5-1

 不吉な予感が胸にあった。本土にいて、《血塗れの聖女》の管理を一任されているのは彼だ。

 だがそのジュリアスに何かがあり、管理体制が変わった――ということはありえるだろうか。贄などというものが送られてきたのは、別人の意図によるものなのか。

 そうだとして、待遇が悪化するなどというならまだしも、贄が送られてくるなどというのは、それが誤ったものであるにしろ、一種の厚遇ととらえることも――。


「海にあんたの渇きを抑える効果でもあるのか?」


 揶揄まじりの声に、ヴィヴィアンは現実に引き戻された。はっと顔を向けると、砂の上にタウィーザが立っていた。その手を戒めていた鎖は既に無い。


 ヴィヴィアンはかすかに顔をしかめる。

 柔らかい砂を乱すようにして、タウィーザは距離を詰めた。


「あんたがほしいのは水なんかじゃないだろ」


 ヴィヴィアンはそれにも答えなかった。ぐっと唇を引き結んで、こみあげてきたものを耐えた。

 ――渇き。簡素な上衣からのぞく、存外太い首の、灼けた肌から芳香が漂ってくるようにさえ感じる。

 その幻想を引き剥がすように青年から顔を逸らし、また波打ち際を歩き始めた。


「さっきの鳥は連絡用か」


 背後からそんな声が聞こえる。無視されても気にも留めていないらしく、後ろからついてくる。

 ヴィヴィアンはじわりとした苛立ちを感じた。


 タウィーザをすぐ送り返すつもりとはいえ、不用意な接触は避けるべきだった。見たところ、タウィーザは侍女のアンナに横暴な態度をとったり、悪意を見せたりすることはない。それだけはましだと言えたが、ヴィヴィアンはタウィーザを極力避けるようにした。


 露骨な態度が何を意味するのかわからないでもないだろうに、タウィーザ当人はまるで意に介していない様子なのが少々恨めしい。

 仮初めとはいえ平穏な世界に土足で踏み入って、乱すようなことをしているという自覚がないのだろう。

 ふと、ヴィヴィアンは足を止めた。それから、振り向く。青白い目と目が合う。


「……あなたはなぜ贄などと称してここへ送り込まれてきたの。いままで、そんな人間は来なかったわ。あなたが《タハシュの民》の生き残りで、奴隷にされ……、でも復讐を望んでいるのではないとしたら。なぜ私のところへ送り込まれたの」


 自分は贄など必要としていない。ならばタウィーザのほうに理由があるのか、と思った。

 ――罰を与えるにしても、贄にして送り込むなどとは迂遠なやり方すぎる。


 青年の整った顔に、つかのま、静かな無表情があらわれた。そしてすぐに、冷笑に変わった。


「わからないのか? それともわからないふりをしているだけか?」


 簡単なことなのにと言わんばかりの口調に、ヴィヴィアンは息を呑む。一体何を、と問い返そうとしたとき、タウィーザが続けた。


「あんたに力をだろ。あんたは再び、便利な武器として使われようとしてるんだ」


 ――ざあ、と波が引いていく音がした。

 ヴィヴィアンは立ちすくむ。

 そんな、と否定しようとして喉が詰まった。理解と納得が、毒のように広がっていった。


 人の血を口にすれば――力は戻る。再び人でなくなる。

 ヴィヴィアンはよろめくように一歩後退する。だがその足が脆く沈む。底なし沼のような砂。


 ジュリアス。

 悲しげな顔が脳裏によぎる。


『……もういい。もう休め、ヴィヴィアン』


 そう言って、彼は、自分をここへ逃してくれた。


「あり、えないわ……戦いはもう、終わった。《タハシュの民》はもう――」


 滅びた。絶やした。だから。

 なのにその言葉は、《タハシュの民》の青年の、青白い瞳の中に吸い込まれていった。


 脳裏に、封じていた記憶が次々と浮かんだ。

 ――《タハシュの民》に急襲された王宮。

 王族たちは寸前で逃げたが、王太子をはじめ何人かの高官、宮廷人が殺された。


《タハシュの民》は、同じく山に生きていた他の民と結束し、神の柩を奪還しようとしていた。神の柩を奪うことは、有利どころか彼らの激怒を買い、それによって結束させ、強大な敵を生むことになった。

 柩は別の場所に安置されていることを、彼らは知らなかった。


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