この時だけ

朔月

舌打ちの音と共にこぶしが振り上げられる。とっさにかばった左腕は間に合わず、左側に鈍い痛みが走る。またかと絶望に似たため息が昏い肺から吐き出される。

「使えねえ」

父は憎々しげに吐き捨てる。お前はそれしか言えないのか。明日は入学式だってのに。部屋のドアを乱暴に閉める音がして、私はリビングに取り残される。

「ただいま」

「お帰り」

残業終わりの母の声には疲れがにじんでいる。

「また、殴られたよ。」

「お願いだからお父さんを怒らせないで、」

ため息と共につぶやかれるそれは私が悪いと、追い打ちをかける。どうしようもない諦観を母は私に隠そうともしない。誰も私が明日高校生になることなんて忘れてるみたいだ。毎日毎日たばこの煙のこびりついた、腐りかけの日々を与えられるまま飲み下す。そんな私も明日から高校生になるというのに。誰の祝福も与えられない。部屋にかかった真新しい制服。わくわくする?そんな単純じゃない。もっと得体の知れない不安をはらんだ何かだ。そっと深く息を吸い込んで自分を慰める。どうでもいい日々がまた始まる。


 学校生活を円滑に進めるために必要なのは位置取りだ。自分のカにちょうどいいグループに属することが大切で、それを見誤ると大変なことになる。上のグループへ行きすぎるとグループ内から見下され、下のグループへ行きすぎるとそれはそれで上のグループから見下される。また、どのグループにも存在しない一匹狼はよっぽどのカリスマ性がない限りいじめられる。誰かと一緒になることで自分も相手も守ることができる。人選を間違えなければ、学校での安寧は保たれる。

「かつきー、ごはんたべよう。」

私は中学の頃からそれとなく一緒にいた子がたまたま同じクラスだったのでその子とつるむようにしている。その子が善良な陽キャなおかげで中の上の位置を保てている。

「うん、今行く。」

今のところうちのクラスで目立ったトラブルはないようだ。

「かつきは今日もお弁当?」

学校生活と相反して家はトラブルだらけだ。父はアル中、母は痛覚がいかれてしまったのか、ただ耐え忍ぶだけの毎日を送っている。いっそ消えれれば楽だなんて、自死していった先人たちに失礼なことを考えてしまう。

「うん、冷食ばっかだけどね。」

自己肯定感が低い自覚はある。自己肯定感なんて誰かからもらうことでしか育たないのだ。愛されているこの子にはわからない。

「でも自分で作ってるんでしょ、えらいね。」

でも、それにしたって、一人くらいいてもいいはずだ。本当に、心の底から、私を大事に思ってくれる人がいてもいい。だってみんなそうだ。みんな、愛してもらっている。そう思ってしまう私はわがままなのだろうか。

「そんなことないよ、さくらのお母さん、料理上手だね。すごいおいしそう。」

いつもこうして哀しみを言語化してまた後悔する。自分には愛してくれる人がいないからって僻んで羨んで妬む。ああ、醜い汚い、嫌いだ。自分が嫌いだ。

「せっかく高校生になったんだから、購買とかでも買ってみたいのに」

ため息なんてつき飽きた。絶望が日常だ。家が、父が、母が、周りの人が愛してくれなくても、私が誰も愛せなくても、何も誰も興味がない。お小遣いを潤沢に与えられているのに、さくらは弁当を捨てて購買を買うようなマネはしない。こういう当たり前に行われる純真さを見てまた苛まれる。そしてそのお小遣いがどれくらいの労働と引き換えにどのような価値を持っているのかわかっていないさくらが私は嫌いだ。

「作ってもらえるだけいいじゃん、それに購買とかって三日で飽きるって。」

この子は良い子なのだ。愛を受けて育ってこられたのだ。私に必要なものは、欲しいものは、そういう子じゃないのだ。もっと深いところでつながれるものをずっと欲している。

「それなー分かる。でもさ、かつきは一人っ子でいいな、親の愛を独り占めじゃん。うちなんて何でもかんでもお兄のついでだよ。しかもおとーさんとかうざいし。」

家族じゃなくたっていい。友人でも恋人でも何でもいいのだ。関係性は何でも。ただ、私を理解してくれる人が、愛してくれる人が、欲しい。

「でも一人は寂しいよ。」

「そういうもの?」

愛されてるやつにはわからない。それを言葉に出してはいけないことはわかってる。でも羨ましいのだ。自分だけ違うのが嫌でしょうがないのだ。なぜ、おかしいことがあったとき、素直に笑えるんだろう。顔に張り付いた愛想笑いで生きている私には到底分かりえないことだ。

アダルトチルドレン


親がアルコール依存症の家庭で育って成人した人。また、親や社会による虐待や両親の不仲、感情抑圧なとのみられる機能不全家族で育ち、生きづらさを抱えた人。

(ウイキペディアより)

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