あなたの隣に蘇る

泉葵

あなたの隣に蘇る

 母によると、小さい頃は虫を分解したりして遊んでいたらしい。それを見てと言うもんだから見るしかなかったそうだ。一人での遊びだったと思っていたが、保育園に入ると苦情があり、それ以降することはなくなったという。というのも、私は友達にも見てと行っていたらしかった。けれど、母の困った顔を見るのが嫌いですぐやめたことだけは覚えている。

 そんな母ももういない。ある日、ゾンビが日本でも確認された。社会は大パニックになり、ゾンビになってしまう人は一斉に広がった。私の友達も家族も巻き込まれ、打ちひしがれた。生きる社会を失った。それから対策部隊ができたり人々の行動が変わったりしてゾンビの発生も大分落ち着いてきた。国の補償もあり、私は大学まで進むことができた。しかし心の傷は癒えなかった。だから私はこの仕事を選んだ。

 「ゾンビ殺すときに罪悪感とかないの?」

 私がこの仕事をやっていてよく聞かれることだ。答えは何にも感じない。ただそれだけ。

 人を殺すことは嫌いだ、といってもそんな経験はないけど。ゾンビは違う。あいつらはただの肉塊で、化け物で、敵だ。理性なんてこれっぽっちもないものに向ける罪悪感など生憎持ち合わせていない。確かにゾンビになる前は人間だったしゾンビになってもその面影は残っている。けどそんなこと考えてたら仕事なんてできない。ただ斬って撃って焼いて息の根を止める。こんな回答はいつからか常套句のようになっていた。

 するとたまにこんな質問が続く。

「たとえ相手が友達だったり家族だったり好きな人だったとしても?」

 私はそんなこと体験したことないから分からないけど多分殺せるよ。

 私はいつもそう答えてたし、殺せるという自信があった。しかし、現実は違った。

「やめて!こっちに来ないで!」

 ゾンビに拳銃を向け、叫んだ声は周りでゾンビが殺されていく音にかき消された。ゾンビは何も喋ってくれやしない。何を言っても無駄だと自分でも分かってるけれど、声を出さずにはいられなかった。

 周りでは仲間たちがそれぞれゾンビの処理を行っており、私もその一部を担当している。そして、既に粗方殺し終えた。もう終わりは見えているはずなのに私はその一歩が踏み出せない。

 トリガーにかけた指が震え、カチャカチャと音を鳴らす。その間にも一歩、また一歩と近づいてくる。後ずさりしながら覚悟を決められず、段々と近くなる距離に比例するように私の息は荒くなっていった。

「あっ」

 ふと視界が空を向いた。綺麗な青空だった。おなかへの衝撃で吐きそうになるのをなんとか耐えながら体を起こすと、手のひらに痛みが走った。そこでコンクリートブロックでこけたんだと分かったが、あいつは目の前にいた。

 私は銃を構え直した。震える指を抑えるように今度は両手でグリップを握った。一粒の雫が頬を伝い、落ちる。周りの喧騒に守られるように、私は彼女と静かに見つめあえているような気がしていた。

 その時、乾いた音ともに目の前のゾンビが横へ倒れていった。

「殺すのに躊躇してるようならやっぱりこの仕事辞めるべきだったんだよ。女には向いてねぇ」

 リュウジはそう吐き捨てると、すぐ私に背を向けた。助けてくれたのにお礼も言えず、私はその場にへたり込んでいた。

 自分でも顔が引きつっているのが分かった。ゾンビを殺すのが怖いのか、人を殺すのが怖いのか分からなかった。ただ私はいつものよう殺せなかった。

「やっぱり私にはこの仕事向いてないのかな、サヨ」

 横に倒れた彼女を見ながら私は溢れ出る感情の波を抑えられず、嗚咽に苦しんだ。


 曇天の空の下、私はサヨの墓石の前にいた。人でにぎわう墓地に鐘の音が鳴り響いた。

 こんなに人が多いのも全部ゾンビのせい。いつゾンビになるのか分からない恐怖におびえながらみんな生活をしている。みんな頼るものがなく、次第に人々は見えない力や安心の居場所を探し始めた。私の友達だって怪しい団体に入ってとても喜んでいた。それで幸せならいいんだろう。

