【書籍発売中】バーン・ホワイトウェイブ ─夏の終わりに消滅した、花のような彼女─

水無月彩椰@BWW書籍化販売中

第一章

白波

港が、建物が、道路が、海の底に沈んでいる。町へと続く急勾配のアスファルトも、その半ばほどを海水に浸していた。夏の群青、斜陽から射す茜や紫金が、水面に的皪てきれきたる様で揺らめいている。道路に打ち付ける白波も、僕だけしかいない連絡船の窓から、よく見えていた。


波を掻き分けて進む音だけが、耳の奥底まで響いてくる。泡沫ほうまつの弾ける細やかなそれが、どこか心地よい。耳を澄ませば、海鳥の鳴き声が聞こえてくるようだった。


この島に来るのは、何年ぶりだろうか。そんなことを思いながら、着岸の準備を始める船に合わせて、僕も荷物をまとめる。荷物とはいっても、大ぶりのスーツケースが一つだけ。これから始まる夏休みの一ヶ月間、僕はこの島にある祖父母の家に、滞在する予定でいるのだ。


──連絡船が汽笛を鳴らす。もう一度、窓の合間から外を眺めてみた。急坂のアスファルトに、いかにも後付けしたような桟橋が備え付けられている。道路の中腹あたりまで差し迫った水面が、木組みの柱を写していた。海の底へと沈んだ丸太のようなものも、揺らめいている。


取って付けたようなこの桟橋は、昨今、世界的な規模で進行が早まりつつある海面上昇の影響だろう。だからこの島も、港付近は海中都市の様相をていしている。


そんな桟橋の片隅に、何かが爛燦らんさんと瞬いていた。一瞬、水面みなもが反射しているのだと思ったけれど、どうやら違うらしい。


あれは──そうだ、あれは、少女だ。夏の群青、或いは黄昏の茜に降られながら、朦々もうもうと立ち昇る入道雲にも似た、その純白の髪に陽光が照っている。潮風に揺れる着物の裾を、手で押さえながら、彼女はそこに立っていた。この一刹那に僕は、あの透き通る、玻璃はりみたような存在に、どこか魅了されてしまったらしい。


──汽笛が再び、辺り一帯に鳴り響く。桟橋にいるその少女は、やにわに顔を上げると、眩しそうに目を細めた。晴れやかな昊天こうてんにも似た、あの玲瓏れいろうたる群青色の瞳は、この茫洋ぼうようとした世界のどこかを、見つめている。彼女は、背丈ほどまである純白の髪を、海風になびかせながら、群青に浮かぶ何かへと、視線を向け続けていた。


──タラップが降りたことを示すチャイムが、無機質に二、三度だけ鳴る。僕はそれで我に返ると、傍らにあるスーツケースの取手を引いて、桟橋の方へと向かった。


金属製の甲板とタラップを、靴音と車輪がけたたましく反響する。むせ返るような夏の暑さと潮風とが融和して、生ぬるい感触が、頬のあたりを撫でていった。桟橋のすぐ下を、白波が泡を立てては消えていく。僕はそれを一瞥してから、先程の少女を目で探そうとした。



「あの──」



波音に混じった少女の声に、不意に呼び止められる。少しだけ肩が跳ねるのを感じながら、僕は振り返った。海風になびく髪を整えているうちに、いつしか風が止んでいる。斜陽の眩しさに、夕凪だ、と、僕はふと思った。



四宮夏月しのみやなつきさん、ですよね」

「……はい」

「私、おばあ様にお迎え役を頼まれました」

「はい」

白波しろはといいます。白い波で、白波しろは



そう言って、少女──白波は小さく会釈した。自分もつられて、頭を下げる。どうやら祖母の知り合いらしく、歳もやや大人びて見えた。恐らく高校生の僕よりは、歳上なのだろう。近くで見ると、その端正な顔付きが、余計に人間離れしたような──そんな婉美えんびさと透明感をも醸し出している。



「さっそく、お家に案内しますね」





アスファルトを打つ波音が、だんだんと遠ざかっていく。振り返ると、連絡船の停泊している桟橋が、少し小さく見えた。その波音を背後に聞きながら、僕と着物姿の少女──白波とは、横並びになって歩いていく。彼女は塗装の剥がれかけた白線を踏みながら、護岸用のコンクリートに生えた苔や海藻を、ときおり一瞥いちべつしていた。



