招魂祭

一ヶ村銀三郎

前編

 鬱蒼とした森の中を通り抜けながら、わたくしは最期の地点として適切な場所に早く辿り着きやしないかと期待してみた。そこに僅かな揺らぎが生じぬ事も無いのだが、歩みを止める気にはなれなかった。散策に行くのだと観光客らしい事をフロントに偽って、この町の主たる経路のみを記した概略図を入手し、騒々しく節度の無い祭典の準備に勤しんでばかりいる市街を抜け出し、この標高が四桁も無いながらも険しい聖なる山に立ち入った以上、ある程度は遊山しているかのような時間と距離を稼いで遣らないと却って怪しまれかねない。しかし、そんな時間稼ぎも、直に終わる。

 繁茂する萬緑叢中劈く道は岩石多く人々拒むが山の頂へ縷々と続く。慣れぬ小径のせいで私は何度も躓きそうになった。時々、夏らしからぬ清々しい風が吹き抜けて、空気が澄んでいる為であろうか、幸いにして鬱陶しい蚊蠅の類が少ない山路であった。狭い山道であるから、敬虔な癖に生存に執着する御節介な白装束と擦れ違う前に、さっさと適当な脇道に入り込んで、下界で繰り返し注意が為されていた険岨な断崖とやらへ向かおう。穀物を供えている小さな祠が散見される山路を歩きながら、私は字の大部分が消滅して、人物に関わる単語の断片を呈するだけの看板が設けられた山中の追分おいわけで、教えられた道を逸脱して行った。

 この山に入る前、曇った石と錆びた木材で染められていた麓の町で山頂周辺の状況と事情を色々と聞き込んでいた。最近に行方不明となった平均的体格を有する児童の話題か、祭が待ち遠しいと言う話題ばかりで詰まらなかったものの、親切な事に町の東にある山に危険極まりない地点がある事を教えてくれた者もあった。曰く、この界隈で最も高い山の登山道に、そう言った絶壁が点在する。高さ百五十尺は下らず、地元の人間もまず立ち寄らない。死ぬには絶好の地点である。その事を振り返ると我が唇に笑みが零れてきた。相手方が老婆心で行った道案内を頼りに私は絶命を画策するのだから皮肉な物だ。

 森林の葉脈よろしく人流が繁く通う登山道に対して、木立の育成も大人しい閑散とした支線とも言うべき順路は段々と路面に大小様々な岩石を散り填め始め、道案内を行う看板も消え失せ、小規模ながらも禍々しい虎柄を呈するロープが出現した。周囲には崩れた黒い行書で「猪に注意」と記された看板の他に表示が無い。警告色を呈する紐の前に赤いパイロンが六つ、整然と並べられていた。この先は危険なのだろう。

 額の汗をハンカチで拭いながら、そこで私は今まで騙し騙し生きてきた暗く寂しい不服な端役的日常を回顧してみた。見上げると、日は空の真ん中で静止していた。我が生涯は滓取に載った詰まらぬ駄文を転写した捻りの無い筋書その物であった。……引き返す理由は見当たらなかった。猪が怖く無い訳では無いが、ただ、不愉快で下らぬ三千世界に身を置くよりは、豚に似た獣に殺される方が良いような気がした。ものの、私は細い紐によって作られた一線を跨いで、六体の円錐の向こうに踏み入った。巨石の居座る地盤に根を張る木々が、兎に角繁茂しようと努めるせいで、周囲の情景には歪な緑が乱立する。いよいよ石径は還元率皆無の税金ではなく、Esしか持たぬ獣によって整備される貧弱な路線へ変じた。

 博愛だの平等だの言う全く形而上にしか存在し得ない保険に縋る事でのみ生き永らえぬ臆病者の屁理屈に依る注意書も特別に存在しなかった為、突き進む。おそらく立入禁止の記号内容が存在したのだろうが、そんな事は一言も表現されていないのだから分かる筈も無い。そう己に言い聞かせて、手入れの行き届いていない狭い路を歩いて行った。簡易的な障壁を越えて進んで行くと、隙間なく続いてきた勢いある木々と蔦蔓は、次第にその間隔を広げて、底面を這う繁みも寂しくなってきた。地面に栄養のある土が少なく、代わりに岩石が多いのだろう。となると、岩場が近いのだろう。だとすれば崖が在っても不思議ではない。

 行く先に目を遣ると、森林の先が天空より差してくる日光で明るくなっていた。この先で葉緑は途絶えているようだ。遠くから白く見える世界に突き進んで行くと、地面と空中の境目が、その空間に横たわるように一本、走っていた。そこから先に地面はない。有っても崖の下を覗き込まなければ、青い絨毯を拝む事さえ出来なかろう。……下を見ても怖気付くのは明白だから見る気にはならないが。何もない青くも白くもない無色透明な空間が広がっているだけで、懸命に羽根を動かす幼そうな小鳥の姿がチラホラ窺えるだけであった。

 ……ここに身を投じれば、確実に三流虚構の如き我が生命を絶つ事ができる。何人からも見向きもされぬ、見すぼらしくて下らない緩慢で冗長な灰色の狂気じみた詰まらない日々を完全に終焉へと導く事が出来る。

 今まで散々、あんな無配慮かつ無礼で短絡的で巫裂ふざけた連中の心無い御発言に蹂躙されて来たのだから、今更此の穢土に対する未練なんて物が存在する余地は一立方μの体積も実在しなかろうとは推察されるが、不思議な事に全く脚が進まない。笑ってしまった。私は家から履いてきた安物の黒い運動靴に目を遣った。二年経つ中古だ。底は削れて擦り減っているし、ここへ来る過程で土煙を被ってしまって、どこか汚らしくなっていた。

 なけなしの幣札を生贄に捧げて取得した数少ない財産だが、購入時に感ぜられた魅力と機能はもう無い。疲弊した靴から目を離して、ついでに現世からも離脱してやろうかと思ってみたが、視点を動かしている途中で何か光る物を見かけた。地面だった。……こんな殺伐たる空間の底面で何が輝いたと言うのか。どこで光が生じたというのか。

 ただの光子反射であると言うのに、燐寸棒の弱々しい焔のように小さな好奇心が生じてしまった。禁止線設置以来ヒトの出入りが乏しい地である筈だから硝子である訳もない。石英、黒燿石の類か。考える程、興味が心理に蔓延していく。せめて死ぬ前に強烈に瞬いた存在へ目を遣っておきたい。

 今まで通ってきた緑色の世界から、これから行く先であろう虚空に視点を移し、そして足元に広がる絶壁の先端を見てみる。風化によって多種多様な筋と瘤が発生している岩場の隙にまで目を送っていくと、やはり、そこには小さな明点がある。近づいてみると、夏場の根石虫獣の為せる技ではない事を知った。冷たい白金色を呈しているのだ。