「じゃあね」

 私はお墓に背を向けた。

 あの後仕事に行かなくなった。時間だけが流れる生活を続けていた。このままではだめだと分かっていた。けれど心に何か突っかかりが残ったままだった。暗闇で空を掴むようにもがいている。私はまだ立ち上がることができていなかった。

 帰ろうか、そう思っていた時後ろから私を呼ぶ声がした。

「ねぇレイナ、久しぶり。やっぱり私のこと殺せなかったね」

 私は振り返って目を見開いた。あの時確かにゾンビとなって死んだはずの彼女がそこで笑っていた。肩まで髪を伸ばし、セーラー服を着ている。胸元のピンバッチが光る。私はもう一度墓石を見たが、確かに彼女の名前が彫ってあった。

 双子なんていたっけ。それとも墓石の人は同姓同名で別の人なの。

 私がいろいろ考えを巡らせる中、彼女は口を開いた。

「レイナも死んだよ」

 彼女が指さした右隣の墓石には「菊池怜奈」の文字があった。私は自分の目を疑った。何度も見たし、ずっと見続けた。でも文字は変わらず、「菊池怜奈」の文字が見え続けた。

「でもあの時はリュウジが、仲間が助けてくれたよ」

「あの時にはもうゾンビになってた。あの人が殺したのはゾンビになった私とレイナ。あの人はレイナを助けれなかったんだよ」

 周りに人がいることなど気にしている余裕はなかった。私は自分のものと思われる墓に駆け寄った。

 墓は砂で汚れていた。墓石の土台には燃え尽きた線香のカスが小さな山を作り、左右のユリの花が元気のなさそうにしている。そこに1本だけ瓶が置かれていた。いつお供えされたのだろうか、ラベルの文字は掠れ、所々しか読めなくなっている。でも私にはわかった。仕事終わりや休みの日によく飲んでいて、同僚からはそればっかりだとからかわれたこともあった。私が大好きだったビールだ。

「いや、違う」

 落ち着きを取り戻しつつある私の声はさっきより少し控えめだった。

「じゃあそのビール瓶、あの人に投げてみてよ」

 サヨはその奥でお参りしていた男の人を指さした。どういうことか分からなかった私はビール瓶に手を伸ばした。

「大丈夫だから」

 サヨの言葉を聞き、私はビール瓶を掴み、その手に力を込めた。

 持ち上がらない。

 もう一度ビール瓶を見た。子供でも持てそうなサイズで、私が持てないはずがない。接着剤でつけられたようでビクともしない。触れる、それだけ。線香の灰の山を崩そうと叩いたが、虚しく、何かが手に触れたという不思議な感触が残っていただけだった。

 それからサヨは色々なことを教えてくれた。物は動かせないということ、まだ生きている人間には触れないこと、でも私達は触れることができるということ。そして、私は死んだということ。

 

「つまり私たちは死んだけど成仏できないままここにいるってこと?」

「そんな感じ。多分ね」

 私たちは昔よく一緒に遊んだ河川敷に来ていた。雲は晴れ、その向こうから赤い日が川を赤く染めた。

「多分って何。誰からか聞いたの?」

「いや私の予想」

「それでどうしたらいいの?お坊さんが成仏させてくれるまで待つしかないの?」

「知らなーい。だって多分そうっていう予想でしかないんだもん」

 サヨは投げやりにそういうと、草の上で仰向けになった。

「でもいいんじゃない。お腹はすかないし病気もケガもしない。ゾンビになった人とだけしか話せないけどこうやって自由だし」

 思い返せばお腹はすかないし痛みも感じない。おいしいものを食べるという幸せは減ったが、食にそれほど執着のなかった私にとってはそれほど苦ではない。眠ろうと思えば寝れるし、別に寝なくてもいい。

