のまま、彼女に抱きしめられていた。唯一、知らないものといえば──白波の匂いだけは、覚えていない。ただ、それでも、確信に近いものを抱いていた。



「──今日は暑くて、疲れちゃいましたね」



困ったような笑い顔。これも僕は、覚えていた。

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