 恐れながらも手を伸ばし、拾い上げてみると、煌めく環状の金属には、明るい鮮血を宿しているような小さい結晶が填め込まれていた。熟れた柘榴の傷口みたく赤々しい光は我が目に入り込んで眩ませてくれた。おかげで僅かに涙が出そうになってきた。強い光線に晒され、残像が視界に入り込む中で、何とか私は、その指環をじっと見つめようとした。その際、小鳥のさえずりが幽かに響いていた。

 ――帰りたいっ。こんな殺風景なとこ、面白くないっ。

 ……あんな浮かれた連中が蔓延っている詰まらない鳥居先の町に戻って、どうすると言うのか、この装飾品を質屋に売り飛ばして金を得るか。まあ、それも一興だ。その端金はしたがねを使い切ってから死のう。――なんでもいいけど、ここにいても仕方がないよ。はやく帰りたいよっ。

 ……我ながら妙な発想だ。どこから湧いて出てきた思考だろう。誰かに横槍を入れられた気分がするものの、手元の飴細工のように可憐な光沢が、どういう訳か気になる。ひょっとすると資産になるかも知れない。この価値を確かめてから身投げしても良いような気がしてきた。――な、何を考えてるのか分からないけど、とにかく町に行こう。……不思議だ。指環を見て、あの喧しい山麓の町に戻ろうと想起するとは、どういう風の吹き回しだろう。しかし、足が動かなかったのも事実だ。薄手の上着のポケットに拾い上げた物を入れて、私は、またしても未遂に終わった事を残念がりながら、小径を遡り、先の六円錐の境を通り過ぎて、登山道を下って行った。できればそうしたくなかったが、体が自然に、そんな風に赴いてしまった。

 石に阻まれていた草木だったが、小規模な祠の点在する本線に戻ると牛耳るように繁茂をしていた。たまに涼しい風が吹くとは言え、温度が上昇し、日照時間が長くなる季節であるから、止むを得ない。蚊に喰われるのを避ける為、速やかに正式な登山道へ戻ると、ちょうど、首に仰々しい飾りを付けた二、三の白い装束を着た両腿が、長い年月に依って訛った呪文を唱えながら、通り掛かって来ていたので、ちょっと戸惑った。あの連中は、どうにも我が精神を見透かしているような気がする。――ひ、ひどいっ。

 しかし、奴らは私の事を下山中に迷った何処にでもいる阿呆だと思ってくれたのだろう、こちらに一礼して再び調子の外れた呪文を唱えて、この山の頂へと向かい始めた。若くして行方不明となった少女への鎮魂を兼ねた苦行なのだろう。

 柔らかな風で落ち着けるとは言え、こんな熱気のある中で御苦労なものだと考えて遣りながら、下山していく。今度は朱色をした猟銃を負った複数の背と擦れ違ったが、大した脅威でもなかった。きっとあの看板に示された、猪とやらでも狩りに行くのだろう。

 ――もうちょっと優しい言い方しないの? は、畑だって、荒らされてるんだから――。

 ……幽かに姦しい幼げな声を無視して、町の在る西方へ歩みを進める。山と麓の町とを隔てる岩場の目立つ小川に差し掛かり、それを渡す簡素ながら苔がして外観の黒ずんだ石橋を歩いて行った。架橋から年月も経っているのだろう、所々に天蓋のような補修用のテントが張り巡らされている為、登山時に通過した時と同様に、どこか落ち着かない印象を受けた。

 短くも覚束ない橋で無事に渡河すると、石造りの街並みがポツポツと点でも打ったように出現してくる。この街路を直進すれば鳥居先の本筋に突き当たる。血肉が戯れ舞う下品な領域だ。麓にある町の外れは相変わらず黒ずんだ石材と風雨によって朽ちつつある木材によって相変わらず支えられていたが、それでも招魂の季節を祝うべく、酒や肴、菓子に景品などを詰めた木箱や棒状の木片、特設テント用の布などが道端に配置されていた。

 ――やっと、帰ってきたのね。ちょうど、お祭りの時期だったんだ。

 ……とうとう下界に戻ってしまった。周辺に転がった姦しい祭典に関わる事物が目に入るだけで気が滅入る。伏目で極力、靴のゴムと土煙で黒ずんだタイルを見るようにして歩く。

 ――そんなことして。ぶつかっても知らないよっ。

 凹凸の激しい土の道から石畳の末端に踏み入り、靴音を二、三響かせて、徐々に秋の祝祭独特の活気が漂い空間に向かって行くと、段々情けなくなってくる。……私は何の為にあの山に踏み入ったのだ。何の為に崖に至ったのだ。

 ――そう言えば、お祭りは今の季節だったな、すっかり忘れてた。……さっきから私は何を思っているんだ? 

 町を離れたのは概ね二時間前の事であると記憶しているが、どういう訳か、祭典に際し忙しなく溌剌たる町の雰囲気に妙な旧懐の情を感じた。今までに見た事が無い情景だと言うのに、あまり好きでもない光景だと言うのに、聴いたことも無い祝祭の名だと言うのに。登下山による疲労のせいで、思考にも支障を生じてしまったのだろうか。

 どうにも他者から茶々を入れられているような感覚を無視しつつ、兎に角、着ている上着に突っ込んだ指環だ。これを鑑定して貰う。それで小銭を稼いで、一杯引っ掛ける……。それで、この俗世とは完全に縁を絶切る。

 ――ほんとにそれでいいの?

 ……今更何だ? 閑静なこの町に来たのはその為だ。私は静寂の中で消えて逝きたいんだ。銀の環なんてノイズのせいで、少々掻き乱されてしまったが、とうとう中心地の公園にまで下ってきた。外界は相変わらず騒がしかったが、私が視点を逸らすだけで煩雑さも半減するから、まだ耐えられた。その中央にも特設で舞台が置かれている。その辺りから甲高く鋭い声と三枚目調の低い声が交差する事から、夫婦漫才のような催しだと推察されるが、肝腎の姿は見えなかった。

 ――残念ね。

 そこを二重三重に囲んでいる馴染めない人混みの波の中に身を投じている為、様々な服装が嫌でも視界に入る。典型的な紺を呈する甚平、洗濯が手間になりそうな白い婦人服、水玉を飾った捻り鉢巻き、何を考えているのか骸骨の仮装に興ずる者さえ有った。実に雑多な集団の中から直ちに逃げ出したかったが、これ以外に進むべき進路もなかった。

 地面を錯綜する靴共の行く末を推察しながら、鬱陶しく動く障碍物を華麗に避けて行く。

 ――ヘンな人ねっ。

 日差しのある公園から北に折れてみると、参道を拡張した街並みになる。基礎のある建物の前には、極彩色を呈する山菜を売り付ける皺と傷だらけで枝先みたいな手や、ここでは珍しい魚介類を見せ付けてくる赤銅色の岩石じみた腕、水晶を魅せる仰々しい鴉のごとき黒衣、祭典の前座で手品を仕掛けてくる胡散臭く妖しい玉石と見紛う指先を徹底的に通過して行き、灰色の石を積み上げた金融街の片角を西に曲がった。

 ――なぁんだ、面白そうだったのに。

 そうして、この町における金策で世話になっている埃を被った木造の質屋に辿り着いた。

 ――ちょっと、よりによってこのお店? まさか、ほんとに指輪を売るつもり?