 彼女は寝っ転がったままこっちを向き、吹き抜ける風が髪を揺らした。

「ねぇ、ちょっと遊びに行かない?」

 彼女はニヤッとすると飛び起き、私の手を引っ張った。とても華奢で細く、きれいな手で少しだけドキッとした。手の甲から指にかけて撫でると手の中へするりと入り込み、そのまま私の手を握った。私も握り返し、引っ張られながら私も何とか立ち上がった。

 河川敷の土手は夕陽が眩しかった。

 その夜は閉店した家具屋に潜り込んでベッドで寝た。床で寝たっていいしなんなら河川敷で寝たっていい。でもまだベッドで寝ていないと落ち着かず、私の我儘で二人家具屋に居座った。セミダブルのベッドは少し狭かったが、修学旅行のようで、悪いことをして隠れているときのようでなんだか懐かしかった。

 死んでから初めての夜は中々寝付けずにいた。サヨは反対を向いて既に寝ているようで、起こしてしまうのも悪いので私は一人天井を見ていた。

 私はまだこの世界を分かっていない。確かにあの時瓶は投げられたしあの人には干渉していなかった。けれど何でもかんでも自由にできるのか。それに投げた瓶は向こうからはどう見えているのか。色々考えているうちにいつもの癖で独り言が出てきてしまいそうになった。

「レイナ、寝れない?」

 サヨが横になったままこちらを向いた。

「うん。なかなか」

 こんなに近い距離で向き合うのが恥ずかしくて私は天井を見たままでいた。

「サヨもまだ起きてたんだ」

「私もなんか寝れなくて」

 サヨの目がクシャっとなり、口角が上がった。

「そういやサヨは他の人と会ったことあるの?」

 私はふと尋ねた。

 私はサヨ以外の人と会ったことはない。見かける人すべてがまだ現実の世界でちゃんと生きている人達ばっかりで、私たちの世界にいる人はまだいない。もしいろんな人と会えれば、ここがどういう世界なのか、どうすればいいのか答えが見つかるかもしれない。サヨなら私よりも長くここにいる。サヨなら何か知っているのかもしれない。

 「会ったことはあるよ」

 悲しみが滲み出ていた。聞いちゃいけなかったんじゃないかと私も悲しくなった。

「その人とまだ会ったりしてるの?」

「いや、もう会ってないよ。というか会えない、に近いのかな」

 窓から入り込む月明りと街の光が張り詰めた空気を照らすなか、サヨは続けた。

「スマホなんてないし会った人と連絡とる手段はないから会おうと思ってももう会えないの。それにいつの間にか消えてるの」

「消えてるって、どういうこと?」

 大きな音を立てて唾を飲み込んだ。

「そのままの意味。この世界からいなくなるの。もう会えないの」

 サヨの目からぽつぽつと涙がこぼれた。サヨも涙が出て気づいたのか隠すように顔を向こうに向けた。

「もう一人は嫌なの。またいきなり人が消えていくのが怖いの」

 段々と涙が数を増していき、真っ暗な河川敷に彼女の鼻をすする音だけが響いた。

 私はなんていってあげるべきなの。私はどうすればいいの。

 するとサヨは突然歩みを止めて顔を上げ、頬にできた涙の川を拭った。

「レイナは私のそばにいてくれるよね」

「うん。もちろん」

「絶対だよ」

 朝起きると横にサヨはいなかった。せめて起こしてほしかったとぶつくさ垂れながら寝ぼけ眼をこすり上げた。窓から見える遠くの山から太陽が顔を出し、外は車の通りも多くなっていた。ひんやりとした空気が辺りを包む。

 おぼつかない足取りで家具屋を歩き回った。

「サヨー!」

 家具店に寝起きでガラガラの声が反響した。むずかゆく2回目からは少しだけ小さな、整った声になっていった。埃1つ舞っていない空気で肺を洗いながら、あちこち歩き回った。

