第九話 七光り(一)

 浩然が成果を出したという二日などとっくに過ぎても美星は何を成すこともできずにいた。

 やっていることは下働きとしての勉強だったが、美星は耐え切れず大きなため息を吐いた。


(掃除だの洗濯だの、普段やってる家事ばっかり。飽きちゃったわ)


 下働きの業務は美星が思っていたような商売や経営、政治に繋がるものではなかった。

 どれもこれも家事の規模が大きくなった程度のことで、出来る勉強といえば宮廷ならではの非日常的な礼儀作法だけだった。

 文字の読み書きができない者には補修もあるが、店の手伝いをしていた美星は既に読み書きもできる。礼儀作法だって莉雹に教えてもらった。つまりできることしか教えてもらえないのだ。

 今日の仕事は洗濯だ。宮廷内装の窓掛けを洗う事になっている。自宅ではありえない物量に挑戦できる――とでも言えば充実してるように思えるかもしれないがそんな前向きには受け取れない。


(内装も調度品も地味で古臭いのばっかり。これならうちの方が労働環境良いわよ)


 先代皇は派手好きで高級品を多用していたが、天藍に代が変わった時に護栄が全て売却し入れ替えたらしい。

 おかげで皇太子殿下へお仕えする高貴な仕事という感覚は持てず、美星にしてみれば生活水準が自宅以下の家庭で小間使いをしている気分だった。

 けれど下働きの中には家事もままならない者もいた。


「難しいようですね。あなたは庭園の清掃に回りなさい」

「はい……」


 全ての作業において求められるのは丁寧さだ。

 けれど業務に慣れない者は隅々に目が届かず不十分である場合が多い。作業に集中するとその他が疎かになり女官の指示を聞き漏らす事は頻繁だ。

 そうなると別の作業に移されるが、最も下位の業務は普段誰も通らない庭の片隅を掃くだけの掃除だ。


(あの子も辞めるわね、きっと)


 下働きは日に日に数が減っていた。皆宮廷の質素倹約と扱いの悪さに挫折し、平均的な生活水準を保つ家庭の者は退職するのだ。

 残ったのは生活に困る者がほとんどだが、彼女たちは家事をする暇があれば仕事を掛け持ちして働いているらしい。家事に時間を割いたことがないから下働きの仕事をまともにこなせず、その能力の低さは蘭玲の想像よりはるかに下だったようだ。今では獣人ですらお褒めの言葉を頂けることは無い。

 結果、下働きはため息を吐きながら仕事をするようになっていた。美星もため息を吐こうとしたが、蘭玲にとん、と肩を叩かれた。


「美星。あなた読み書きはできましたね」

「はい。帳簿付けをしていますので計算もある程度は」

「そうでしたね。今日から女官の仕事を手伝ってもらいます。来なさい」

「はい!」


 美星は思わず洗濯物を放りだし立ち上がった。

 洗濯で濡れていた前掛けを外し、新たな仕事への期待に胸を躍らせ蘭玲に付いて行った。


(女官って侍女の上の方たちよね。じゃあ家事なんてしないはずね。帳簿付けかしら。それとも書類の作成? 地味だけど家事よりいいわ)


 文字の読み書きが必要ならば家事を脱却できるということだ。

 たとえ程度の低い業務だったとしても経験と能力を示す機会ではある。

 美星は胸を高鳴らせて与えられる仕事を妄想した。何としてでもこの機を活かさなくては――そう思ったけれど、その狙いは大きく外れた。

 蘭玲が入った部屋の中を見て、絶望感あふれるその光景にぴたりと足が止まった。

 部屋の中にはずらりと机が並び、多くの侍女が俯きながら無心で何かをやっている。


「入りなさい。今日からこれをやって下さい」

「これって……」


 蘭玲は戸棚から何かを取り出し美星に差し出した。

 文字の読み書きをするのなら筆記具や書物だろう。だが渡されたのはそんな充実した道具ではない。


「裁縫道具、ですか……?」

「そうですよ。これは個人ではなく備品なので持ち帰らないように。席は空いているところを使いなさい」


 室内の机には白く大きな物が広げられている。文字を書く紙であることを願ったが、白いそれは書類ではなくただの布だ。

 ようやく手に触れた紙には絵が描いてあったが、その絵は他の侍女が縫っている刺繍と同じだった。


「この図面のものを今日中に二十縫って下さい。早くに終わったらこっちの」

「待って下さい! 何故刺繍を? 読み書きをするのではないのですか?」

「そうですよ。この柄は文字を縫うのです」


 渡された図面を見ると確かに文字が使われている。

 この刺繍を何に使うのかは知らないが、これが『読み書き』ならば下働きを卒業した後に戸部に関わる可能性は低いように感じた。

 美星は引きつった笑顔で恐る恐る口を開く。


「おうかがいしたいのですが、女官が戸部の業務に関われることがあったりは……」

「戸部? まさか。ありませんよ。家事全般と雑事です」

「でもそれは侍女がすることですよね」

「何を言ってるんです。蛍宮宮廷で女官と侍女の違いは雇用形態です。女官が正規雇用で侍女は非正規雇用。女官は職員から指示を頂き侍女を動かし、侍女は女官の指示で手を動かす。やることのくくりは同じです」

