日々のモヤモヤ発散日記
永島 弦人
演技する自分と調理される生肉
本音を言うことが年を重ねる度に減っていくのではないか、と最近よく考える。子供の頃は建前や場の空気を読むなんてことはしなかったし知らなかったから、ありのままの、身から出た言葉を口から発していた(保身のために嘘をつくことはあったかもしれない)。年齢が上がっていくにつれ、良い人や悪い人、面白い人、つまらない人など、多種多様な人を自分は見てきたつもりだ。そうしていくうちに、こう振る舞えばこう思われる、これは言ってはいけないこと、こう言ったら喜ぶだろうな、などあらゆる制約や台本が自分の中で形成されていき、それに沿った立ち振る舞い、まるで演技をしているように作られた自分をいつの間にか演じていた。ある程度の本音を交えつつ、凶暴性と暴力性を排除し、敬遠されない程度のラインを攻めるような話の仕方がもっぱらで、ありとあらゆる自分のことを曝け出す、なんてことはなくなった。
嘘や建前は料理だ。生肉は食品としてスーパーに並んでいるが、塩コショウを振ったり、火にかけないと口には出来ない。調理中も注意深く、中まで火が通っているか何度も確認して、それでようやく美味しく食べることが出来る。野菜や魚なんかもそうだ。野菜は葉の汚れを落とすまで水洗いをするし、魚は内蔵や骨を取り除く下処理をしてから食べることが出来る。本音もそれと同じで、塩コショウみたいに目分量で話を盛ったりして場を盛り上げたり、火が通っているか確認するようにほぼ初対面の人の前では何度も顔色を伺ったりする。煮たり焼いたり下処理をこれでもかとおこなって、本音は口から発せられる時には元の形が分からなくなるくらいになっている。寧ろそのままの生肉を皿に出すほうが失礼だと思う。社会に出ればそれはもっと顕著になり、もはや演技と演技で会話をするからお互いのことをよく知らない、または誤解し合っているようにも思う。でも、それが健全だ。カメラの前と普段が違う俳優の方がよっぽど人間味を感じるし、悪口陰口を言わないと宣言する自称・真人間の方が信用できない。親友や恋人、なんてものも実際は肩書きに過ぎなくて、その肩書きに拘るからこそ嫌われたくなくて本音をホイルで包んで焼いて出してみたりする。それが今や当たり前になってきてるからこそ、実際のところ本音で話すやり方を忘れてしまっているのかもしれない。
ただこうやって、文章にする時だけは自分の本心を皿にあけていることができているのかもしれない。文章は読み手がどんな風に解釈してもいい。書き手にとっても、読み手の顔が見えないから何の気を遣うこともない。つまりパッケージされた食品と同じで、キャッチコピーや写真で得たイメージから、こんな味だろうと想像するものの、実際に口にしたら不味かった、美味しかった、が有るから、発信元の僕は何の気にもとめずに世に送り出せる。食べログみたいに評価やレビューを書かれたときには、品種改良という校正をしてやるから。生産者の顔が見えるから、まだ読みやすいでしょ。
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