雨の日、キミと僕と

第1話

 静かなピアノの音楽。

 サックスの音が艶っぽく響いているしっとりした大人の空間。

 時々聞こえる、カランカランという氷の音。

 暗い店内は、今夜は人がまばらにいるだけだった。

「酷い雨だってことを忘れるぐらい居心地が良いよ」

「はは、ありがとうございます」

 いつきは、カウンターにいる老紳士に微笑みを返した。

 六十代後半だろうか、渋い大人の魅力が漂っている。

 まだまだ何も分からない大学生の自分と比べて、人生の荒波を乗り越えてきたであろう分厚い手。

 酸いも甘いも見てきたと思われる深い瞳。

 人間としての厚みを感じさせられるなぁと樹は感じていた。

 バーテンダーになって二ヶ月余り。

 ベストと蝶ネクタイがようやくしっくりき始めた頃だ。

 まだまだ知識も少なく、覚えることの方が圧倒的に多い時期。

 レシピブックを見ながらおぼつかない手つきでカクテルを仕上げていく。

 受ける注文ひとつひとつが新鮮で、緊張感溢れる毎日だった。

「そっちのバーテンさん、プースカフェって作れるかい?」

 少し離れたところに座っていた三十代ぐらいの男性客が、わざわざ樹に話しかけてきた。

 プースカフェ。

 比重の違う何種類ものを酒を、混ざることなく何層にも分けてひとつのグラスに入れて作るカクテルである。

 難易度が高く、新人の樹には雲の上の存在とでもいえるカクテルだ。

 それを、分かった上で樹に言ってくるなんて意地悪な客である。

 レシピブックを見たとしても出来る代物ではないのだ。

 樹はおどおどしていることを悟られないように、隣にいた伊織いおりを見た。

 伊織も同じ気持ちだったのか、樹と目が合った。

 額にじんわりと汗を感じていると、横からすっと別のバーテンダーが現れた。

「ワタクシにお任せください」

すばるさん?」

 篠原昴しのはらすばる、伊織と樹の先輩に当たる人で、このバーのメインバーテンダーのうちの一人だ。

 身体ががっちりしていて熊のようだと伊織と樹は常々言っていた。

「プースカフェはワタクシの得意なカクテルなんです。準備に少々お時間いただきますが、ご満足いただけますようお作りいたします。あ、それと、『バーテンさん』じゃなく『バーテンダー』って声かけていただけると嬉しいです」

 昴はにっこり笑いながら早口でまくし立てた。

 そこからはまるでショーの始まりだとも言わんばかりに篠原の手元に視線が吸い込まれ、客はもちろん、伊織も樹も釘付けになっていた。

 ゆっくりゆっくり順番に注ぎ込まれていくカクテル。

 ひとつのグラスの中に液体が混ざらず入ってくのは不思議としか言いようがない。

 ただ作っているだけではなく、身振り手振りがまるで手品師のそれのように、篠原は「魅せる」という技術も持っているように思える。

 まだまだ自分たちとのレベルの違いを見せつけられる出来事となってしまった。

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