「……それだけですか?」

「そうですよ」


 蘭玲は不思議そうに首を傾げた。美星は想像だにしていなかった無意味さに愕然としてぶるぶると拳を震わせる。


「あの! 戸部に入るためにはどうしたらいいですか!」

「入れませんよ。内政に携わる職員は男性のみです」

「私は父の店で帳簿などの金銭管理もやっていました! 多少ならできます!」

「ああ、あなたは天一ご店主の娘でしたね。ですが多少では駄目です。少なくとも浩然様と同じくらいには実績を立てなくては」


 浩然の名が出て、美星はぐっと息を呑んだ。

 美星は浩然の話の半分も分からなかった。予算をもぎ取るとは何なのか、運用とはどうするのか、そんなことは想像もつかない。


『護栄様を動かしたいなら最低限僕と対等になりなよ』


 浩然の言葉が脳内で響き、美星は裁縫道具を手に取るしかなかった。


*


 それから数日、美星は黙々と刺繍を続けていた。刺繍枚数はどんどん増えるが作業のできる下働きは一向に増えない。

 このままでは刺繍係に定着してしまいそうで、美星は大きなため息を吐いた。

 すると隣で読み書きの練習をしている小鈴が顔を覗き込んでくる。


「どうしたの? 最近元気ないね」

「んー……そういうわけじゃないんだけど……」

「美星お嬢様はこんなつまらない仕事眼中にないそうよ!」

「は?」


 小鈴の問いに答えるのも億劫でため息を吐いていると、ふいに後ろから大きな声がして部屋の全員がぐるりと振り向いた。

 そこには目を吊り上げた少女が集まっていて、声を上げたのはそのうちの一人だ。自己紹介は聞いたかもしれないが記憶にはない。


「聞いたわよ。あなた天一のお嬢様なんですってね」

「それが何」

「変だと思ったのよ。最初から礼儀作法は完璧で服も化粧も綺麗。私たちみたいな食うに困る人間を見下してたんだわ」

「してないわよ。ただ少し事前に勉強しておいただけで」

「勉強する余裕なんて無いのよこっちは!」


 少女の叫びに美星はびくりと震えた。

 まだ十代前半だろうか、美星よりうんと若い少女は頬がこけていて肌は荒れている。髪も艶などなくばさばさで、結ってはいるがあちこち飛び跳ねている。全身痩せ細っているので力仕事はできないだろう。

 説明されるまでもなく生活が豊かでないのは分かった。


「何が身なりを整えて来いよ。化粧品買うなら食べ物を買うわ!」

「うちは家族が病気で薬が必要だわ。娯楽を楽しむお金なんてない。ここにいるのはみんなそういう子よ。身分も教養も必要ないのに給料の良い求人なんてそうそうないもの」

「でも結局受かるのは獣人とあなたみたいなお嬢様なのよ。平等なんて嘘っぱちだわ!」

「そんなことないわよ。実績を立てれば誰でも取り立ててくれるって言ってたわ」

「実績って何? 刺繍すらやらせてもらえないのに」

「それは、勉強すれば」

「勉強? いつやるの? 退勤後は日払い仕事で勉強する時間なんて無いんだけど」

「うちは文字を書ける者がいないから勉強もできないわ。教本を買うお金も無い。どうやって勉強すればいい?」


 読み書きの補修は業務時間外だ。

 下働きとしての業務が終われば帰宅するが、補修を希望する者は残り授業を受ける。

 だが家でやらなければならない者は補修など受けられない。蘭玲が「やる気のないこと」と呆れ果てていたことがあったが、どうしようもない場合もあるのだ。


「あんたは努力しなくても与えて貰えるんだからいいじゃない! こんなとこ来ないでよ!」


 少女の目には涙が滲んでいた。怒りなのか悔しさなのか、美星にはそれすら分からない。

 何を言えば分からずにいたその時、ぱんっと手を叩く音がした。


「何を騒いでるんです!」


 入ってきたのは蘭玲だ。美星ではなく美星を責め立てた少女達をぎろりと睨むと、これ見よがしなため息を吐き彼女達に背を向けた。


「今から殿下がいらっしゃいます。くれぐれも失礼の無いように。さあ、整列なさい!」


 殿下がまさか、と全員がざわざわし始めた。

 美星はいち早く手を組み礼の姿勢を取ったが、他はまだ騒ぎ続けている。蘭玲はさっさとなさいと指導して回り、ようやく静まり全員が頭を下げた頃に天藍が現れた。

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