第3話 千葉 巧③


「ありがとうございます、尾沢先生!先生とはこの後少し打合せをさせて下さい。えー、他の先生方は以上で職員会議は終わりになります。今日一日もよろしくお願いいたします」


 頭を下げた校長に続き、教師達も頭を下げる。

 ホームルームや授業の準備でざわつき始める職員室。

 その隅に、じっと校長を見つめる女性がいた。

 校長は千葉と共に尾沢の元へ行こうとするが、ポケットでスマートフォンが震える。画面を見た校長が、千葉に一言二言交わし校長室へ向かったのを確認すると、女性は足早に歩き出した。人の隙間を通り抜け、尾沢の横で立ち止まる。そして、


「尾沢せーんせいっ」


 と鼻にかかったような甘えた声で言うと、ちょんちょんと指先で腕を突いた。

 丁度頭の中で歌いだしたAメロ。を、惜しむことなく一時停止させた尾沢は、満面の笑みで振り向く。


「たっ、田原先生~!」


 デレデレと鼻の下を伸ばす尾沢の視界に映るのは、透き通るような白い肌に映える艶々の黒髪ロングヘアと、長い睫毛に負けない大きな瞳。目が合った瞬間、ニコリと淡いピンクの唇で微笑まれ、尾沢はだらしなく顔を蕩けさせてしまう。


「先生、凄いですねっ。急なお願いなのに引き受けちゃうなんて!とーってもかっこいいです~!」


 こてんと首を傾け、指先だけを器用に重ねて拍手する田原。


「か、かっこいいだなんて…田原先生にそんな事言われたら照れるなぁ~!」

「あ~っ!照れた尾沢先生、可愛い~っ」


 頭を掻く尾沢を、田原が上目遣いで覗き込む。

 田原が動くたびに、ふわっと白衣から漂う上品なムスクの香り。気が抜けそうな程の良い匂いに、思わず「へぁっ」と声が出た尾沢は、慌てて口を塞いだ。

 そんな尾沢の反応を楽しそうに見つめる彼女の名前は、田原美佳たはらみか

 高校時代に圧倒的票数でミスコンを優勝した経歴を持つ、はっきりとした目鼻立ちが特徴的な清楚系美女だ。そして、仙ノ宮女学園の養護教諭である。

 田原はまだ26歳。恋愛経験の乏しい尾沢にとって、若々しいオーラを放つ美人の至近距離は刺激が強すぎる。まさしく美の直射日光。まともに見つめたら一瞬でやられてしまう。

 …しかし、余裕のない姿を見せるのは大人の男のプライドに反するというもの。

 ン゛ッ!と喉を鳴らした尾沢は、男らしくキリッと顔を決めてみせる。しかし、ニコッと微笑み返す田原にキュンとして、一瞬で頬が緩んでしまう。いやいや、これじゃダメだとキリッとする。が、やっぱりキュンとしてしまう。

 キリッ、キュン、キリッ、キュンと一人で百面相を繰り返す尾沢の頬を、田原は笑いながら「えいっ」と人差し指で突く。


「へぁっ!」


 可愛らしい不意打ちに白目をむいて倒れかけた時。ぎこちない足音が二人の前で止まった。


「あの…」


 窺うようにそろりとかけられる声。振り向いた田原は、声の主を見た瞬間、ぱぁっと顔を明るくさせた。


「千葉君!」

「はっ、はい!」


 キラキラの笑顔で距離を詰める田原に、千葉は驚いて肩を竦める。


「わ~、遠くから見ても可愛いなぁって思ったけど、近くで見るともっと可愛い~!」

「は、はぁ…」


 前髪で隠れている顔を覗き込むように、田原が少し背伸びをする。まじまじと見つめてくる大きな瞳に思わず身を固くすると、田原は慌てて体を離した。


「あっ、初対面なのにごめんなさい!私、可愛い物や人が大好きで…」


 そう申し訳なさそうに言うと、お腹の前で両手を組み、にこりと笑った。


「養護教諭の田原美香です。この学校の事ならなーんでも知ってるので、困った事があったらいつでも保健室に聞きに来てねっ」


 パチン。と、語尾に合わせてアイドルさながらのウインクをする田原。千葉は目を瞬かせると、固まっていた顔を綻ばせ「ありがとうございます」と言って頭を下げた。


「!!や~ん、千葉君の笑顔可愛い~!ねっ、もし良かったら今日のお昼一緒に…」

「コホン!!」


 再び距離を詰めようとした田原を遮るように、わざとらしく咳払いをした尾沢が間に入る。腕を組み、むむむっ…と眉間に皺を寄せる尾沢。不穏なオーラを放つ尾沢の頭の中では、角を生やした小さな尾沢が、両手を振り回しながら怒っていた。


