軌跡を味わう

風と空

第1話 軌跡を味わう

「ねぇ、今日もお話してくれる?」


「ああ、勿論だよ。今日も静かに聞いてくれたらね」


「早く話して」


「わかったわかった」


 僕は今日も枕元で話しを聞かせる。

 いつも話すのは一人の女性の話。


「この話に出てくるのは久美子っていう女の子だよ。久美子はね。とても元気な女の子だったんだ。男の子と遊んだりするぐらいね。


 時には男の子の喧嘩の中に入って行くぐらいだった。だからあざや怪我が絶えなくてね」


「女の子なのに?」


 僕は寝ている彼女の頬を指で撫でながら、話を続ける。

 彼女はくすぐったそうに目を細める。


「そう、見ている方がハラハラするぐらいヤンチャでね。よく先生に注意されていたんだよ。そんな彼女に幼馴染の男の子がいてね。その子は身体が小さかった。気持ちも弱かったんだろうね。


 男の子は同級生からいじめを受けていた。久美子はそれを知ると、その子を助けるためにいつも一緒に居て守ってくれる様になったんだ」


「その子良かったねぇ」


 彼女は少し目をこすりながら相槌をうつ。

 そんな彼女の頭を撫でながら僕は話を続ける。


「でもね、それが余計に目をつけられる事になってね。いつもよりも酷くやられる事があったんだよ。久美子も当然助けに来てくれたが、逆にいじめっ子の方に捕まってしまった」


「大変」


「そうだね。いつも助けてくれる久美子まで捕まったんだ。久美子も駄目だと思っただろうね。でも幼馴染の男の子は違った。自分を責め続ける事をやめて、初めていじめっこに向かっていったんだ。蹴られても、殴られてもね」


「ねぇ、大丈夫だったんだよね」


「ああ、勿論大丈夫じゃないさ。でも倒してもなにしても起き上がってくる幼馴染の男の子の粘り勝ちで、いじめっ子達は逃げて行ったんだ。久美子は男の子のおかげで怪我が少なかった。


 久美子は自分も怪我をしてるのに、その男の子を運んで家に送っていったんだ。…… 女の子が男の子を背負って帰るのは大変なんだよ。何度転んでも久美子はその男の子を置いて行こうとはしなかった」


「凄いねぇ」


「ああそうだ。久美子は優しく、忍耐強かった。そのあとは流石に男の子がいじめられていた事が大人に見つかってね。いじめっ子達の方が立場が逆転したんだ。今度は自分達の方がくるしい立場になってね。結局は転校して行ったんだよ」


「ふーん」


「それでね、幼馴染の男の子もすっかり治った頃にはもうオドオドした感じはなくなって、久美子も安心していたんだ。だけどね、久美子の両親が離婚する事になって、久美子は父親に引き取られる事になった。久美子も転校する事になったんだ」


「男の子と離れちゃったの?」


「そう。でもね、大きくなってからまた会えたんだよ。お互いに社会人になった時。男の子も地元を離れて他県の会社に就職しててね。久美子は久美子でとても綺麗な女性になっていてね。昔のヤンチャな姿は全く無くなっていたんだよ。幼馴染の男の子はわからなかったくらいだ」


「どうやってわかったの?」


「会社の取引先同士でね、お互いに名刺交換した時にわかったんだ。わかった時は二人で笑いあったみたいだね。懐かしくて

 嬉しくて、しばらく話し込んだみたいだ。それから連絡先を交換して時々一緒に食事をしたりするようになったんだ」


「お食事したの?」


「そうだよ。それで何回か会ううちに幼馴染君が告白してね。付き合う様になったんだよ。気兼ねなく話すことができて、安心出来る存在に久美子はようやく出会えたみたいなんだ」


「そっかぁ…… 」


 欠伸をしながら目をこすりこすりしてまで、起きようとする彼女。彼女の頭を撫でながら僕は言う。


「眠くなったのかい?眠っていいよ」


「…… 手を握っていてくれる?」


 可愛い事を言う彼女の手を握り、安心する様に頭を撫でる。


「おやすみ…… 」


 そう言って彼女は目を閉じる。しばらくすると規則正しい寝息が聞こえてきた。


 僕はそっと手を離し彼女に語りかける。


「おやすみ…… 久美子」


 静かにドアを閉めて、僕は残していた仕事をやるためリビングに向かう。


 久美子は記憶障害を抱えている28歳の女性で僕の妻だ。


 お互い23歳で結婚して、結婚二年目に発症した。


 初めは疲れているんだな、と思った程度だ。だが次第に大事な事を約束している事自体思い出さなくなってきた。


 今日が何日かと言う可愛いものだけじゃない、自分が体験してきた事生活してきた事そのものが抜け落ちているから、当然話が噛み合わない。


 僕も仕事で忙しいのも相まって、苛立ちや罵声を浴びせてしまった事もある。


 不安は記憶障害を促進させる事もあると知った時は、久美子はもうかなり進んでしまっていた。


 それからは必死だった。仕事の調整、久美子の両親との連携、久美子の友達も手伝いに来てくれた事もあったかな。


 三年目の今年になって、ようやく生活に落ち着きを取り戻した。…… だが、彼女の中で過去の僕が存在しなくなる時もある。


 いつからか、僕は彼女に僕達の出会いの事を話す様になっていた。僕は彼女が彼女でさえ有ればいいと思っていたが、どうやら違う様だ。


 僕は彼女に忘れられたくない。


 小さい頃僕を危険を顧みず助けてくれた彼女。


 そんなに変わらない体型の僕を、何度もよろけて膝をつきながら僕を送って行ってくれた彼女。

 

 どれだけ年月が経っても、色合わせることのないこの思い。


 久美子君は知ってるかい?


 僕が地獄の中にいた時、君は一筋の光だった。


 再び出会えた時、あの時の喜びを君は知っているだろうか。


 忘れる事の出来なかった思いを受け止めてくれたあの日の事も。


 僕は決して忘れない。


 君が忘れてしまったとしても僕がずっと君に教え続けるよ。


 共に歩んだ君と僕との軌跡を。

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