 ……そうだとも売り払ってしまうんだ。何度か行った行為なのに今回は少し手が震える。あまり言う事を聴いてくれない右手を無理に金色の取っ手にかけて、重苦しい漆色の扉を開けた。

 小さい鈴が鳴り、店の中で白い頭がこちらを振り向いてきた。

「いらっしゃいっ。……ああ、あなたですか」

 我が目前において、カウンターの向こう側で眼鏡を身に着け、椅子に腰掛けていた白髪は、またしてもお前が来たのかと言いたげに眉を顰めて私の顔面を一瞥してきた、この質屋の主人である。

 ええ、まあ、と常套的で平凡な文句を言いながら、入口の沓摺くつずりを跨いだ私は崖っ淵から持ち出してきた指環を彼に見せた。今までデスクで質流れしてきた物品の点検に勤しんでいたのだろう、虫眼鏡と帳簿と思しきノート、羽ペン、金品、装飾品などを仕舞っておく小箱もあった。ここなら確実に鑑定してくれるだろう。

 ――ちょっと、それ、売る気?

 ……私は眼鏡に昔に譲り受けた物が、もう不要だから、どの程度の価値があるが気になったから、見てくれと言った。上着のポケットから取り出す手が、どういう理屈か震えてしまったが、どうにか相手に輝く指環を見せることができた。

「……何です? 今度は指環ですか。……いやぁ、随分と財産をお持ちですねぇ、最初は十八金の万年筆、次に旧式の猟銃、これには驚きましたよ。まあ、その次か四度目にお持ち頂いたスコープとかレプリカの小銃とかは、あまり良い値段で取引できませんでしたが、それでも今度はこの儂を喜ばせて下さるでしょうなぁ」

 全く何時に無く嫌味な事を言ってくれる。赤い光線を放つ指環は土砂に塗れていたものの、銀の光沢も有している。素材がどうであれ、充分に装身具としての機能を果たしている。問題は材質である。

 ――どうするつもり? ……ここの親爺に見せるだけだ。――見せるだけ? ……値段が付くまで少し待つ必要もあるが、そんなのはすぐに終わる。その後に良い値が付けば……。――そう。

 醒めた少女の冷淡な声がしたと同時に、両手に白い手袋を填めた白髪の眼鏡は、私が手に持っていた例の指環を造作も無く速やかに取り上げて、重厚な漆を纏った作業台に持って行った。その途端、照明と指環の位置関係が変化したのか、その銀色の鋭い光沢が、淡く鈍い鉛のような廉価な光に転じたように感ぜられた。一瞬にして、あの時見た美しい輝きが失われてしまったのかと思っていると、白髪交じりの眼鏡は突然ハハハハハと笑い始めた。

「こんな物、子供の玩具ですよ」

 我が思惑の不的中を嘲笑うように、煙草のやにで黄色くなった歯を見せてニタニタと笑いながら眼鏡はそう言った。先ほどの断崖で見た指環の燐輝は妖光だったのだろうか。狐に頬を摘ままれたような気分になった。

「見て下さい。まず材質、安いスズです。まあ、厳密に言えば、亜鉛とか銅とか別の金属も混ぜているでしょうが、何にせよ同じことです。それに安価なクロムのメッキを施した程度の安い指環ですよ、これは。おまけに小賢しくも……失礼、赤く染色した硝子細工なんて填め込んでる。色付きのジルコニアだったらまだしも、こんなの地面に落としただけで、すぐに傷付いてしまいますよ。あなたともあろうお人がこんな物を持ち込んでくるなんて。……こんなもの、一体どこで手に入れたんです?」

 言われて見れば、白い手袋に包まれて窒息しそうに小さくなっている指環は、鈍く矮小な鉛色の光を放っているようにも見える。しかし、手渡す直前まで微妙かつ繊細でどこか可憐な光線を八方に放っていた記憶が、少なくとも我が脳裏に残されている。一体、どういう事か。白髪の質問を適当に対処して、私は持ち込んだ変哲の無い金属製品に幾らの値段が付くか尋ねた。

「ウチで引き取っても良いですが、値段は付けられませんよ」

 あくまで査定額を知りたかっただけだから売らない事にしよう、と私は白髪の眼鏡に告げた。続けて、値段については後で知り合いに伝えておくさ、と当たり障りの無い至極適当な事を言ってみた。すると思った通りに高齢の相手は、鼻で笑うように既製の感動詞を投げ付けながら、こう言ってきた。

「……まあ、久々に笑わせてくれたんで、駄賃と言う訳じゃないですが、少し磨いて傷を取ってみましょう」

 そう言って、ものの数分で眼鏡は土埃を被った指環を拭き上げ、安い硝子に白い研磨剤を与え、同時にメッキ部分に柔らかな布を当てて、新品同様の輝きを再現させてみせた。……よくそんな気力が湧いたものだ。

「お客さん。あの山に登られたんですか?」

 何を根拠にそんな話題をするのか、聴いてみると、どうも私の靴が泥で汚れているからだと答えてきた。……目聡い奴だ。石畳の敷かれているこの鳥居先町では、まず見かけない現象だと皺だらけの眼鏡は言う。

「先日も言いましたように、あの山は……」

 そこで私は相手の発言を遮った。この町に入ってから散々聞かされて、もう聞き飽きたのだ。町から見て東にある山で年端もいかない少女が失踪してしまった。それで親族は大いに憂慮し心身困憊に陥っている。所轄署や消防団、猟友会が彼女を見つけようと躍起になっているが、確か昨日、一昨日辺りで一週間程が経過したらしい。未だに遺留品も見つかっていないと聞く……。

 あなたも含めて、この町の人々は結局あの山について、そう言いたいのだろうと、年老いた彼に言うと、目を丸くしてきた。

「……あなたは、不愛想な部外者と見受けられますが、記憶だけは良いんですね」

 おそらくは皮肉であろう。眼鏡は吐き出すように、私の手へ例の指環を返還してきた。右手で受け取ると、不思議な事に、貴金属的な輝耀を取り戻したかのように瞬き始めた。変な代物を拾い上げてしまったなと心内で毒付きながら上着の胸ポケットに仕舞い込んで、私は無言で質屋を後にした。再び沓摺を過ぎる時、もう白髪は我が行動に慣れてしまったようで何も言ってこなかった。

 ――あきれてるだけよ。……適当に街を歩いて、一旦、本拠地に戻るか。

 そう思って、私は金庫の並ぶ一角から参道に渋々戻って、俗っぽい電球とマンホールが点在する麓の街並みに再び入り込んで行った。

 ――ああ、それにしても、くたびれたな。……同感だ、しかし、どちらかというと骨折り損と言った所だろう。さっき見かけた時は金になると思ったが、何故、値が付かなかったのだろうか。

 ――あたしが、とっさにガラクタに変えたからよ。

 さっきから脳裏に妙に甲高く若い女声が鳴り響いて、私の思考を邪魔してくる。――あなたがあたしの持ち物を売り飛ばそうとしたんだもん、何であんなことするの?

