イミの国
マムシ
第1話 悪夢
村の外れの寂れた神社。
山を切り崩したように建てられたその神社を山神神社と知っていた。そう呼称されていたわけではない。誰かがこの神社を話題に出した記憶はない。だけどなぜだが知っていた。ずっと前からその記憶が埋め込まれたいように、ここの名前を知っていた。
苔の生えた石段が境内へと続き、その先には酸化し、いまにも崩れそうな石鳥居が構えていた。カンカン照りの太陽を背に、覆いかぶさった草木の木漏れ日が肩口を照らす。
雨が降っていれば、滑り落ちそうな石段を無我夢中に駆け上がっていた。
山神神社に何の目的があって、何を急いでいるのかも分からない。だが中学生の短い足を精一杯延ばし、一つ飛ばしで境内を目指した。
息が切れても、汗が目に入っても、体は疲れを知らなかった。無邪気さと狂気が入り混じったような息遣いに、肺は驚くほど素早く収縮を繰り返した。
「待ちなさい!」
背後から声が聞こえる。聞き覚えのある声だ。酷く懐かしい。だがとても身近に感じる。
振り返るとそこには母親が立っていた。腕を伸ばして、手首をつかみ上げる。
「ここから先は行ってはダメよ」
母の忠告を聞こうとしなかった。この先に行かなければならないその使命感に駆られていた。ずっと前から備わっていたような心の盟約は親さえも押しのけるほど強いものだった。だがその正体は分からない。依然として目的は謎のままだった。
「母さん、離してよ」
「行かせないわ」
母の表情は鬼気迫るものだった。手首をつかむ力がより一層強くなった。だが痛みは感じなかった。感覚だけが神経に伝わり、苦悶の表情を見せた。
すると母ははっとした表情になり、その手を緩める。
その隙に手を振り払い、また階段を上り始めた。
その時である。石段の脇から三メートルは優に超す大きな影がぬっと現れた。あれだけ疲れ知らずで、いくらでも動けた体が硬直し、言うことを聞かなくなった。
人にして大き過ぎる。熊かそれとも他の獣か。いくら身長が高くても三メートルを超す人間などこの世にはいない。
それにこの村に大男はいない。
人口二千人足らずの小さな村だ。この閉鎖された村では誰もが顔見知りで、目立つ人ならすぐに噂が立つ。それは熊も同然だ。熊が目撃されれば、騒ぎになり、すぐに村の猟友会が動き出すだろう。
だがそんな話は一度も聞いたことがない。
心臓の高鳴りが激しくなった。逆光もあり、表情は見えなかった。むしろこの全身覆う影が人型なのかすらも怪しい。だが薄く開いた口からうめき声を出しているのは分かった。
黒い影はのそのそと近づいてくる。そして影と日向の境界線で立ち止まり、こちらを睨みつけると、踏み切った。
その瞬間、洋服を強く引っ張られる。石段を踏み外し、体は宙に浮いた。そのまま体は半回転し、肩を石段の角にぶつけるとそのまま転がり落ちた。
視界が回り、青い空とひび割れた石段が交互に現れた。案の定、痛みはない。
一番下まで転がり落ちると体が折れ曲がって着地した。自分の膝がすりむいていることが分かった。突いた手のひらには血がべっとりとついている。
この一瞬で何が起こったというのだ。何とか体を起こし、石段の先を見つける。そこには母の脚があった。いや脚しかなかった。
腰から上は血が霧となり、断面からは大量の血液があふれ出していた。
その凄惨な光景に声も上げることができなかった。あまりにもリアルすぎる母の肉片が木々の枝に干されていた。両脚はバラバラに石段を転がり落ちる。
その場に膝をついた自分の腿に、母の血が到達するまでそう時間はかからなかった。
あの黒い影はなんだったのだろうか。真夏の蝉時雨が鼓膜を震わせ、発狂しそうなほどうるさく響き渡る。そして空を見上げた視界の先には真昼間だというのに、朱色がかった月が、太陽と並び浮かんでいた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます