第3話 八幡詣で

「初詣だぁ?」

 小寒の凍てつく寒さに地も凍った朝、稽古を終えた歳三は総司を振り返った。

 総司は濡れ縁に座って頬杖を付きながらにこにこと笑っている。

「昨年はこの江戸で、人がたくさん斬られましたからねぇ。今年こそは、物騒な世でないことを祈りたいじゃありませんか」

 総司はそう言うと「ね?」と、歳三を誘う。

 昨年の安政七年――、イギリス公使の通訳・小林伝吉という男が、イギリス公使館の門前に立っているところを、二人の侍に背後から刺されて殺害されたという。さらにその翌一月八日、フランス公使館が何者かによって放火と、異人に対する襲撃が多発している。 だが最もこの国に激震を走らせたのは、同年三月三日に江戸城桜田門外で大老井伊直弼が暗殺されたことだろう。

「だったら一人でいけ。お前と一緒だと、ろくなことが起きねぇ」

 歳三はそう言うと、つるを井戸から引き上げる。

「大丈夫ですよ。若先生も一緒ですから」


 ――そういえば、江戸に来てから寺や神社に願掛け参りはまだしていねぇな。

 

 歳三は勇も一緒ならと、総司の誘いに応じることにした。

 この日は、勇だけがあつらえたばかりという黒二重の紋付き袴姿である。

「近くまで行くのに大袈裟すぎねぇか?」

 着物を新調するくらいなら道場の修繕をなんとかしろ、と歳三は言いたかったが何でも、出稽古先の宴席に呼ばれたのだという。しかも、義父・近藤周助からの行けという命令もあるらしい。試衛館次期四代目として、顔を覚えてもらうには絶好の機会らしい。

 こうして歳三たちは、試衛館近くの市ヶ谷八幡へ向かうことにしたのだった。

さすが正月とあって、境内には茶屋や芝居小屋なども並び大した賑わいである。なんでも市ヶ谷八幡は正式名称を市谷亀岡八幡宮というそうだ。

太田道灌という人物が江戸城築城の際に、西方の守護神として鎌倉の鶴岡八幡宮の分霊を祀ったのが始まりで、鎌倉の「鶴岡」に対して亀岡八幡宮と称したそうである。

 八幡の石段を下りる時には、歳三は総司と二人っきりになっていた。当然、歳三の足が速まる。総司と二人になると「どこかに寄っていきませんか?」と、総司が寄り道したがるからだ。案の定「ねぇ?」と斜め後ろからと言ってきた。

 八幡宮に来る時に汁粉売りの屋台をみかけ、歳三は嫌な気がした。なにしろ昨年は、その汁粉売りの前でぴたりと足を止めた総司に、腕を引っ張られたことがあったからだ。

「寄らねぇからな」

 そろそろ汁粉売りの前というところで、歳三は言った。

「まだ何も言ってませんよ。でも……、こんな小さいメザシと、沢庵二枚じゃお腹空くと思うんですよねぇ?」

 総司は親指と人差し指で朝餉の膳に乗っためざしの長さを表し、さらに誘ってくる。

 試衛館の懐を考えれば膳の内容については文句は言えないが、懐が厳しいのは試衛館だけではないだろう。ここ一年で、さらに物の値が上がったそうである。

 酒は一升が二百文、豆腐は五十文、わらじでさえ十五文で買えたのが、今は二十文である。

 時刻は未の刻(午後二時)。歳三も腹は空いているが、昼間から甘いものは遠慮したい歳三であった。

 ずっと背後から「ねぇ?」「ねぇ?」としつこく言われ続け「うるせぇ!」と怒鳴りたい心境の歳三だが、人が何人も往来する場ではそうもいかず結局、蕎麦屋に入ることにしたのであった。