 今日は白い猪豚亜目を拝む神事有る日だと聞いているが、どうした理屈か繁殖する鬱陶しい配布紙と煩わしいプラカードを無視しながら歩く。――それが祭りというものでしょう。

 ……やはり、金属片なんか拾わなければよかった。一銭にもならない。そう考えて、これから料理でも提供するのか、水回りを準備し、灰色のガスボンベを転がしている未完成の屋台が立ち並ぶ目抜き通りに戻って、さっき通過した公園方面へ遡る。

 こんな現世の欲の一切を凝縮させた環状金属の模造品に興味を抱いてしまった為に、狂人の願いを叶えてしまう程に蒙昧で、物質に執着してしまう八方塞がりの世界に下る破目になった。

 ――そりゃあ、この縁日で、その指輪を買ったけどさ。

 ……この調子でヒトなる餓畜の道に居続ければ、再び他人に厳しく自然に易しく、自分に易しく他人に手厳しいだけの阿呆陀羅の群へ伍してしまうのは明白だ。

 ――どういうイキサツでそんなにフテクサれてるのか知らないけど、あんまりグチグチと不満ばっかり思い出さない方が良いと思うよ。

 群衆には無駄な大音声と空回り気味の活気が漂っていて、そうした浮付いた調子に酔ってしまったらしく、白昼堂々フラフラしている胴体も散見された。前方に特設の舞台が設置されつつある通りの脇にある例の路地を探すべく、私は人込みの中をゆっくりと歩いて行く。

 ……やってられない。一度宿に戻って、態勢を立て直し、指環を拾った断崖まで直行してやろう。

 ――やっぱり、死ぬんだ。……何が悪い。――死にそうな時って、あんまり良い気分がするもんでもないと思うからさ。あなた、本気で言ってるの? ……何だと?

 声が言う事の真意を捉え損ねたので、私は捻り鉢巻きや白塗りの立ち並ぶ広い通りの真ん中で歩みを止めてしまった。不意に立ち止まったせいで、周囲の脚は一瞬戸惑い、私を回避しようと努め始めて、何事も無く迂回していく。声は何を伝えたいんだ? りにって何故この私に話してくるのだ? 幸い、祝祭に現を抜かす雑踏は、己の周囲に存在する対象については我関せず知らぬ存ぜぬを決め込むばかりで、邪魔にも関わらず大通りの真ん中で静止した私に関しても、無生物と同様に無視して過ぎ去って行くばかりであった。

 私は、さっきから断続的に聞こえてくる不気味な音声の正体が気になってきた。死に場所も見つからず、自殺も未遂、妙な指環の次は、頭に響く怪音声か。

 ……この町に来てから碌な目に遭っていないな。――そうね、ここに来るべきじゃなかったかもね。

 好い加減に歩行を再開する事にした。往来の邪魔でしかないならまだしも、先に進まなければ何かを為す事も叶わないからだ。それにしても私と言うのも不思議な者だ。僅かばかりの財産を切り崩して徒食し、今向かっている安宿に長期滞在しているが、結局、この鳥居しか無い片田舎で死体置き場を探して右往左往している。今日と言う今日こそはと意気込んで、あの鬱鬱たる現生森林の奥、断崖の寸前まで行ったものの、怖気付いて引き返してしまった……。

 そして今回も、振出しに戻ってしまったようだ。公園から大通りを南下して行くと、例の生塵芥が並べられた脇道が見えてきたのだ。非日常への準備に明け暮れている者と、特殊性が出現する瞬間を待てずに徘徊している者によって、ごった返している街並みを一つ、あの小路に沿って東へ逸れ、行方不明者に関する張り紙の前を通過する。そこには日光の届き辛い路地裏に埋もれるように、今回の滞在地が存在していた。ようやく私は視点を上空方面に移動させる。

 ――こ、こんな、ボロボロのホテルに泊まってるんだ。

 ……濃い蔦が這い回る赤煉瓦造りの外壁は重厚で力強い近代的建築物は、見る者を圧倒させる。

 ――それとも見る人にキョーフを与えるんじゃない? こういうのを、おどろおどろしいって言う気がする。だいたい、安いホテルなら他にもあるでしょう?

 これが一番、私の心情に即していて落ち着くのだ。硝子を多用する華奢なコンクリートの構成物とは一線を画す神殿を思わせるバロック様式独特の複雑怪奇な凹凸と歪な曲線を、地震に弱い赤煉瓦共に背負わせて整合性を含ませている。そこに緑とも黒とも付かぬ、あの東の山路で見かけたような植物の蔓葉が纏わり付く様子が良い。

 ――そう言えば前にここ、見た事あるけど、おばけが出そうなくらい不気味だったから早足でカケ抜けてったなぁ。

 堅牢な煉瓦で固められている正面口の階段付近で突っ立って居ても仕方が無い。古びた神殿の入り口を思わせる濃灰色の階段で蹴躓きかけたが、……下山の疲労だろう……何とか駆け上がり、苔に覆われた玄関前のテントの中に入った。すぐそこに、所々半透明な硝子戸が設置されていた。覗くと緋色の絨毯が敷かれ、橙色に瞬く照明器具と木目を含んだ種々の調度品が立ち並ぶ。さっさと戸を開いてフロントに声を掛ける事にする。

 暖色系統の光源に包まれているフロント付近は、大して客も居ないせいで寂しかった。台帳や封書が散らかっているカウンターの奥で暇を持て余していた赤いマニキュアに頼み込むと、溝が僅かに錆びている鍵を渡してきた。目を見ないように礼を言い、フロントの奥にある階段へ向かう。

 ……指環は部屋に置こう。その後で計画を練り直す。一度死に損なった以上、もう一度あの場所で絶命するのは精神衛生上支障を来たし得るからなぁ。

 ――ホントにヘンな人っ、そんなに死にたいんだ。

 鮮血で染められたような絨毯で舗装されている木製の階段を、今度は集中して丁寧かつ速やかに昇って、滞在している部屋の有る階に辿り着いた。装飾として用いられている年代物の花瓶や、油分を含んだ絵画、毛羽立ったカーテン、くすんだ壁紙に至るまで骨董品――それかガラクタねっ――が並べられている明度の低い廊下には、清掃に勤しむ汚れたエプロンと傷んだ箒、替えのリネンが詰まったポリ袋の群があったが、別に気にならない。

 見知っている部屋番号の刻まれた戸の鍵を開けて、独り身には充分な広さがある空間に入る。滞在二日目だけあって、そこまで汚れていない。二十年間放置されて草臥れたカーテンを開け、悠久の日々に身を委ねて色褪せたカウチに腰を掛けた私は、上着の下ポケットから町の概略図と白い光を放つ環を出し、木製の丸テーブルに置いた。

 安物と査定されたとは言え、室内へ射し込んでくる日光に影響されたせいか、クロムメッキは再び銀色に煌めき、赤い硝子玉は彼岸花みたいな色を呈した。

 ……三文程度の値打なのかね、こいつは。そう考えながら、もう一度、摘まみ上げて見た。

 ――口のわるい人ね、イヤになっちゃう。

 ……だんだんと私の為す事に文句を言ってくるようになった、この声。どうしたものか。原因は何だろうか。やはり、この指環を拾い上げた事が発端なのだろうか。

 ――その時のことなら何となく覚えてる。たしか、あなた、くさったサンマみたいな目であたしのこと見てたな。……腐った魚だ?