 雑貨コーナーには前欲しかったウサギの置物があった。エントランスには日が窓から差しこんでいた。時間だけが過ぎる中、私は昨晩のことを思い出し、一抹の不安に脳が侵された。

 今なら彼女の辛さを分かるような気がした。何もできないまま一人になる自分がいる。私は耐えきれずに叫び、走るしかなかった。


 サヨは見つからなかった。何度も探した。この時ばかりは疲れない体であることが嬉しかったが、それはサヨを見つけることができなかったという悔しさと自分だけが残された空虚に食い潰された。

 空っぽになった心を持って一度あの河川敷に行った。夕日が雲の向こうに隠れ、あたりを照らしてくれない。雲が紫に染まるのがおどろおどろしい。何も解決しない現実に私はそのまま河川敷そばの橋の下で寝た。

 次の日から私は歩き回った。彼女が見つけられるかもしれないという一縷の望みを抱えて。

 ある日は晴れだった。かつて彼女と一緒に通った中高は少し寂れたようだった。グラウンドで野球をする子や体育館でバスケをする子、教室で遊ぶ子。どれもが懐かしく、私の胸を締め付けた。あれから10年が経とうとしている。あれから何も言えず、会えたのにそのままサヨはいってしまった。

 ある日は風の強い日だった。風の心地よさも感じられない。今日は風が強いねと話す人もいない。サヨはいないという現実が押し付けられた。もう一度話がしたい。誰だっていいわけじゃない。サヨともう一度だけ話がしたい。

 ある日は雨だった。雨が降って濡れることもない。このときには人間である感覚を失いそうになっていた。喋る感覚、嬉しいという感覚、幸せであるという感覚、心の詰まりが取れていく感覚を私は失った。次第に増えていく独り言と壊れていく自分自身に耐えきれなかった。

 ペチャペチャと泥を踏む足音を雨がかき消していく中、声を確かに聞いた。

「おい、レイナ?」

 私は一気に振り返った。

「リュウジ?」

 泥だらけの坂に手をつき、上半身を捻った。勢いよく投げ出された上半身についていけない足が絡まり、あっけなく地面に倒れる。それでも体を起こし、リュウジの手を両手でぎゅっと握った。私の背中に添えられた手はサヨのと違ってガッチリしていてゴツゴツしていて、頼もしかった。

 一人じゃないということは私をもとに戻していった。リュウジから私が死んだ時の話を聞いたり、逆に私がこの世界のことについてサヨみたいに喋った。

 リュウジは思ったより優しかった。仕事のときはとてもストイックで自分だけでなく周りにも厳しかった。もちろん女の私も例外じゃなかった。一緒の班であることを恨んでいたが、同時に戦闘中リュウジが背中にいるときは背後の心配がいらなかった。

 リュウジに誘われて久しぶりにゾンビを見に行った。場所はこの前行った中学校だった。校内にゾンビが紛れ込んだか校内でゾンビが発生したかであたりは大混乱だった。規制テープの向こう側は地獄のようだった。聞くのも嫌になるような声を上げる逃げ遅れたもの、それに脇目も振らず走り去っていくもの、それをよく見ずとも容赦なく銃を打つ部隊。もう限界だった。

 私はリュウジに一言告げると外に出た。体育館裏は向こうが山で、場所も狭く、静かなのを知っていた。山と学校を仕切るためのフェンスに体を預けながら、何度も呼吸した。遠くで鳴る銃声と悲鳴をかき消すように大きな音で。けれどあの時のことは脳裏に焼き付いたまま離れてくれなかった。

「どうして」

 また私は頬にしずくを垂らした。

 私は天国に行けるだろうか。サヨは天国だ。私はきっと地獄。ゾンビになった人はどっちに行くんだろうかと思う。もしゾンビになった人は全員地獄に行くとしたら地獄は既に満員だろう。そうなら私はまたサヨに会える。次こそは言うんだ。

 その時、遠くで聞いたことのある声が悲しく聞こえた。フェンスの向こうに咲く風鈴草が風に揺られた。

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あなたの隣に蘇る 泉葵 @aoi_utikuga

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