赤銅の髪の魔術士【05】




 お世話になりました。

 挨拶をその一言で済ませて宿屋を出立した二人は街道を歩く。

 どこに行くのかとはファロウは問わなかった。次の目的地は最初から決まっていた。

 北に十日ほど歩き進めると大陸一有名な守護竜に守られた聖王都に着くが、ゼルデが目指しているのはカミシャという大陸中央の大きな山脈の一番の南端に位置する辺境の小さな村である。ここからだと月単位で日数のかかる遠い地だ。

 流浪の旅をしているゼルデに最終目的地など無いが、その村にはどうしても足を運びたいと少女に相談したのが割りと最近で、ファロウを弟子にしているという事情で村との距離はなかなか縮まらない。

 背負い袋を軽く跳ねてしょい直したファロウは、隣で少女に歩調を合わせているゼルデを見上げる。

「でもなんで急に出発することになったの?」

 宿を発ってから早二時間弱。

 旅慣れた二人の健脚は小さな港町を抜け、あっという間に街を一望できる丘を登っていた。

 この丘の上で休憩を取ることになっている。

 今日はいつになく快晴だった。

 雲一つない青空。花の薫りを運ぶ風に目を細めて、軽く息を乱したファロウは足を止めて、名残惜しさに街に振り返る。

 海に面した港町。海面はきらきらと太陽の光を反射して眩しい。あの海で採れる魚はとても美味しかった。

 もう少し居たかったかもと料理の味を思い出す少女とは逆にゼルデの足は止まらなかった。宿に居た時はここを休憩地にすると提案したのはゼルデだというのに。

「歩きなさい。振り向かずに」

 険しい表情で促されて、立ち止まったことでできた距離をファロウは一気に縮める。

「どうして?」

 淡々とした彼の口調にファロウは違和感を感じていた。胸騒ぎに見仰ぐゼルデの顔には一切の余裕がなかった。

 一ヵ月近くも滞在していた街の姿を目に焼き付ける事無く、また休憩しようと決めた場所とわかっていながら立ち去ろうとするのか。素っ気なさというより、避けたいが為に急いでいる。そんな風に彼の姿が少女の目に映った。

「もしかして逃げようとしているの?」

 問い掛けにゼルデの足が一瞬だけ鈍る。

 その躊躇いに少女はハッとした。

 同時に自分の鈍さに腹が立った。

「まさか――ッ!」

 追い付いた少女の手をゼルデは掴む。

「時間がありません。ファロウは前を向きなさい!」

 出立を急いだ理由を確信し、ファロウは掴まれた腕を振り払ってお返しとばかりにゼルデの腕を引っ掴んだ。

「駄目です。風が炎の津波を呼びます! ファロウッ!」

 ゼルデが忠告を発するが時既に遅かった。

 少女が再び振り向く前に街の方から肌を焼かんばかりの熱い熱風が空を駆け抜ける。

「――ッ」

 直接肌に炎を近付けられたような痛みを伴う熱さにファロウは自分の顔を両手で覆った。あまりに熱くて顔が焼け爛れると錯覚を起こしたせいもある。

 少女に腕を引っ張られ止むなく足を止めたゼルデも突然の突風に解放された腕を挙げて目を庇った。

 二人がそれぞれに視界を遮った腕や掌を退けると、そこには炎の海に沈んだ街の姿が在った。

 熱風を全身に受け、眼下に広がる情景に張り裂けんばかりに両目を見開いたファロウは喉と胸を押さえる。そんな少女の両肩をゼルデは両手で掴んだ。

「……ファロウ?」

 そっと呼びかけてみるが、ファロウは虚空を凝視したまま全身の筋肉を強張らせて返事を返さない。応答の代わりに肩を掴む両手から少女の微かな震えが伝わってきた。

「ファロウ。 ……ファロウ!」

 そして、数秒もせずに気を失った。

 自分を支えることができなくなって腕の中へと崩れ落ちた少女を抱き留めたゼルデは、首を巡らして若草の柔らかな芝生を探す。

 横目で視線を走らせれば街は赤々と燃えている。火事は始まったばかりで、これから更に炎は大きくなるだろう。

 ゼルデは唇を噛み締めた。

 大規模な大火の知らせを誰か一人にでも伝えることが出来ればどんなに救われるだろう。

「だから振り向かないでといったのに……」

 少女に視線を戻し汗で張りついた髪を指を使って頬から払う。荷袋を外して少女の背を支え膝の下に腕を通すと小柄な身体を抱え上げた。

「すみません」

 消火活動すら彼には許されていない。




 それは聖火。

 水で消えない浄化の炎。

 故郷は突然の驚異に為す術もなく晒されて焦土へと化していく。

 逃げ惑う人々の波に飲まれた少女は、一人その場に取り残されて身動き取れなくなってしまった。

 否、正確には閉じこめられていた。

 四方は既に炎の柱が噴き上がり、尻もちをついた少女はそこから立ち上がることができなかった。

 熱い。と、乾いた唇で単語を繰り返す。

 揺らめく炎の熱気に急速に体力を削られ、流れる涙も地面に染みる前に少女の頬の上で乾いてしまう。声は出せなかった。呼吸するだけで喉が焼けかける。けれどそれでも音にならない単語を少女は繰り返している。

 周りは炎。

 熱くて、熱くて、どうしようもないほど熱い。

 室内でないのが唯一の救いだった。煙は全て空へと逃げていく。

 が、どんどんと息苦しくなっていく。

 浅い、呼吸。

 これは、夢ではない。

 突然の大火。

 唐突に襲い来た災い。

 強い風が吹いた一瞬後に世界は一転していた。

 夢であって欲しかった。平穏な日常を瞬き一つで炎に飲まれたのが未だに信じられない。

 熱さに意識が朦朧としていく。思考が止まって何も考えられなかった。だから、これが全て夢だと現実を拒絶していたのは覚えていた。

 でも、肌を焼く熱は少女にそれが現実だと伝えている。

 逃げ道を塞ぐように、事実を突きつけてくる。

 立ち上がらねば焼け死ぬと。

 けれども体は動かない。

 死ぬのは嫌だった。

 助けて欲しいと願う。


 ――誰か、

 ――救い出して。


 視界のむこうで、誰かが走ってくるのが見えた。

 赤銅色の髪を振り乱し、何かを叫びながら駆け寄ってくる人が見えた。

 そうして、

 灼熱に記憶が焼け落ちていった。

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