「この島も、海面上昇の影響に呑まれてしまいました」



白波の視線を追っていたことに気付いたのか、彼女は僕の方を見て、そう補足してくれる。確かに、よく遊びに行っていた幼少期の頃と比べると、かなり変わってしまった。そもそも、地球の環境そのものが、ここ五年で大きく変化した──という方が正しいのかもしれない。



「僕の記憶だと、二〇三〇年ほどから一気に……」

「はい。私は詳しく知りませんが、温暖化が原因だとか……。かつての後進国が、科学技術の発展著しいので」



錆びかけたガードレールに沿って、大きく曲がった道路を、道なりに歩いていく。やがて道路の幅が開けてくると、プレハブ小屋や民家が見えてきた。そこらへんに停められている軽自動車を避けながら、町の高台を目指して、ひたすらに歩みを進めていく。右手に視線を逸らすと、海中に沈む港が、ここからでもよく見えた。



「小さな島は、影響を受けやすいですね。ご存知かと思いますが、この島も、港が沈んでしまいました」

「うん。僕がいた都内も、海岸沿いはみんな沈みました。水害が起こるたびに、どんどん悪化していくって」



僕がそう言うと、白波は無言で頷いた。緩やかな上り坂を、駐在所のある角で左に折れる。それからまた、ガードレール沿いを歩きながら、小さなポストを横目に、郵便局の隣を通り過ぎていった。この辺りまで来ると、高さがあって見晴らしがいい。茜と群青の入り交じった水平線が、古びた電柱に遮られながらきらめいていた。


──この海面上昇を止める手段は、まだ編み出されていない。みな小手先のものばかりで、開発間近の核融合発電を利用した人工浮島だとか、海中都市だとか、地下都市だとか、そんな話も出てきている。次世代都市開発と題して研究も進んでいるらしく、世間では注目度も高い分野だ。



「……あなたは、どうしてこの島に来たんですか?」



草履の底をアスファルトにすり減らしながら、白波は僕に流し目をして、そう問いかける。群青色をした瞳が陽光に爛々らんらんと煌めいて、硝子細工のように透き通ったそれが、目に焼き付いて離れない。僕はそうは思いながらも、心の片隅で、ちょっとした懐疑心も抱いていた。



「……おじいちゃんの遺品整理に」



祖父は、ちょうど一週間前に亡くなった。そこで遺品整理をすることになったらしく、祖母から両親、両親から僕と話が渡り、夏休みということで時間のある僕が、その期間だけ、この島に滞在することになったのだ。けれど、僕としては──自分がここに来させられたのは、ある意味、島流しなのではないかと、そう思っている。


しかし白波は、祖母と面識があるらしい。それなのに、祖父が死んでいることを、まるで知らないような口ぶりだ。仮にも僕を桟橋まで迎えに来た『お迎え役』が、それだけ重要なことを知らないというのも、また、おかしな話ではある。妙なものだと思いながら、平面でつまずいた彼女の姿を、一瞬だけ危なっかしく思った。



「あっ、四宮聡史さとしの……。……そうでした」



四宮聡史──祖父のフルネームだ。祖父のことをそう呼ぶのも、珍しいといえば珍しい。あまつさえ、本当に祖父が死んでいたことを知らなかった、というか、忘れてさえいたような反応で、落ち込んだように視線を落としている。……この白波という少女は、何者なのだろうか。


コンクリートに玉砂利の敷き詰められた細い路地を、少し向こうに見える、小さな山を目指すように直進していく。やかましいスーツケースの車輪、そうして二人ぶんの足音が、この閑静な住宅地に融けていくようだった。



「おじい様には、お世話になりました」



トタン張りの物置を背景にして、白波はそう微笑んだ。ときおり民家の庭から覗く木立が、彼女の純白に映えて、その色彩をよりいっそう鮮やかにしているように見える。まなじりの下がった少女の面持ちは、悲哀、というよりは、懐古のそれに近いのかもしれない。だから僕は、ふと嬉しいような、誇らしいような、そんな気がした。