 ――そうよっ! 黒目に一切光がなくて、何かをニラんでるようにおっかない顔してた。それに、その指輪はあたしの物よ。ちょっと落としちゃっただけで、あなたにあげた覚えなんかないわ。なのに、お金のことしか考えないで、あんな所に行っちゃうし。そうだ、それから、さっきの質屋さんでのあなた、ひどいじゃない。お店のおじいさんの悪口かなり考えてたでしょう。そんな暗い顔して――。

「余計な事ばかり言いやがって、さっきから何だ!」

 郷里を出てから今まで、ずっと抑えてきたが、思わず声を荒らげてしまった。幸いにして、部屋はシングルだ。カウチから立ち上がって、私は激昂し掛かっている思考を落ち着かせるべく経年劣化が美しい調度品が占拠する客室内を徘徊する事にした。……今まで幻聴だと捉えて無視してきたが、もう駄目だ。さっきから何なんだ、この声は。誰の声だ。気分転換として地図を中古の黒い鞄に仕舞い込みながら、そう考えた。すると、またしても勝手に私の意識下に音声が出現してきた。やはり崖からずっと聞かされてきた若いソプラノ調の声だ。

 ――そっちこそ、あたしの言うこと思うこと全部分かってるみたいで薄気味わるい。あなたこそ何なの?

 これでは話にならない。収拾が付かないと考えつつ地味な灰色のカーペットに立ち尽くした私は、崖っ淵で拾った銀色の小さな装身具をじっと見つめた。質屋は他愛の無い餓鬼の小道具だと査定していたが、だとすれば持ち主はそこまで成熟もしていないだろう。仮にその相手の声とも言うべき奇妙な意識……無意識的に出現する不気味な発想とも言えぬ妙な代物だが……それが、指環の持ち主に依るとすれば、どうだろうか。少なくとも、今までの発言を振り返ると、どうにも幼さが目立つ気がするし、辻褄も合う気がする。

 ――やっぱり、すっごく失礼なこと考えてる。

 鋭く冷たい光沢と燐寸の火のような硝子細工を輝かせる作り物をぼうっと眺めながら、私は再び埃を縫い付けたカウチに腰を掛けた。我ながら莫迦な試みだと感ぜられるが、ああも、容易く我が精神を分析してきたとなると、我が脳裏、或いは心内に響く声の主には主体性が認められると想起してしまう。兎に角確認が重要だと考え、こう発想した。

 ……ちょっと、君。これじゃあ埒が明かない。まず、こちらから簡単な質問を幾つかしよう。

 少し口調を軟化させて尋ねたせいか、少女と思しき脳内の音声は、私に意識された事を警戒してきた。私の心理内言語に干渉しているのだから、私が何を企んでるのか、もう既に知られている気もするが、それでも彼女の語気には、不安が混じっているように感ぜられた。

 ――何よ?

 馴れ馴れしい私の思考に苛立ちを隠しきれない所を察するに、やはり相手は私と比べて経験が乏しいような気がした。……もっとも単純に、今まで垣間見てきた私の賤しい性格を毛嫌いしているだけかも知れないが。話が通じたので、第一に、テーブルに置かれている例の赤い硝子を填めて瞬く装身具について聞いてみる。

 ……この指環は、君のかい?

 ――そうに決まってるでしょ。だからこうして、あたしは、持ち主のあなたに向かってしゃべってるのよ。

 そんな事が出来るのかと考えると、声は――できるよ――と答えてきた。どうにも理屈が分からない。けれども、幻聴とも捉えられる音声が私の頭脳で木霊する以上、何らかの原因が有るのだろうと想像された。つまり、その時の私はカウチに座り込んで声が自ずと聴こえて来る現状を納得せざるを得なかったのだ。

 ……それじゃあ、何であんな所に指環なんか落としてしまったんだ?

 実際、ヒトの立入を制限している場所の奥に、あの銀色に輝く環は落ちていたのだ。第一の発想として、少女が無断で立ち入って、あの断崖の付近で遺失したとしか考えられない。

 ――それは、その、やむを得ない事情があったから、元宮のガケに行っただけで、べつにヤマシイ理由なんかないよ。

 どこか歯切れの悪い印象を受ける回答だったが、深入りせずに次の質問に移った。

 ……君、家はどこ?

 ――ちょっと、あなたみたいな知らない人なんかに、そんなこと言いたくないなぁ。

 案外、個人情報の保護がしっかりしていて、いささか腹が立つ。いや、全く感心する。

 ――ふんっ。ほめたって、あなたの性悪な考えはお見通しよっ。

 嫌われるのには慣れている。そうした些細な事は別に構わないが、この問答を続けては振出しに戻ってしまう。このまま擦れ違い続ける対話なんぞ適当な所で切り上げて、町の東の断崖やら町の西の一級河川にでも身を投じてしまいたかったが、この不可思議な状況の理由を解明させてから死にたい。謎を放置して死ぬとなると、その謎が延々と気になり、実行不能となる虞が有るからだ。

 ――やっぱりヘンな人っ。そんなにして死にたいなんて、おかしいんじゃない?

 それにこの女声に諄々くどくどと文句を言われつつ絶命するのは、どう考えても締まらない。厄介な事になったと考えながら、若い発声に応酬した。

 ……そうだ。……そうだとも。私はね、可笑しいんだよ。オカシイから死ぬのだ。死なねばならぬのだ。……それだけだ。それの何が悪い。お前なんぞに私の何が分かる。お前なんか私どころか、私を除外した一切の事物も分からぬ儘、延々と生き続ければ良い。一生分かるんでない。

 そこでアッと私は驚き、己の思考を停止させた。腹が立ち、思わず本音の一端を吐露してしまった。拙い事をしたか。しかし、我ながら非常に抽象的な愚痴なのだから、相手が理解できる筈もなかった。幽かに響くソプラノ調の声は少し口籠った後、非常に一般的で陳腐な回答をしてくるばかりだった。

 ――そ、そうは言ったってさ、――死んじゃったら何もできないじゃないっ。生きているからそんな風にグチだってこぼせるんでしょう?