「また、蕎麦ですかぁ? 土方さんと歩くと昼は必ず蕎麦なんですから。いまごろ若先生はおいしいものを食べているでしょうねぇ」

 目的のものを食べられなかったからか、総司は不服そうだ。

「文句言うんじゃねぇ。言っておくが、てめぇの分はてめぇで払えよ」

 衝立がある小上がりに腰を下ろすと、総司の頬が膨らんだ。

「ケチ」

 歳三は勇と違ってお人好しでない。両腕を組むと「ケチで結構!」と言い放った。

 そんなときであった。

「おい、聞いたか? また一人斬られたとよ」

歳三たちが注文した蕎麦に口をつけようとした時、そんな会話が飛び込んできたのだった。


                ※


――人が斬られた。

 この類の話は、今に始まったわけではない。開国から数年、異人襲撃は未だ収まらず、それだけならまだしも、商家の人間からはては武士まで、何者かに斬られるという事件が多発している。

話を聞いてみれば、下手人は武士らしい。場所は神田、襲われたのは増田屋という廻船問屋の主で背後から斬られたらしい。

「まったく物騒な世になったもんよ。その人斬り、まだお縄になっちゃあいねぇらしい。夜中怖くて、酒も呑みにいけねぇ。早く捕まえてほしいもんだ」

 衝立越しに聞こえてくる会話に、歳三たちは無言だった。

 総司は蕎麦を黙々と啜り、歳三は杯を口に運んでいた。

(とんでもねぇ、八幡参りだ……)

 できれば物騒な話はこんな日に聞きたくなかったが、といって聞かなかったこともできない。


  ――いったい侍の世は、いつから廃れたのか。


 歳三は、勇が以前に嘆いた言葉を思い出していた。

 金を得るために、刀で人を斬る侍がいる。己の欲で刀を穢す者がいる。己の愚かさを人のせい、世のせいにして罪を犯す侍がいる。

(俺がなりてぇのは、そんな武士じゃあねぇ)

 子供の時からなりたいと思った武士。それなのに江戸へ来てからは、誰が斬られた襲われたと、侍絡みの話が嫌でも耳に入ってくる。


  ――奴らは、忘れちまったのさ。


 勇が嘆いた時、歳三はそう答えた。

 侍の子は元服した時、最初に切腹の作法を学ぶという。刀をもつとはどういうことか、教えられるという。人は、犯した過ちは償わなければならない。それが町人であれ、侍であってもである。

 なのに、だ。人を己の欲で斬ったという侍は、今も逃げている。己の悪行を悔い改めることもせずに。

 彼らは忘れてしまったのだ。初めて刀を手にした時の、その重みを。歳三には、今もはっきりと刀の声が聞こえるのに。

刀を抜くとはどういうことか、抜くことに正しい理由はあるのか、そして責任は己で取れるのかと問いかけてくる声を。

蕎麦屋を出れば、総司はいつもの彼に戻っていた。

「総司」

「なんです?」

「いや……、なんでもねぇよ」

 総司は首を傾げたが、歳三はなにもいわなかった。

「ねぇ、なにを言おうとしていたんです? 土方さんってばー」

「うるせぇ、お前は子供か!」

「逃げるなんてずるいですよぉ」

 追いかける総司から逃げながら、歳三は腰の刀を触った。そして――。

(お前を抜く時は、俺も覚悟を決めねぇとな。真の武士になった時に)

 歳三はそう刀に語りかけた。


 それが八幡詣での帰りに聞いた、人斬りの話である。

 ゆえに、そのあと神田にでかけた。痕跡など残っていなかったが。

 何も起きなければそれに越したことはないが、否定するもう一人の自分がいる。

 人斬りは、また現れると。

「人斬り、いませんね」

「相手は人斬りだ。そうすぐに出会えるもんじゃねぇよ。ま、血の匂いでも漂わして歩いていたら別だが」

 そのとき妙に生暖かい風が吹き抜けて、一人の浪人が二人の横を通り過ぎていく。

「――!」

 一瞬香った匂いに、歳三は振り返ったがその男はもういなかった。

(今の男……)

「どうしたんです? 土方さん」

「総司、どうやらお前の期待に応えてくれたみたいだぜ」

「まさか、今の――」

「一瞬だが嫌な匂いがした」

 それが血の匂いかどうかはわからないが、歳三は子供の頃から鼻と勘は良かった。

 せめて顔を見られたら良かったが、歳三の勘はあの男がその人斬りだと告げている。

 体にそれだけ血の匂いを染みこませているのなら、彼はどんな理由でどれくらいの人を斬ったのか。

 見上げた空からは、なんの答えも返っては来なかった。

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