「おじいちゃん、優しかったですか?」

「はい、とっても」



軽自動車が一台、やっとのことで通れるような路地に、民家がいくつかまとまっている。ここ近辺の住宅地は、昔とそれほど変わっていないようだ。今まで急坂を上ってきたのもあって、そこそこ高い位置にいる。


ガードレールの境目にある階段を横目に、コンクリートで打ち固められた民家の庭先とか、切り石を積んだ苔ばかりの石垣とかを眺めながら、右手にある商店や自動販売機を追い越して、突き当たった通りを左に曲がった。


この道は確か、ずっと奥まで進めば、役場と学校があったはずだ。それより向こうは、あまり知らない。工業街とかいうことを、少し聞いたくらいだ。道沿いに住宅があるのも、あと数軒といったところだろうか。祖父母の家は、その数軒のうち、ほとんど最後のほうだ。



「お家はこちらです、どうぞ」



白波が先導して、コンクリートで固めた庭先を、スロープに沿って上っていく。それから手すりに手をかけて、玄関口へと向かう階段を上がった。その三段目でつまづく彼女に冷や冷やしいしい、僕もスーツケースを片手に階段を上りきる。少しだけ息を切らす僕を見て、「やっぱり、疲れますよね」と、白波は隣で笑っていた。



「でも、ここから見える太平洋は、凄く綺麗ですよ」



そう言って、彼女は手すりの向こう側に目配せする。一点の淀みもない群青、或いは夕暮れの絳霄こうしょうに水平線は爛燦らんさんとして、そこを見下ろすあの斜陽も、ひときわ強く瞬いている。そうして、どこから立ち昇ってきたのかさえ分からない入道雲が、その茜に反照し、群青に映えて、視界の内にある電線すらもお似合いだと思ってしまうほどには、何とも言えない哀愁めいたものを、身にまとっていた。綺麗と片付けるには、どこか陳腐ちんぷな気がした。



「──それと、お家に招待する前に、あなたにひとつ、話しておきたいことがあります。聞いてくれますか?」



淡々とした、けれど芯のある口調で、彼女は言う。僕はそれに頷いて、無言のまま次の言葉を待った。



「実は、四宮、えっと……聡史、でしたか。彼は、あなたに遺言を遺しています。私はそれを伝える役目を担いました。この遺言は、スマートコントラクトに記されていたもので──いわば、既にネットワーク上で履行されている契約、ですね。この契約は、改変ができません」



そう言って、彼女は小さな紙を取り出す。僕はその一挙手一投足を、どこかに緊張の糸を張り詰めさせて、まざまざと観察しているような気がした。何が彼女の口から言われるのか──その答えに、やや萎縮してもいる。白波は紙面に目を落とすと、「では」と前置きした。



「では、読みますね。おじい様から、あなた宛です」



神妙な面持ちの白波に、僕もひとつ頷いて返す。



「えっと、『バーチャル・ヒューマノイドである白波のマスター権限を、遺品整理として四宮夏月に譲渡する』……ということです。申し遅れましたが、私──」

「ちょっと待って、それって……!」

「はい。いまお話しました通り、私はバーチャル・ヒューマノイドです。よく人間と間違えられてしまうのですが……。人間に似過ぎるのも、困りものですね」



肩をすくめて、白波は苦笑する。その表情や挙止動作は、人間が自然に行っているそれと遜色ない。しかし、まさかヒューマノイドだとは思いもしなかった。人間離れした雰囲気だとは思いこそしても、その他は、僕が今まで見た現行のヒューマノイドとは似ても似つかない。



「……えっと、僕に引き取れ、ってことですか?」

「大丈夫です、その点は心配いりません」



彼女はそう告げると、ひとつ深呼吸して、言う。



「──私、八月三十一日に、寿命で消滅しますから」




【後書き】


皆様、お初にお目にかかります。或いは、いつも私の作品をお読みくださり、誠にありがとうございます。


本作品『沈みゆく群青、昇る白波』(実はまだタイトル未定。仮タイトルです)は、水無月彩椰の新作として書いていきます。ちょっぴりSFチックで、夏と田舎のノスタルジーを描いたライト文芸です。お楽しみいただければと思います。

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