第10話

 ――怖い。


 藤副ふじぞえ 笑実えみは暗い道を震えながら歩いていた。

 幼馴染の祐平と引き離され、転移して来た彼女が抱いたのは心細さと恐怖だ。

 薄暗く視界が良くない場所、時折聞こえる巨大な足音に衝撃音。


 「祐平……どこ? 祐平ぇ……」


 親に縋る子供のように笑実は祐平の名前を呟きながら壁伝いに薄暗い場所を歩く。

 どうしよう。 どうすればいいんだろう。

 今の彼女にとって確かなものは手に持っている魔導書だけだ。


 使用する事でどうなるのかは何となくだが分かる。

 彼女の魔導書に内包されている悪魔の名前は『44/72シャックス』。

 人の腕の生えたコウノトリで、様々な事を盗む事ができる能力を持っている。


 誰もいないこんな場所で何を盗めというんだと思っていたが、物品だけでなく知覚などの目に見えないものをも盗む事ができるようだ。

 笑実には上手く理解できないが、現状では有効に活用できる手段を欠片も思いつかなかったので役に立たないと認識していた。 それでも頼れるのはこの悪魔だけなので、何かあれば召喚して戦って貰うつもりだ。


 第三位階以降は使うつもりはない。 同化して直接、力を行使する事に強い忌避感を覚えているからだ。

 怖い怖いと恐怖に震えながら彼女が角を曲がった所で凄まじい轟音が響く。

 巨大な何かが地面に叩きつけられるような音で、小さくではあるが地面が縦に揺れた。


 笑実は踵を返して逃げようとしたが、その判断は少しだけ遅かったようだ。

 何故なら、薄ぼんやりとしか見えない闇の向こうから巨大な人型の何かが吹き飛んで来た。

 全長は十メートル前後、手足は奇妙な方向に折れ曲がり、頭部は完全に破壊されている。


 「ひ、ひひ、見たか! 僕の『61/72ザガン』がお前のような雑魚に負けるわけがないんだよ!」


 死骸が飛んで来た方から嘲るような声が響く。 その声を聞いて彼女は思わず表情を歪める。

 最悪だった。 知り合いではあるが遭遇したくない知り合いだ。

 蒲田かまだ 操平そうへい。 彼女のクラスメイトで、粘つく視線を向けて来る気持ちの悪い男子だった。


 この状況で見つかれば何をされるか分かった物ではない。

 逃げるには近すぎる。 彼女は必死に魔導書を起動して悪魔を呼び出す。

 何とかこの状況を打開できる手段を求めて彼女は悪魔に助けを求めた。


 ――<第二レメゲトン:小鍵テウルギア 44/72シャックス


 混乱した頭では具体的な命令は出せず、とにかく何とかしてくれと懇願すると『44/72シャックス』がある提案を持ちかけた。 自身の能力で笑実から恐怖心など、邪魔な感情を取り除く事ができると囁いたのだ。

 取り除く事に笑実は強い抵抗を覚えたが、適切な命令がなければ効率的に動けないと言われれば突っぱねる事も難しかった。 それに蒲田はすぐ傍まで迫っている。


 考えている余裕もない。 急かされる形で笑実は深く考えずに悪魔の提示した案に頷いた。

 許可を出した瞬間、悪魔はその力を行使する。 命令は提案内容をそのまま実行する事。

 かなり広義に解釈できる内容のそれが笑実に齎した効果は絶大だった。


 胸に渦を巻いていた恐怖心が消え、動悸も収まり、意識も呼吸も安定する。


 ――あれ? もしかして簡単なんじゃないの?


 そして行動の選択肢が脳裏で大きく広がった。 次の瞬間には気分がクリアになる。

 笑実は意識して怯えた表情を作ると、闇の向こう側から見慣れた姿が現れた。

 

 「ざまぁ――あれ? 藤添さん?」

 「か、蒲田君?」


 笑実は今気づきましたといった様子でおずおずと蒲田の名前を呼ぶ。

 蒲田の背後には牛と人を足して二で割ったような巨大な悪魔が居た。

 彼は笑実の姿を見て喜色を浮かべるが、完全に油断はしていないのか悪魔はそのままにしている。


 笑実は敵意がない事をアピールする為に更に怯えた表情を見せた。

 

 「ね、ねぇ、その怪物、怖いから引っ込めてくれないかな?」

 「え? あぁ、そうだね」


 蒲田は若干、不審なものを感じはしたが、明らかに笑実は悪魔を呼び出していなかったので背後に控えている自身の悪魔を消す。

 

 「ところで俺に何か用事かな?」


 ここは素直に優しい言葉をかけるべきなのかもしれないが、転移前のやり取りを忘れてはいないので蒲田の態度はやや固い。 笑実は泣きそうな声でごめんなさいと謝る。


 「こんなよく分からない場所に連れて来られて……不安で……知り合いって分かってたけど、祐平が居てくれたからどうにかなって……でも、今いないから……」


 そう言って笑実はグズグズと鼻を鳴らしてすすり泣く。

 蒲田はそれを見て少し慌てる。 


 「わ、分かったよ。 不安なら一緒に行こう。 大丈夫、僕の悪魔は強いからきっと守ってくれるよ!」 


 泣き出すとは思っていなかった事もあって、動揺は大きい。

 笑実は恐る恐ると言った様子で俯いた顔を上げ、涙で濡れた瞳を見せる。

 それを見た蒲田は少しだけ、胸を高鳴らせた。 笑実は整った容姿をしているが、今の彼女からは奇妙な色気を感じており、蒲田は花に吸い寄せられる虫のように彼女に近寄る。

 

 そしてもう大丈夫とその肩を抱こうと手を伸ばすと逆に笑実の方が胸に飛び込んで来た。

 普段ならまず有り得ない状況に蒲田の思考はこの瞬間、完全に空白となる。

 そして――


 「こほっ!?」


 喉に違和感。 同時に口から熱い液体が溢れ、鉄の味が広がった。

 それが自分の血液だと認識するより早く、眼球に何かが突き刺さり訳も分からずに彼は倒れる。

 最後の力を振り絞って顔を上げるとそこに居たのはぞっとする程に冷たい眼をした笑実の姿だった。


 「強いんだ? ならこれからは安心だね。 ありがとう蒲田君、きみの死は決して無駄にはしないね?」


 笑実は蒲田の魔導書を自身の魔導書に統合し、自分のものとする。

 彼女の引き当てた悪魔、『44/72シャックス』は様々なものを盗む。 物品は勿論、知覚などの目に見えないものも盗み出せる。


 そんな悪魔は笑実から何を盗んだのか? 答えは恐怖心と倫理観だ。

 この状況を打開する為には必要な事柄だったかもしれない。

 結果として笑実から恐怖による思考の濁りは消え失せ、倫理観の喪失により、最も合理的な手段を躊躇いなく選択する事ができるようになった。


 蒲田という少年は上手に使えば操れたかもしれないが、裏切る危険――主に貞操の危険を孕んでいたので最も合理的な処理方法は殺害だ。 油断させる方法も簡単に思いついたので、躊躇さえしなければ制服の胸ポケットに入っていたボールペンで充分に殺害は可能。


 その考えに従って彼女は同級生をその手にかけた。

 

 「……取りあえず、祐平を探さなきゃ……」


 笑実はぼんやりとそう考えて歩き出す。

 その足取りは先程までとは別人のように確かで軽かった。

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