レディ・ローザ

木野結実

第1話 マーレのルアーナ

 風をたくみに操って相手の陣にボールを落とすと、歓声があがる。こぶしをつきあげた焼けた肌から、白い砂がこぼれ落ちた。


 青い海、白い砂浜、照りつける太陽。

 どこを切りとっても青春の一ページになるだろう眩しい光景。その若者たちの中心にいるのは、パッツィ男爵家の三男坊アンジェロ・パッツィその人だった。


 エメラルドグリーンの輝く海を背景に、躍動するたくましい肉体を店の窓から眺めながら、ルアーナ・ロンバルディは甘いため息をついた。


「ねえマリラ。あの素敵な人が私の恋人って信じられる?」

「ええ。アンジェロさまは、たしかにお嬢さまの恋人ですとも」

「ああ、幸せすぎて夢みたいだわ」

「お嬢さまが、もうすこし真面目にお仕事してくださいましたら、マリラはもっと幸せにございますよ」


 マリラがすこしくらい嫌味を言ったところで、ルアーナの熱はおさまらない。もうひと勝負はじめた恋人の姿を、一瞬でも見逃さないように目に焼きつけている。


 カランコロン。

 ドアベルが陽気な音を立てた。


「ちわーっす。注文お願いしやーす」

「いらっしゃい。今日は早いのね」


 ルアーナは、頬を紅潮させたまま御用聞ごようききの青年から注文票を受けとると、テキパキと棚から商品をだしていく。いちばん下に書かれた品を手にして、思わず顔がほころぶ。


「これ、お気に召していただけたみたいね」

「ああ、はじめてマーレにいらした、侯爵夫人の伝票っすね。お嬢の美容液は、いちど使ったら病みつきになるって評判だから」

「ありがとう。バカンスといえど、マーレの日射しはお肌にきついもの」


 ここはサヴィリア王国でいちばんのリゾート都市、パッツィ領マーレの海岸。

国内外から多くの貴族がバカンスに訪れる。


 輝く太陽と美しい海。

 王都からは遠く離れていることもあって、開放的な気風である。


 王都では真面目な顔をした貴族でさえ、豪華なブロケードコートや重いドレスを脱ぎ捨てて、バカンスを楽しむのである。


「マリラが商品をチェックしてるあいだ、こっちで果汁水ジュースでも飲んで待っててくれる?」

「あざっす」


 青年は顔を輝かせてカウンターに座った。ルアーナは、奥から冷えた果汁水ジュースを持ってきて彼のまえに置く。

 喉が渇いていたのか、青年はごくごくと勢いよく飲み干した。


「こっちは裏にいる人たちにどうぞ持っていって」


 ルアーナは、携帯用の陶器にはいった果汁水ジュースを青年に手渡した。


「いつもすいやせん」

「気にいったら、それも店で買えるからよろしくね」

「はっ、さっすがお嬢! 商売上手すね。ロンバルディ商会が流行るわけだ」

「毎度ありがとうございます!」


 ルアーナは、パッツィ領で手広く商売する豪商のひとり娘である。

 ここは海岸沿いの小さな店で、ルアーナもときどき店番をしている。といっても店には目のまえの浜辺で遊ぶ若者がたまによっていくだけ。ルアーナはもっぱら海を眺めて過ごしていた。


 しかし、バックヤードは大きな倉庫になっていて、ロンバルディ商会自慢の品がぎっしりと積まれている。

なのでバカンス中の貴族の屋敷から、彼のような御用聞ごようききが注文票を手にやってくる。大量の注文は裏から荷馬車へ積みこみ、少量のばあいは店に顔をだす。


「お嬢さま、注文票と商品に間違いございません」

「ありがとうマリラ」


 マリラは小さいころからの世話係で、忙しい両親にかわってルアーナの面倒を見ている。年も近く、ルアーナにとって誰よりも心強い相棒である。


 そのマリラが青年の顔を見て、思いだしたように優しく微笑んだ。


「そいえば、お姉さんのところに二人目が生まれたそうですね」

「そうなの?」

「よくご存じで。こんどは男の子っす」

「おめでとう! なんで言わないのよ、みずくさいじゃない。えっとじゃあ……これ、赤ちゃんにお祝い!」


 ルアーナは店のショーケースから小さなスプーンを取りだして包んだ。

 青年は首をふり慌てて包みを押し戻す。


「いけません、お嬢。いただけませんよ」

「遠慮しないでいいのよ」

「いやいや――」


 と、いうやりとりがしばらくつづいて、最終的にマリラがことをおさめた。


「男爵家で侍女をするお姉さまには、おなじ侍女として私もお世話になっておりますから。これはお嬢様と私の二人からということで受けとっていただけませんか?」


 やはり頼りになる世話係である。


 御用聞きの青年がいなくなると、店はふたたび静かになった。


 午前中の客は、御用聞きが二人と浜辺で遊ぶ若者が三人。ロンバルディ商会の看板娘としては、もうすこし売上を伸ばしたいところだ。


 それに、もっとアンジェロのそばにいたい。


 はじめてできた恋人に、ルアーナは夢中だった。


 店番をマリラに任せることにして、携帯用の果汁水ジュースを鞄につめた。器もふくめるとかなりの重量で、いつものルアーナならマリラに任せるところだ。だが、アンジェロに会いにいくとなればはなしは別だ。


 華奢な体から無尽蔵に力がみなぎってくるのを感じる。


「お嬢さま。恋人といえども、節度はお守りくださいませ」


 この小言がなければ最高なのに。

 ルアーナはうんざりした顔をむける。


「分かってるわ。結婚するまでは、でしょう。そんなことより、この格好大丈夫かしら?」

「ええ、いつもどおりの可愛らしさでございます」


 ルアーナは、桃金色ピンクゴールドの長い髪をゆるくまとめ、貫頭衣の上にはいた花柄のラップスカートからは、すらりとした足をのぞかせている。彼女の自慢はその愛らしさだった。


 以前なら、バカンスの時期は貴族の目に留まらぬよう、毎日家にこもってマリラと二人で過ごさなければならなかった。

 しかし、領主の息子であるアンジェロの恋人になってからは、彼が防波堤の役目を果たした。おかげでルアーナはずいぶん自由に町を歩けるようになった。


 店の外にでて大きく伸びをする。いっそう強くなった潮の香りを胸いっぱいに吸い込む。


 ルアーナはマーレが大好きだった。

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