#永い夜が明けるまで
紫鳥コウ
1
カーテンを開けると、そびえ立つ大学寮の輪郭がうっすらとした紫色をしており、このアパートの前の道路には、冬らしいうすら寒い影が落ちていた。日の入りが早くなるこの季節は、もちろん、夜が明けるのは遅いし、今年はどうも天気にめぐまれない。このところぼくが抱き続けている感情が、ぼくの肉体を抜け出て目の前の光景にまとわりついているようにも見えてきた。部屋の電気を消した。
まだしっかりと冬支度をしていなかった。厚手のコートはクローゼットのハンガーにぶらさがっている。この一年、ほとんど家から出ることがなくなった。いや、家から出ることに、後ろめたさと恐ろしさを感じるようになっていた。
大学のキャンパスは閑古鳥がなくようになったらしい。昨年の4月は、サークルの勧誘がやかましく、新入生は律儀にもその呼びかけにこたえていたものだ。閑古鳥がなくようになったらしい――らしい、というのは、ぼく自身が大学へ行くことがまったくと言っていいほどなくなり、伝聞した情報に過ぎないからだ。
おにぎりとサンドイッチ、そして栄養ドリンクを袋にぶらさげて、ポストに投函されている荷物を脇にはさみ、玄関のドアを開けたときには、もうあたりは、冷ややかな風がときおり吹く夜になっていた。十数分しか外出していないのに、めっきり冷えてしまった身体をあたためようと、シャワーを浴びることにした。
このあとに、予定が控えている。おにぎりとサンドイッチを胃にいれて、そこに栄養ドリンクを流しこむ。身だしなみを整えて、もう四年も使っているパソコンを開いた。デスクトップ画面には、資料や書きかけの文章のファイルが、所せましと並んでいる。
流し台に置いたレジ袋にごみをいれて縛り、玄関横にあるごみ箱に入れる。そして、段ボールの上に置いた荷物を見る。少しだけ安心する。
けれど、ぼくは死と生のはざまにいるのだという、たしかな意識が、ぼくの両眼にうつるものすべてに、ほこりめいたものを見出そうとしてくる。
オンライン授業というものは、ぼくたちの指導教授には、便利なものでもあるらしかった。門限を気にしなくていいからだ。
ぼくを含めた三人の学生と、その指導教授の顔が、平面の上に並んでいる。今年入学した後輩がこの中にいるが、面と向かって会ったことは一度もない。
「荻田さんより大柄ですよ」と、同期に教えてもらったことがある。かといって、その同期もまた、彼と間柄を親しくする機会を十分に与えられていなかった。それに、同期が覚えているぼくの姿は、だいぶ前のものだろう。あのときよりぼくの全身は、すっかり痩せてしまっている。食事も睡眠も、身体が求めればそれに応じるだけだから、不規則で不健康だ。
それでも、文章はせっせと書いてはいた。何万字という論文は、どんどんと仕上がってきていた。家にばかりいるのだから、否が応でも読んでは書いて読んでは書いてを繰り返すしかない。オセロの駒を裏返して裏返して、また裏返してを繰り返すような単調なリズム。ぼくは、この一年の生活を、そのように感じていた。そして、明日も明後日も、アクセントのない日常が続いていくことだろうと確信している。
今日の朝に作り終えた資料を画面に共有し、論文の核となる部分から枝分かれした末節の進捗を報告し、ディスカッションを交わす。ぼくたちの指導教授は、この三人のなかで、ぼくのことを一番評価しているみたいだった。
けどそれは、同期がまだ論文の核となる部分が揺らいでいることに比して、ぼくの進捗がよいという理由からであって、研究そのものを称賛しているわけではないのだろう。
ぼくの研究は、十数年前にブームを終え、いまや、その名前を持ちだすだけで嫌悪感をしめすひとがいるような、思想なり哲学なりを多分に使っていたし、指導教授の彼もまた、こうした分野にあまりよい印象を抱いていないようだったから。
夜八時に始まったゼミナールは、十時過ぎまで続いた。通話を切ったあと、どっと疲労が押し寄せてきた。肩がこっているわけでも、めまいがするわけでもない。どうしても、まもなく卒業することになるのだということが、うそいつわりなく事実であると意識されてしまうのだ。
憂鬱で、不安で、苦しくてしかたがない。卒業後の進路は、まったくの不明なのだから。それは、ぼくだけではない。ぼくの同期もまた、就職先が見つからずにいた。
気持ちが多分に落ち込んだせいで、また胸が苦しくなってきた。息を吸うたびに、胸に痺れがうまれる。自然と、呼吸は乱れていく。今日2回目の発作であった。
こうなると何もできない。水道水で頓服を胃に流し込んで、ボロボロの椅子に深く腰をかけて、症状がおさまるのを待つ。治まるのには、おおよそ三十分が必要だ。目をつむりながら、小学生のときから抱えているこの持病を憎む。こいつのせいで、生きる上での選択肢の数は、大きく制約されてしまっている。
「いったい、なにができるんだろうな。なにをすればいいんだろうなあ。ぼくは、もう……もう、しかたがないのだろう。あらゆることは、もう……」
こうして悲嘆にくれるたび、ぼくは、
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