第一章 砂漠に降る雨(1)

 少女が一人、丘の上を走っていた。

「…………」

 吹く風と、注ぐ日差しと、少女のほかには、何もない。

 夜明けと共に走り出し、日がすっかり昇った今の時刻まで。休むことなく一定のテンポで刻み続けた軽やかな足音を、ひときわ強い風がかき消す。肩まで伸びた少女の髪──夜空にも水底にも似た深藍が風になびき、僅かな汗の滴が舞う。

 丘の上は風が強い。誰からそう聞いたのだったか、少女は忘れてしまっていた。

「…………あと……」

 何キロだっけ、と呟こうとしたところでようやく、少女は自分がどれくらい走ってきたか確かめる術がなかったことに気づいて足を止めた。

 そのタイミングを見計らいでもしたかのように、握り締めた手の中から低い振動音。身ひとつのほか唯一の所有物である携帯用通信端末を操作し、少女は呼び出しに応じた。

「もしもし」

『……おはよう。良い朝だな』

 言葉とは裏腹に不機嫌そうな男性の声が機械越しに届く。

『ずいぶん風の音が大きいようだが、今どこにいる?』

「え……? どこって、ええと。どこだろう」

 その質問にはひとつしか回答がなかった。

「とりあえず、かな」

 彼女が夜明けからずっと走ってきて今こうして立っている場所は、遥か地平の向こうまで続くだったから。

『……ひとつ為になる知識を教えよう。お前の住むこの国は、実に国土の九割が砂漠だ』

「九割。そうなんだ。……ああ、もしかして、だから『砂の国』なの?」

『ああそのとおりだよくわかったなえらいぞ』

 一切の抑揚なく棒読みで返された。

『また私に無断で走り込みか。何時頃からどこまで走ってる』

「何時……だいたい日の出た時間くらいから、だいたい太陽の方向に」

『……携帯に時計がついてるはずだな。今は何時だ?』

 画面を見ると、八時四十八分と表示されていた。

「だいたい八時半」

『ついでに日付も表示されてるな。今日は何の日だったか覚えてるか』

当日」

 ライブ。

 それまで曖昧な答えしか返していなかった少女が、その単語だけはハッキリと即答した。

『そうだ。その大事なライブ当日の朝に、オーバーワークで身体を壊しでもしたら……』

「大丈夫」

 遮るように、少女が告げる。

「私、壊れないよ」

 淡々と、温度のない声で。

 電話口の男性は、彼女の言葉にしばし沈黙した後、嘆息してから小言を続ける。

『……お前の限界は、お前ひとりが決めるものじゃない。スケジュール外での過度なトレーニングは控えてくれ。私が休めと言ったら休んでくれ。約束してほしい』

「休めなんて、言われたことない」

『今回のような真似を続けるなら、たとえライブ当日の朝でも言わねばならない』

「それもの仕事?」

『うちは人手が無いから全部私の仕事だ。……そして私をそう呼ぶのなら、お前ももう少しの自覚を持ってほしい。『砂の国』のアイドルであるという自覚を』

 アイドル。その単語に、少女の呼吸が微かに揺らぐ。

「……ごめんなさい。約束する」

 約束を破ればアイドルではいられなくなる。その危惧に至り、少女はあっさり折れた。

『……普段と同じペースで東へ走っていたなら、今は風喰い砂丘のあたりに居るな』

「え。……うん、多分」

『ではそこから北東に進路を。三十分ほど歩けば前方に十二番鉱区街が見えてくる。事情を話して街に入れてもらい、水でも頂いて休憩していてくれ。我々もすぐに向かう』

 北東ならこっちか、と向き直り腕を前に向ける。

「歩いて三十分なら、走ればだいたい……」

『歩け。何時間飲まず食わずで走ってたと思ってる』

 本当なら歩かせるのも嫌なんだぞと、プロデューサーと呼ばれた男性は大きなため息をつく。その間にも既に、少女は北東に向けて歩き始めていた。

『それと、事務所にあったステージ衣装はどうした』

「え。持って走ると荷物になるから……もしかして、着てきたらダメだった?」

『砂で汚れるだろうが……!』

「あ、そっか。ごめんなさい」

『……街に着いたら鉱員用の除砂装置エアシャワーも使わせてもらえ』

「よそ者なのに、そんな色々してもらえるかな」

 少女の素朴な疑問に、プロデューサーは事もなげに答えた。

『領収書は天地あまどころ事務所でと伝えればいい。必要な代金は後で私から支払う。……それにお前なら大丈夫だろう。『砂の国』現アイドルの『レイン』なら』

「そうなんだ。わかった」

 最強、そう呼ばれた彼女……レインは、ただ淡々と言葉を返して端末を切る。

 風と砂を浴びて日差しに煌めく「アイドル」の衣装。乾きと熱と陽光が支配する砂の荒野を一人渡るには、やはりどこまでも異質で場違いな装いだった。

「……確かに、こう風が強いと砂だらけになっちゃうな……」

 たった今その事実に気づいたかのように独り呟き、髪と衣装を軽く手で払うと、砂とは違う何かが目についた。

「これ……花びら?」

 どこかずっと遠くから、風に乗ってきたのだろうか。捨てるのも忍びない気がして払わずにおいたが、歩くうちにすぐ吹き飛ばされてしまうことには気づかなかった。

 レインはいつも気づかない。ステージの外のことに頓着がない。砂漠を渡れば衣装が砂で汚れることも、会場まで人の足で走っても半日以上かかることも、ステージ衣装には携帯をしまうポケットすら無いことも。気づかないし、気にしない。

 風が運んできた、砂漠に咲くはずのない花の香りにも、彼女が気づくことはなかった。

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