 どうにも下山時に見た白装束の聖職者を思わせる模範的で平均的な口振りだった為、鼻に付く。何にせよ、少なくとも私の心境の一端すら推測していない様子なので一応は安心した。我が心理の深層を悟られぬように今後の予定を脳内に張り巡らしながら、私は再び我が脳裏に木霊する女声について思考した。

 ……今、生恥を曝す時間の低減について考えている暇はない。それよりも、誰が落としたのか分からない、この指環だ。これが問題だ。

 そう考えて、茶褐色の丸テーブルに転がっている冷ややかな光沢を纏った可憐な飴のような輪を拾い上げた。

 ……さっき、君の持ち物だって言ったね。だったら、これは君に返すべきだろう。違うか? その為には、まず、君の居る場所か、若しくは、君の家を教えてくれれば良い。住所でも何でも良い。……考えてみてくれ、私がこいつを持っていても仕方が無い気がしないかい。君も分かるだろう? こんな奴に、こんな指環は不釣合いだって。

 実際、所有する価値は無い。持つだけ無意味である以上、本来の持ち主と思しき音声の主に返却の話題を吹っ掛ける方が建設的であろう。……まさか、これを拾ったせいで呪われた訳じゃないだろうな……彼女の声は少し唸って、それから返答が為された。

 ――分かった。あたしの家の場所、教えてあげる。その指輪をお母さまにわたしてくれれば、それで良いと思うよ。

 ……君、本人に直接渡すという方法もあるだろう?

 ――あたしに直接?

 どういう事か、そこで相手の声は引っ掛かった。思考停止状態にでも陥ったような静寂を私の脳内に与えてきたのだ。あの断崖からずっとそうだが、やはり不思議だ。安い金属片をポケットに収めながら、そう思った。しかし、沈黙は長続きせず、客室上部の分針が目盛りを指すよりも速く、ソプラノ調の弱い音声が我が心内に流れてきた。

 ――ごめんなさい、ちょっと思い出せないことがあって、それでだまっちゃった。そうそう、あたしの家の場所だったね。

 そう言ってから、相手は元の調子に戻り、家の所在と思しき地点を私に教えてくれた。吃驚した。おそらくは、この町の中だと想像していたが、北に在る社そのものを言ってきた。これでは下らぬ三文小説の筋書きも同然だ。

 ――そういう人だって、この世の中にたくさんいるでしょう、それなのにホント失礼な人ねっ。

 確かに出自の聖俗によって、神通力による通話が成立する訳でも無かろう。それ以外にもが、ひとまず、幼げな女声への応答に務めた。

 ……しかし、りにもって、あの神社だとは思わなかったんだ。それに、そうとなると、ちょっと面倒だな。

 不図して、あの町の外れと言っても良いような世俗から掛け離れた石段を含有する杜の光景が脳裏に蘇った為に、稚拙な我が思考の一端を零してしまったが、それでも私は何とか取り繕おうと努めた。

 ……君も知っているだろうが、今日は祝祭日だ、残念ながら。君の言う場所は、その本拠地、中心地になっている。仮に君の親御さんが、言っちゃあ何だが、社務所で、そこまでの役職に就いていなかったとしても、多忙を極めているだろう。……とてもじゃないが会う事は難しいぞ。

 ――だって、そこがあたしの家だもの。しかたないでしょ。

 月並な表現だが、俄かには信じ難い。仮に脳内に反響する音を信頼するとなると、その女声の持ち主は巫だか閂だかの娘に相当し得る。益々厄介である。

 ――さっきから何をなやんでるんだか。さっさと行ってみればいいじゃない。こんなホコリの多い空間よりも、外の空気に触れた方がいいと思うよ。

 ……行った所で、君の声が聞こえるとも分からんぞ。

 二日程、清掃を入れていない客室に文句を言ってくる脳内の声に僅かばかり憤りを覚えたが、彼の幼気な女声が言う事も分からないでもない。外界で得た代物は外界でしか判明しなかろう。それに、本当に脳に響く声が、神職の子に依る物であるならば、ある程度の情報、即ち、辻褄の合う根拠足り得る情報や文言などが、移動中に明らかになっていくかも知れない。幼げな声の持ち主は、さっきから縁日に興味を示していた。うまく神社に赴く途中で、徹底的に尋ねてみれば、きっと実態が浮かび上がるだろう。それだけの話である。――そうカンタンにいくかなぁ。

 ……何と言おうと、表に出て、この声と対話すれば、この他人の声が止め処無く続く巫裂ふざけた状況を打破し、再発防止する糸口を手に入れられるに違いなかろう。ただデメリットが一つ、町は祭典とやらの只中だった。私は身に降り掛かった異常事態を解消したいだけであって、酒池肉林に聳ゆる黒山を見たい訳ではないのだ。

 ――ワガママな人ね、だったら表に出なければ良いじゃない。

 そう言われ、私は少し苛立った。言いたい放題に言われて、どうにも腹が立つ。外に出て原因を探り、心内で少女の声が再生される現象を解消させてやろう。若干気が進まなかったが、私はソプラノの声を無視しながら客室の出入口に取り付けられた古びた真鍮のドアノブを回転させて遣る事にした。

 灰色で軋んだ音を漏らすリネンカート、経年劣化で石灰色を呈すようになった花瓶、喧しい音を奏でる鈍銀色の掃除機、萎れた蓬みたいな生け花、傾いた額縁、灰色の埃を被ったタングステン燈が等間隔に立ち並ぶ赤絨毯の廊下を驀進し、階段に向かった。重力と脚力で速やかに下って一階に着く。今度も躓く事は無かった。フロントで暇をしていた、あの若いマニキュアへ客室の鍵を突っ返し、エンタシスが美しい正面玄関を出た。

 ――なんだか、息がつまるような場所だったなぁ。

 私の趣味に対する挑戦とも取れる発言だったが、心無い言葉に一々構っている暇も無い。夕方になれば、祝祭の震源地たる社は大いに忙しなくなる筈だ。混雑する前に速やかに出向いて、柘榴の内臓みたく紅々と光る環について尋ねてみよう。今回取る経路について考えてみた。手っ取り早く、町の北、鳥居先のランドマークも称せる社に行くには、あの酩酊者の大群――酔っぱらいってことかな――。……そんな事はどうでも良い。兎に角、そう言った代物が繁殖する俗っぽくて埃っぽい大通りを突っ切る経路が最短であった。僅かばかりの到達意欲を持ちながら、回収を待つ生活廃棄物が山積する例の薄暗い小路を進んで行く。影に浸食された隘路は、とうとう明るい終点を見せ付けてきた。喜怒哀楽が一緒くたに混ざった騒音がする。

 ――何でも良いけど、はやく曲がりなさいよ。

 幽かに頭内を反響する音声は私の発想に対して辛辣だった為、どうにも調子が狂ってしまいそうだった。それでも確かに、彼女の言う通り、ここまで来て引き返すのも莫迦らしかった。けれども、あの人混みに身を投げる事を考えると腰が引ける。しかし、ここで戻れば出て来た意味が無いと発想し、意を決して、どうにも趣味に合わぬ世界に入り込むと、強烈な記号表現の氾濫が何者にも制止されず、我が視界へひたすらに飛び込んで来た。

