第19話 犯人《前》④



 か細い声に皆が耳を傾ける。

 すると、何やらドタバタと走る音が聞こえてくる。廊下からだ。


「何の音だ…?」


 完全に体を起こした木戸が、前のめりに座り耳を澄ます。

 近付いてくるのは1人ではない、複数人の足音。それが大きくなるにつれ、誰かが怒鳴っている声も聞こえてくる。


「…尾沢先生?」


 丸くなったアーモンドアイが、声の主に気付きぱちぱちと瞬く。尾沢は誰かに静止を求めているようだ。しかし、言う事を聞かず走り続ける足音が、保健室の前で止まる。

 パァン!と勢いよく開かれる扉。と同時に現れた人物を見た瞬間、田原は悲鳴を上げた。


「キャーッ!また出たー!!」


 自分の肩を抱いて後退りする、視線の先。そこには、走ってきたにも関わらず、息一つ乱さずに、ぬぼっ…と立ちつくす男が居た。


「清掃員さんだ…」


 驚いた凜々花がぽつりと溢す。

 薄汚れた作業着と鳥の巣のような頭は、相変わらず不気味な雰囲気を醸し出している。

 何故ここに…と皆が動揺していると、もう一人の男が、止める尾沢を振り払って保健室に飛び込んできた。


「お嬢――っ!!」


 剃り込みの入った坊主頭に、つぶらな一重。ヒョロヒョロの体に纏われた、虎が描かれたブカブカのドレスシャツと黒のサテンのズボン。

 明らかに堅気ではないその容貌に、田原と木戸が「うわあぁぁ!!」と叫んだ。

 二人がパニックになる中、凜々花を守るよう咄嗟に盾になる瀬波。


 まさか、学校に不審者が侵入するなんて。


 冷静に対処しようと思う気持ちとは裏腹に、バクンバクンと暴れる鼓動が耳元で鳴り、緊張と恐怖が血液と共に全身を駆け巡る。

 ふぅふぅと知らず知らずのうちに、呼吸が荒くなる。

 保健室を見回す男の目は、飢えた獣のようにギラついている。ポケットから今すぐ拳銃が出てきそうだ。


 怖い。

 凄く怖い。


 けど、こういう時、あの大好きな漫画――“松極”の主人公の松野さんなら、怖くても絶対に立ち向かうはずだ。

 自分も、松野さんのように、大切な人達を守りたい。

 

 松野の得意技――それは、敵を軽々と宙に飛ばす強烈なパンチ。そして、相手がムンクの叫びのように顔を歪める重い蹴り。

 あの迫力満点の戦闘シーンを、イメージするのだ。

 「僕は松野さん、僕は松野さん…」とブツブツ唱え、よし!と気合を入れる。

 勇気を出して一歩踏み出す瀬波。しかし、男の血走った目と視線が重なった瞬間、「ヒィッ!」と喉の奥が悲鳴を上げた。

 

 まさに、蛇に睨まれた蛙。


 凛々しかったベビーフェイスがぎゃん泣き寸前の赤ちゃんに変わり、体はプルプルと震えだす。

 やっぱり無理だ。あの強烈な悪人面が怖すぎる。

 情けない…でも、怖いものは怖い…。

 悔しそうに身を縮こまらせる瀬波を、怪訝そうな目で見る男。その腕を、ガシッと尾沢が掴んだ。


「やっ…やっと追いついた…」


 はぁ、はぁ、と肩で息をする尾沢の額から、滝のように汗が流れている。男が逃げないようギュッと手の力を強めると、薄い細眉がつり上がった。


「いってぇな!おい!」

「部外者は勝手に入っちゃダメだって言ってんだろ!…って、えっ!?何でこんなに先生方が集まってるんですか!?」


 目に入る汗を腕で拭いながら、尾沢は保健室を見て目を丸くする。

 

「俺は部外者じゃねぇ!ここの生徒の身内だぁ!」

「いや、身内だとしても!受付で名前書いたり身分証提示しないといけないんだってば!」


 腕を振り払おうとする男を羽交い締めにし、呆れたように尾沢が叫ぶ。


「お、尾沢先生、この方は…」


 と、慌てて止めに入る松井。その言葉を遮るように、もう一人がぴょこっと廊下から顔を出した。


「尾沢先生~!言われた通り警備員さんに連絡してきましたーっ!」

「おぉ!サンキュー!ゆめ」

「どういたしまして…って、何!?めっちゃ先生がいる!」


 「なんで!?」と言いながら保健室を覗く、好奇心旺盛な瞳。その無垢なたれ目を見た瞬間、凜々花がガタっと立ち上がった。瀬波の後ろから現れた少女に、尾沢を振り払った男は顔を向ける。すると、治安の悪い顔がパアァァッと明るくなった。


「お嬢!!」


 歓喜に満ちた声が、緊張感に包まれた室内に響く。


「えっ、“おじょう”…って、笹野さんのこと…?」


 さっきまで狂気のオーラを撒き散らしていた男は、小さな目を嬉しそうに輝かせて凜々花を見つめている。狼狽えながら振り返る瀬波と共に、皆の視線が凜々花に集まる。

 硬い表情で立ち尽くす凜々花。その瞳の先にいるのは、嬉々とした男ではなく、ゆめだった。


「くみ…凜々花ちゃん」


 凜々花の異変を察して、ゆめがぎこちなく声をかける。


「…どうした?笹野…大丈夫か?」


 同じく違和感を感じた尾沢も、心配して凜々花に声をかける。

二人の声に耳を傾けながら、凜々花は何かを堪えるように顔を歪める。そして静かに目を伏せると、ゆっくり息を吐きだした。


「……校長先生」


 弱弱しい声が小さな唇から零れる。


「はい」


 思わず聞き漏らしてしまいそうな声音に驚きつつ、凜々花を見る。すると、自分を映す瞳が、水膜が張って揺れていることに気付く。今にも泣き出しそうな姿に狼狽えていると、凜々花は苦しそうに口を開いた。


「その手紙…私が作ったんです」

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