第1話 ひとり暮らしの部屋
エレベーターを降りると、見知らぬ若い男が部屋の前にいてしきりと中の様子を窺っていた。黒のスラックスに、水色のいかにも制服然とした上着からして業者のようだ。きっとリフォームか何かのセールスだろう。ドア越しなら断りやすいのにと思いつつ、仕方がないので声を掛けた。
「あの……」
こちらを向いたその顔を見て少なからず驚いた。あまりにもあどけなく見えたから。
「あ、横山様のお宅の方ですか?」
「ええ、まあ……」
横山は姉の姓だ。私は動揺を悟られまいと目をそらした。卸したてなのか彼のスニーカーが真っ白に輝いている。
「良かったあ。時間を間違えたのかと思っちゃいました。僕、家事代行サービス『おうち時間』から来ました家政夫の
目の前の人物はそう名乗ると、写真付きの名札を顔の横に掲げ無邪気な笑顔を私に向けた。
私は
いくら仕事がそれなりにうまくいっているとはいえ、都内にマンションを買える程の収入は私にはない。ここは姉夫婦の持ち物だ。結婚十年目でやっと子宝に恵まれ、念願のマイホームを手に入れた途端ダンナの海外赴任が決まった姉は、他人に貸すくらいなら私に管理してほしいと言った。当時同棲を解消したばかりで実家で肩身の狭い思いをしていた私に断る理由はなく、近隣の相場の半額以下でここに住まわせてもらっている。当初の赴任予定は三年だったし、私もそのうち新しい部屋を探すつもりでいたのに、五年経った今も姉夫婦が戻ってくる気配はなくズルズルとここでの暮らしが続いている。
たとえ身内でも買ったばかりの家を使わせるのはやるせないだろうと、これまでLDKだけで生活してきた。それでも私にとっては広々とした快適な新築物件で、最初はモデルルームみたいに整えていた。しかし友人たちは次々と結婚して足が遠のき、高齢の親も来なくなり、残念ながら恋人もできなかったせいで、いつしかただ仕事して寝るだけの殺伐とした空間に成り下がってしまった。
同様に生活にもメリハリがなくなり、当面食べていける分だけの仕事をこなす他は生き甲斐もなく部屋でだらだらと過ごしている。打ち合わせはインターネットでするし、必要な物は皆宅配で届くから外に出る必要がない。当然身なりにも全く気を使わなくなり、着替えるのも面倒なので、今も部屋着兼パジャマで顔すら洗っていない。何ならお風呂に入るのも二、三日に一度だ。ここ数年、そんな生活がすっかり当たり前になってしまった。
ただ、一応毎日一度はマンション一階のコンビニに行くようにしていて、今日も昼の十二時過ぎに目が覚めたその足で部屋を出てきた。人付き合いが苦手な私でも、生身の人間に出会う機会は確保しておきたい気持ちがある。それにそこのコンビニはかなり規模が大きいので、待った無しの用事を済ませるには都合がいいのだ。
コンビニではまずおにぎりをふたつと蒸し鶏のサラダと野菜ジュースをかごに入れる。迷うのが面倒で、ブランチはこの組み合わせと決めてからもう半年くらいになる。代わり映えしないのは店員も同じで、日中は小太りの中年のおばさんがレジにいて、ニコリともせずに商品を袋詰めにしてよこす。私も相当愛想のない方だが、毎日のように顔をつき合わせているのにもかかわらず、客商売でこの態度はないだろうと思うくらい素っ気ない。なまじ話しかけられるのも面倒くさいからちっとも構わないのだが、一日に出会う最初で最後の人間がこの人なのはちょっと残念だ。
きっと家庭がうまくいってなくて、いや、そもそも私と同じおひとり様で、今にときめくこともなく、未来に希望もなく、生活のために品出しとレジ打ちに明け暮れる毎日にうんざりしているに違いないと勝手に彼女の境遇を決めつけてみるが、そうだとしてもあの態度はないよなあなどとつらつら思いつつ野菜ジュースにストローを差し、口に咥えたところでエレベーターの扉が開き、この不意の訪問者を見つけたのだ。
それにしても、目の前に佇む青年はなんとまあ爽やかなのだろう。清潔感溢れる短髪と無駄な肉が削ぎ落とされたシャープな体つき、色白の細面の顔には小型犬のような人懐こい笑顔を浮かべ、これぞ正に、ザ・好青年である。
それに引き換え、今の私はどうだろう? 髪はボサボサ、風呂にも入ってなければ顔も洗ってない。アイボリーのスウェットは膝が出て、もとからこの色なのか、滅多に洗濯しないからなのか自分でも判断がつかない。上着を引っ掛けているとはいえノーブラだし。
私はさり気なく上着の前を合わせると、ごく当たり前の質問をした。
「何かご用ですか?」
好青年は明らかに不安そうな顔つきになり、慌てて手に握っていた手帳のようなものを開くと指先で何かをたどったが、数秒後、確信に満ちた顔で言った。
「あの、お忘れかもしれませんが、今日の一時から水回りの掃除と夕食の支度のご予約が入っています」
「え?」
今度は私が不安になる番だった。頼んだ覚えはない。もしあるとすれば……
「ちょっと待ってくださいね」
私はスマホを開いた。確か先週くらいに姉から連絡があったはず。その時は仕事が立て込んでいて、後で読もうと思ったきり放置していた。
「これだ!」
『みっちゃん、元気? こっちは変わりなし。マンション契約時の特典の家事代行サービスを使うの忘れてて、期限が切れちゃうよって連絡来たから来週の水曜午後一時に来てもらうことにした。イケメンの若いお兄さんでお願いしますって頼んどいたから楽しみにしててね』
って、おいおい。この状況でそれは却って切ないじゃないか……
「すみません、私の確認不足でした。確かに今日予約してますね」
軽く頭を下げ、上目遣いに青年をちらりと見た。眉をひそめ明らかに困った様子だ。
この状況をどう切り抜けるか、私は久しぶりに仕事以外で頭を使った。キャンセルという手もあるが姉が納得しないだろう。家に入ってもらうとして、水回りは一度汚すと厄介だと思ってまあまあ綺麗に使っているからいいけれど、まずいのはリビングだ。いや、そもそも掃除しに来てもらってるんだから、多少散らかっていてもいいのでは? しかし、あれは多少と言えるのか? いやいや、どう考えても多少じゃない。特に洗濯物かそうでないかの区別すらつかない衣類の山は見られたくない。ろくに換気してないから、部屋自体が臭いかも。いや、待てよ、いちばんヤバイのは私自身なんじゃないのか〜っ!
「あの〜、何ならまた別の日にお伺いしましょうか」
青年がおずおずと口を開いて、私は我に返り後ずさりした。臭いが届くのは何としても避けたい。
「いやいや、さすがにそれはご迷惑ですので」
とは言ったもののどうしていいのかわからず私は天を仰いだ。
青年は暫くうつむいていたが、意を決したように顔を上げるとこう提案した。
「では、こうしませんか? 僕、お昼まだなんで、下のコンビニのイートインで何か食べて、三十分後にまた伺います」
「それだ!」と叫んで私は大げさに頷いた。彼は丁寧に頭を下げると、満足げにエレベーターに消えた。
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