 蒼穹、ビー玉、飴細工、鈴の音、提灯、案内図、ラジオ、粉物、のぼり旗、煙草、冗談、蟬時雨、草履、線香、痴話喧嘩、団扇、景品、サングラス、臨時休業、草野球、法被、炭酸、拡声器、カメラ、空き缶、紙垂、日陰、醤油、ケーブル、汗、勘定、迷子、風鈴、水鉄砲、緑、鉄板、掲示物、熱気、看板、発電機、ホース、簪、待合せ、刺身、サンダル、鉄パイプ、浴衣、徳利、本部前、花火、御神籤、ビール瓶、児童、自転車、蜃気楼、燈籠、客引き、水溜り、化物屋敷、テラス席、金魚、行列、蟻、氷、着物、割り箸、横断幕、陽射し、串焼き、ビニール袋、仮装、パラソル、係員、小銭、制服、巾着袋、向日葵、救護所、パナマ帽、……見れば見るほど、何が何だか分からない光景であり、町は秩序付けられた混沌とも言うべき状態にあったと把握される。……白い豚だか猪だかを模った神輿などと言った諸々の儀礼的事物、それらを取り囲むヒトの群……駄目だ。読んでいる三文小説が愈々狂気に突入してしまった時のような、どうしようもない無気力な心持になり、頭が痛くなってくる。

 ――まあ、ひねくれてるというか、なんというか。

 あどけなく呆れ果てている女声を無視して、町の中心地に当たる公園の手前にある濃い葡萄色の喫茶店に逃げ込み、扉の奥に入った。そこで珈琲を衝動的に頼んでしまった。昨日から興味を抱いていた店だったが、それでも祭典に圧倒されて駆け込んでしまったのは不本意だった。

 ……けれども、我が精神を落ち着かせるには必要な出費だ。これ以上、あの行列の中に居て、周囲を見ていては圧し潰されてしまう。だが、ここで一服すれば、雑踏に疲弊した我が精神も落ち着くだろうと考え、目当ての物が来た際、試しに店の窓に目を遣ると、何の変哲もない駄菓子の数々と猛烈な群衆の往来が見えた。

 ――あっ、あのお店、またやるんだ。

 我が心内の音声は、今度は随分と陽気な声に聞こえた。先ほどのホテルでもそうだったが、この静かな空間で、この幼げなソプラノを聴くと妙な感覚に陥る。仮にこれが周囲に存在する人間によって為された普通の発話であれば、発声箇所は確かなのだから、何の違和感も生じず、不思議にも無気味にも感ぜられぬ筈だ。

 しかし、この場合、我が頭脳に直接振動を与えるように発生する音声は、どことも分からぬ方面から来る代物であった。言うなれば、我が脳髄そのものから自ずと出現してくるような代物であろう。そう考えると、益々気色わるい。――そりゃ、わるかったね。

 ……さっきは油断してしまったのだ。お陰で我が心理は搔き乱されてしまった。

 気付の為に、速く提供されて来た芳香を放つ渋酸な黒い水を呷ってから私はそう思った。窓の向こうに広がる均一的な混雑から視点を逸らし、胸ポケットに収めている物を取った。動脈血のように鮮やかに滾る硝子を眺めながら、脳裏でクスクスと木霊する若い女声を聴いた。

 ――まあ、時間によっては、人の出も多いから、注意して歩かないとね。

 その音色は、灰色で無機質な混凝土で覆われた餓畜羅の獄に生息する、金彩に狂賛し、麁醜そしゅうを嫌悪し、野郎共を蔑ろにするⅩⅩの隊伍と同様の僅かに陰湿な笑い方を宿しており、不意に我が精神に潜む憂惨な出来事が開封されてしまいそうになった。

 ……あの生ける障碍物の集団が捌けるまで待ちたいが、私にだって予定があるからな。

 燐寸のように瞬く焔を湛えた指環をポケットに戻し、再び外界の様子を覗う。茶店の窓を隔てて、往来を引っ切り無しに続ける群衆は、苛立ちを覚え始めた私の精神に構う事無く、無意義な雑踏を忙しなく繰り返していた。私の角膜との間には、紙のように薄い硝子板一枚隔てて縦横無尽な群衆が在る訳だが、あんな奴らは、どうせ我が神経に起きた事象も、私の置かれた状況も、その背景も知らずに、墓場へ向かって行くのだろう。全く嫌になってくる。

 ――お祭りなんだから、しかたないでしょう。みんな、何も考えずに楽しみたいんだよ。

 何度も飲んできたのだから慣れている筈の黒い汁だったが、雑木の繊維から無理矢理に搾り出した液体のような雑味ばかりで、全く甘美には感ぜられなかった。

 ……祝祭は嫌いだ。前に財布をられてな。……まあ、坊主憎けりゃ袈裟まで憎いって訳じゃあ無いが、この耳に、良くて室町以来続く黴塗れの御囃子を、我が鼓膜に聞き入れるだけで、その事を思い出して腹立たしくなるんだ。

 ヒトの出を考えると、今後、祭典の源である鳥居とその本殿では混雑が予想される。可能な限り、あの波には潜りたくない。大体、遭難者とやらが発生していると言うのによく浮かれて居られる。……しかし、私の思考を検閲するように、とやかく言ってくる未熟な声をどうにかしなければならない。このままでは、あの厭味ったらしい掛かり付けの医者に診て貰うしかなくなるだろうな。……その最善の方法が社への訪問なのか、未だに納得できないし、巫裂ふざけていると推察されるが、少なくとも頭脳に生ずる音声は、その事を示唆している。

 ――混乱してるみたいね。……しない筈もなかろう。ヒトの声が聞こえているなんて控え目に言っても異常だぞ。――でも、あなたは自分のこと、おかしいって言ってたね?

 泥のように黒い湯を一気に飲み干して、精神を張り詰めさせようとした。……頭の中の声とは程々に付き合わないと発狂してしまいそうだ。手っ取り早く参拝して、音声を何らかの手段で処理し、さっさと死んで遣ろう。さもなければ明日にも無断欠勤で叱責されてしまう。

 脳内で、女声の持ち主を莫迦にしてるだの、私の行為の源は結局不純な動機だのと揶揄された気もするが、レジに居た若い面皰へ中程度の金銭を与えた私は、怒涛の雑踏への突入を覚悟しながら店の戸に近づき、取っ手に手を掛けた。ベルの音が鳴り、種々の感情が入り混じった訳の分からぬ雑音が漏れ始める。私は視点を地面に向けて、歩行を再開した。

 ――せいぜい、ぶつからないように気を付けてねっ。

 皮肉に満ちたソプラノが幽かに鳴り響く中、私は雑踏の波を掻き分けるように、北上していった。ようやく中央公園に着いた頃には、近くの時計台の短針は午後一時の領域を指していた。仮設舞台の周囲に設けられた丸テーブルや椅子に、数々の香辛料や酒類、調味料、緑黄色野菜、灰皿、清涼飲料水、動・植物性蛋白質、注意喚起が陳列され、愛だの恋だの友情だのと言った不可視な代物を有難がる不可思議で胡散臭い大量受注生産的雑音が鳴り響いている。先に軽食を済ませたから、あまり興味を持てなかった私は、山の在る東へは向かわずに、ひたすら直進して行った。

