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市川と知り合ったのは、八年前だ。大学一年生のときのことだ。おたがい、授業のあいまに会話をするくらいの間柄だったから、それが四年も続いたとはいえ、卒業とともにだんだん離れ離れになるのは自然の数だと思っていた。しかし、不思議と彼とは離れがたい間柄になっていった。
ぼくは、大学卒業とともに東京に引っ越して、一人暮らしをしながら、大学院の入試に向けてせっせと勉強にはげんでいた。息抜きにと、上野公園の桜を見にいったり、御茶ノ水に本を買いにいったりして、東京での生活にだんだんと慣れていった。
すると、五月になったころ、市川から久しぶりに連絡がきた。なにかこちらに用事があるから、一夜泊めてほしいとでも言われるのかと思ったが、驚くことに、彼もまた上京をするというのだ。
まさか、東京で市川と会うことになるとは思わなかった。市川と最後に会ったのは、卒業式の日だった。それも、ほんの十分ほど会話をしただけだった。
「就活? そんなのしてないよ。前にも話したけれど、シナリオライターになりたいから、そっちの道に進むんだよ」
市川は、まだ寂しい春の前の青空を見ながら、そう言った。
「いやいや、まだまったくアテがないんだよ。けど、なりたいからね、しかたがない」
不安げなそぶりをまったく見せずに、雪解け水が流れる川のように
しかし、市川はちゃんとしていた。目標にむけて、しっかりと歩を進めていたのだ。市川は、ある会社に就職しようと思っていると、窓の下を行きかうひとびとを見ながら言った。ストローで氷をかきまぜて、ひとくちコーヒーを飲んで、鼻をすすると、「そこで仕事をしていれば、きっとプロになれる」といい、ようやくぼくの顔をみた。いきいきとした眼だった。
ぼくたちは、カフェをでると、このオタクの聖地の大通りのほうへと歩を進めた。
「せっかくだから」と言って、市川はぼくをあちこちに連れまわした。情報のあふれかえるこの街のうえに、さらに情報をくわえながら、ぼくにこの世界のことを説明してくれた。
ぼく自身、まったく、アニメを観ないわけでも、コミックを読まないわけでも、ライトノベル的な語彙を知らないわけでもない。しかし、大雑把な記述をした世界史の教科書のようなぼくの知識は、彼による注釈で、潤沢な記載のある辞書へと変わっていった。
彼から、多くのイラストレーターのことを教えてもらった。流行りのゲームのタイトルも知った。漫画にも多少は詳しくなった。そしてなにより、この街の地図とでもいえるようなものを譲ってもらった。
休日には歩行者天国になる大通りに、夕陽が斜めに差して、街路樹やショップの影が後ろに走っている。ぼくたちは、駅の構内で別れた。彼は最後に「この街のひとたちが、自分の名前を口にするようになるかもしれない」と言った。かもしれない?――ほんとうに、そう言っていたのか、疑わしい。市川は、ぼくたちが触れる、あらゆる研究に見られるように、異論の余地を残していただろうか。
あれからというもの、ぼくは時々、市川からもらった地図を開いては、新しい発見をそこに書きこみ、この街にあふれかえる情報を、自ら
バイブルも見つけた。ぼくにとって、救済となってくれるその作家の最新話が載った雑誌が、あの荷物のなかにある。雑誌連載を追うことなど、いままで、経験がない。
小学生のころに、同級生たちとの会話からはぐれないために、毎月、かかさずに買っていた漫画雑誌はあったが、それは、一種の義務感をともなうようなもので、大学でのバイトで得る薄給のなかから買い求めるほどにすがってしまうのは、はじめてだ。
しかし、救済というものは、一時的な安寧を与えてくれるものの、将来に見通しをつけてくれることはない。あの罪人が、蜘蛛の糸をのぼって、無事に極楽についたとして、お釈迦様が、極楽での過ごし方を、一から教えてくれるわけではないだろう。これからのことは、自分で考えておやりなさい。そう言うに決まっている。
いったいぼくは、どのように生きていけばいいのだろう。薬の副作用は、一日の疲れと混ぜ合わさって、ぼくを寂しい眠りのなかへと連れていった。
おおよそ3年半のうちに、市川は、シナリオを書く仕事で、ある程度は生計を立てることができるようになった。会社に所属しているからなのだろうか。そうした業界のことは、ぼくにはわからないから、なんの断定もできないけれど、でもきっと、彼の才能と強い意志が、見通しのいい未来に彼を導いたにちがいない。
かたやぼくは、なんの希望も持てていない。霧のなかにある線路のうえを徐行している。この先に駅もなければ、中途でレールが途切れているかもしれない。市川とよく会っていたあの街に行って自分を慰めることすら、いまの世ではできない。一カ月に一度、ポストのなかに入れられる雑誌のなかにある、一部分だけが、唯一の救いであった。
机の上のパソコンのディスプレイには、ほとんど完成している卒論がある。しかし、喜ばしく思うことができない。いま、ぼくに、一日一日を過ごす意義を与えてくれているのは、この堅苦しい文章を書くことだけだといっていい。それさえしなくていいようになったら、ぼくは、なんのために生きていればいいのだ。どういう理由で、飯を食べて、寝るのだ。
ぼくを窮屈に縛りつける
きっと、こんな不安は、他人からしてみれば、ちっぽけに見えるのかもしれないし、同情を誘うことなのかもしれない。もしかしたら、そのなかの誰かは、この不安に対し、なにか深い意味を汲みとって、哲学めいたものを教示してくるかもしれない。一方で、危険な考えが含まれていると受け取って、ぼくを非難してくるかもしれない。
でも、ぼくの抱えている不安というもの――生きるか死ぬかという苦悩を抱いていることは、ぼく以外のだれかのものさしではかれるほど、抽象的でないわけではないのだ。
この不安や苦しみを誰かに伝えなければならないとき、それを無理やりにでも、具体的な造形物にこしらえてみせないといけない。けれど、そんな造形物は、ぼく自身のすべてを体現しているわけではない。だから、だれにも打ち明けることができないし、する気にもならなかった。
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