「さっきから聞いていたらなんだ!田原先生に可愛いって言われたからって調子に乗るなよ!」


 フンッ!と鼻息を荒げ暴れる隣から、仏の顔をした尾沢がスッと現れる。


「そうじゃないだろ。俺が君の担当の尾沢だ!先生になる上での心構えを、俺が教えてあげるからな!って、頼もしく言ってあげないと」


 まあまあと手で制しながら、仏の尾沢は鬼の尾沢を優しく宥める。


「お前は悔しくないのか!?田原先生にお昼を誘われるなんて…俺だってまだ経験したことないんだぞ!」

「そ、それは確かに羨ましいけど…」

「そうだろ!?こうなったら、教師は理想だけじゃやっていけない厳しい世界だってことを、徹底的に厳しく教えてやるぜ…!」


 嫉妬に塗れた鬼の尾沢が「うおぉぉぉぉぉ!!」と吠える。

 例え千葉が“校長の知り合いの子供”だったとしても。

 恋敵になるなら、“仲良しこよしでやりましょう”なんて訳にはいかない。

 一言ビシッと言ってやろう、と尾沢が大きく口を開いた時。グッと何かが顔に迫った。


「尾沢先生!」

「おっ、おお!?」


 急に言葉に蓋をされた尾沢は、反動で高速瞬きをする。そして千葉の顔が目の前にあることに気付くと、慌てて体を仰け反らせた。

 …どういう事だ。積極性の欠片もなさそうだった千葉が、何故かキラキラした目で自分を見つめている。

 ごくりと喉を鳴らし、頭上にクエスチョンマークを浮かばせる尾沢。すると、千葉は両手で持っていたバッグの中から仙ノ宮女学園のパンフレットを取り出した。


「これ、読みました!」

「!?お、ぉう…?」

「先生がインタビューで仰っていた、“生徒が伸びるか伸びないかは、教師がどれだけ教育への情熱を持っているかによって変わる。だから私は、明日燃え尽きても良いという覚悟で、毎日生徒達と向き合っています。”という言葉に、僕、とても感動したんです!」


 パラパラとページを捲る手が止まり、「ここです!」と力強く指を差す。

 それは“現役教師のインタビュー”と書かれたページの一角。千葉の指は硬い笑顔で腕を組む尾沢の写真を差している。

 尾沢は記事と千葉を交互に見ながら、目を丸くした。

 確かに、以前入学希望者用のパンフレットのインタビューに答えたことがある。

 どうせ誰も読まないだろう…と思いつつも、念の為お気に入りのワックスで髪の毛を固め、念の為ファンデーションを塗って撮影に挑んだ。案の定、冊子に乗った尾沢を見て喜んでくれたのは両親だけで、周りからは特に反応がなかったので、やっぱり誰も読んでくれなかったんだ…と、当時は落ち込んだのだが。


「僕、これを見てここの学校を…尾沢先生の授業を、一度でいいから見学させて頂きたいと思って、松井校長に直談判したんです!」

「おっ、えっ…何だって!?」


 尾沢は声を裏返らせると、千葉を凝視した。

 まさか。

 まさか、このインタビューを読んで感動してくれただけでなく、自分から教師の姿勢を学びたいと思ってくれただなんて。

 呆然とする尾沢に、千葉は言葉を続ける。


「…だから僕、尾沢先生が担当を引き受けて下さると決まった時、とっても嬉しかったです」


 えへへ、と恥ずかしそうにはにかむ千葉。

 その瞬間、頭の中に居た鬼の尾沢は塵となり、吹き飛んだ。

 舞い散る塵が消え去ると共に、胸がぎゅうぅっと苦しくなる。

 …ごめん、千葉君。俺、さっきまで君のことを出会い目的でこの学校に来た奴だと、勝手に決めつけてしまっていた…。しかも、田原先生に気に入られたことに嫉妬して、厳しくしてやろうなんて思ってしまっていた。千葉君は真剣だったのに…わざわざ俺の背中を追いかけて来てくれたっていうのに…。俺は…俺は、なんてひどい奴なんだ…!

 

「う、うぅっ…」


 込み上げる罪悪感を堪えるように、震える手を口に当てる。


「…ありがとう…ありがとうなぁ、千葉君…」


 情けなさと嬉しさで零れる涙が、尾沢の頬を濡らしていく。

 真っすぐに自分を見つめてくれる瞳が、眩しいくらい輝いて見える。大人になるにつれ、知らず知らずのうちに汚れてしまった自分の心を照らされているようだ。


「やだ…よくわかんないけど、感動しちゃう…」


 静かに鼻水を啜る尾沢の背中を見て、田原も目頭に指先を添える。

 千葉は時折天を仰ぐ尾沢の反応に照れつつも、深々と頭を下げた。


「尾沢先生。今日は一日よろしくお願いします」

「ああ!こちらこそ、よろしくな!」


 勢い良く手を差し出すと、千葉もぎゅっと握り返す。温もりを感じると同時に鳴りだしたのは、切なくも美しいピアノのイントロ。ああ、何だか俺も、あのドラマの先生のように煌めける気がしてきた。

 大事な気持ちを思い出させてくれてありがとな、千葉君…と心の中で呟く声はエコーがかかったように優しい。

 千葉は自分を目標にここまで来てくれた。それなら、その期待に応えるしかない。いや、超えるしかない。先生って素晴らしいんだと、凄いんだと全身で伝えるしかない。

 俺が千葉君の夢を、さらにときめかせられるよう頑張るぜ!と、瞳に炎を灯した時。

 コツッ!と大きく響いたパンプスが、歌い始めたAメロを止めた。

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