 死ぬのを後回しにしてまで、声が指し示す事を確かめる必要が有るのか。仮に、この周囲で飲食して喧騒している肉塊に、そう問われたら何と返そうか。……返す言葉なんぞ無い。全く意味なんて無い。社の奥の婦人に会った所で何が好転すると言うのか。

 ――死にたがりの変人ねっ。あたしのお母さまに指輪をわたすんでしょう。まったく、何を考えてるんだか。

 青銅で築かれた一の鳥居の周辺に至ると、今まで見てきた商店を中心とする商業的景観が一転して、絵馬や奉納品が占拠する空間と化す。道路の舗装も普遍的な土瀝青から古びた石畳に変じ、榎が群れを成して生い繁るようになった。

 白とも銀とも鈍色とも付かぬ色合いの玉砂利が敷き詰められている俗世との緩衝地帯でもある。あのクロムメッキの指環程では無いにしろ、鉛にも似た金属色を放つ地面の表面には、少なからず屋台が点在していた。赤いテントが大半で、黄色、緑が散見される中で、一つだけ気に掛かる物があった。――あっ、指輪だ。

 何。

 透き通った女声の響いた地点に程近い露店の棚へ視点を遣ると確かに輝く物があった。店頭で品定めする三つ編み、ポニーテール、桃色の髪飾りの間隙を縫う形での観察であるが、煌びやかに連鎖した首飾り、一枚の金属を丁寧に曲げて造られた腕飾り、そしてクロムで塗り潰された環状の物体が散見された。あの質屋が言っていた事を補強するかのように、店の値札は概ね三桁で収まっていたし、客層も大人びていなかった。

 ――今年も来てたんだ。

 この露店が気にならないと言えば嘘になるが、その時の私は凝視する程の興味を持ち合わせていなかった。第一、年齢が二桁有るかどうか怪しい客人達に交じって、廉価な玩具を物色する真似はしたくない。ただ、今手元に在る、彼岸花のように鮮やかな、あの硝子が、この屋台にも並んでいるのか、気になった。

 ――この屋台、いつも、だいたいこのあたりに出るんだよね。

 ……そう、そんな事は知らなかったね。

 案内図やら回覧板やらを少し覗いていれば、ある程度の位置くらいも把握出来ていただろうが、仮に手元に紙面が有ったとしても、そこまで関心の無い祝祭について読み知ろうとするだろうか。輝く装身具に対し、一点の曇りも陰りも無い純粋な憧れを持つ幼げな瞳を後目に私は社に歩いて行った。

 鉄にも似た砂利に覆われ、緑に燃える榎欅が林立する空間の奥には珍しく緑青で構成された二の鳥居が在る。数十年も前に就任していた為政者の氏名が刻まれていた。鳥居に刻むとは、篤い性格だったのか、または篤くなければならなかったのか、或いは篤くある事を要請されたのか、定かでは無い。――まどろっこしいなぁ。

 ……今まで私は、この私の邪魔ばかりしてくる者共の要請ばかり甘んじて呑んで来たが、おそらくはこの名を刻まされた者もまた、私と同様の辛苦を経験したのかも知れない。

 呆れて言語にならない声が幽かに聞こえたが、構わず発想を続けた。

 ……片付けたい仕事が山積していると言うのに、何奴も此奴も妨害ばかりして来やがるし、好転するような出来事も無けりゃ、碌な事も無い。実際、起きて欲しい事は全く発生しないし、発生して欲しくない事に限って偶発してくる。それどころか、死んで欲しい人間は未だに生きていやがるし、死んで欲しく無い人間には死なれてしまう。……これら、我が身に生じた出来事を狂気の沙汰と言はずして何と称すか。

 このように考えてしまえば、あの若く黄色い声に捻くれ者と罵られるだろうと思ったが、私が罵られる事を望んでいると推測して止めたのか。単に呆れ果てて閉口しているのか、問題の女声は脳裏に出現しなかった。

 社へと続く本線と寺や丘に向かう支線が阿弥陀籤のように描かれている朽ちたペンキの案内図を後目に通過しながら、良くも悪くも我が精神の一端を展開した事で、社へ向かう最後の道筋で、私は久々に心内の静寂を取り戻した。

 ……君には早過ぎたかも知れないな。まあ、簡単に言えば、自分のやりたい事を他人に任せてはいけないと言う事だ。

 得意になってそう思ったが、そこで金属的な重低音が鳴り響いた。吊り鐘だろうか。鳥居に思考を巡らせているせいで、周囲の環境が変化している事を失念してしまったのか。依然として、鈍い金属色を呈する砂利と万緑を掲げる樹木群に占拠された空間であったが、鉄の鳥居を境に、露店の数は急激に減少していた。

 やはり聖域なのだろう。下劣な世俗の誤墮伍多ごたごたを排斥した静寂な界隈であるが、よく見ると石畳の参道は丁字に分岐していた。直進する社への道から垂直に別れ、他方面へ延びて行く石畳を目で追い駆けると、石段があった。その上には、瓦屋根と五色の幟と金色の装飾がある。習合時代の名残だ。よく現在まで存続したものだ。

 ――なんだか、あなたって人は、いちいち複雑に物事を見て、それでその物事を、もっと複雑に考えすぎてるような気がする。そのせいで、ズレてるように見えるんじゃないの?

 だからと言って、事物を単純に短絡的に考えれば偉いと言う訳もなかろう。再び共鳴する金属音が周囲の静寂な空気に響いた。……こんな所で問答しても無意味だ。先を急ぐぞ。

 流石に季節外れな法華経の類は一切聞こえて来なかった。鐘の音が三度も鳴る中、木材で造られた参の鳥居を潜り抜けた私は、拝殿に続く苔生した石の階に足を掛けた。祭日だと言うのに、石段を昇り降りする運動靴や樫の杖は二、三程度しか無かった。そうした何も考えていそうにも無い行脚・参詣の者共と擦れ違いながら、予定している頂上での行為について検討してみた。

 ……北の社の婦人に面会したいと言った所で、社務所は真面に取り合ってくれる訳もない。何と言って面会する。指環の持ち主にここを尋ねるよう言われたとでも喋るか。――その方がいいんじゃない?

 甲高い声はそう言ってきた。我が右足は石段の蹴上を越えようと試みたが、想定よりも高さが足りず躓きそうになった為、そこで私は歩みを止めた。ちょうど石階の踊り場に当たる箇所であった。

 しかし、話半分で適当に処理されるのは目に見えている。何と言ったものか。……そもそも、ここに来たのは、指環を返す為だ。私は再び階段を昇り始めた。胸ポケットに収めた装身具さえ返してしまえば万事解決だ。それ以上、何を望むか。第一、こんな所に来たって何か解明する訳でもなかろう。

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