第5話 赤い指

 緑の指を持っている。

 初めてこのフレーズを聞いたのはいつのことだっただろうか。

 恐らく何か海外の作品だったと思うが思い出すことができない。

 最近、あまり昔のことが思い出せない。

 いや、まったく覚えていないというわけではないけれど、何か特定のことを思いだろうと意識を集中すると、得体のしれない不安がノイズのようにすぐわきを通りすぐていく。

 ただ、わざわざ思い出さなくてもわたしは植物を育てるのが下手だ。

 大人になれば大抵の場合は笑い話で済むけれど、小学生のわたしにとっては死活問題だ。

 アサガオの種の観察日記はなんとか乗り切ったが、翌年ひまわりの種を渡されたときは困惑した。なんせ、私の鉢だけ芽がでなかったのだから。仕方なく、先生が用意していた予備の鉢を育てることになったが、それもうまく育たなかった。

 別に水やりを忘れるわけではないのに、みんなと同じようにやっているはずなのに、なぜかうまくいかないのだ。


 緑の指なんて、腐っているみたいで気持ち悪い。


 なんて子供のわたしは悪態をついた。

 でも、本当はうらやましかっただけだ。

 小さな命が自分の手で育っていくのが。

 種をやわらかな土のベッドに寝かせ、水をやり世話をして、周りに生えた余分な雑草は抜き、よりよく育つように肥料をやる。

 そしてその記録をきちんと毎日残していく。

 ちゃんと生きているって感じがする。

 でも、私の手だと小学生に扱わせるくらい乱暴にしてもすくすくと育つ種であっても、それがかなわないのだ。

 悪態のひとつぐらいつかせてくれてもいいだろう。


 だから、ちょっと謎なのだ。

 ユキトさんの話だとわたしはこの村に住むことが決まったとき、ユキトさんに「畑しごとをしてみたい」とおねだりしたというのが。

 わたしが本当にそんなことをいうのだろうか。

 正直、植物を育てられる自信なんてない。

 そもそも種をまいても発芽するとも思えない。

 わたしは赤い指をもっている。

 植物を育てるのが緑の指ならば、すべて枯らしてしまうのが赤い指。

 緑の反対色だから赤い指。


 きっと、植物なんてまともに育つはずはない。


 だけれど、わたしがねだったことなので今更やりたくないとは言えない。

 たぶん、そのための道具や種や苗さまざまなものをユキトさんは十分に考えて過不足なく準備してくれている。

 やりたくないなんて言えなかった。


「いい天気でよかったね」


 ユキトさんは外にでて、にっこりとほほ笑む。

 わたしは彼の顔を覗き込み、クマができていないかチェックする。

 今朝、起きたときユキトさんはすでに目を覚ましていて会社の午前中の仕事を始めていた。

 わたしが朝食をもたもたと用意し終わるころには午前中の仕事を終わらせていたのだから、いったい何時から起きていたのだろうか。

 夫が睡眠不足になっていないか心配になる。わたしよりも十年早く生まれた彼が体を壊してしまわないか。いつか彼の方が先に逝ってしまうのは頭ではわかっている。でもそれはとてつもない時間の先だし、現実感はない。だけれど、彼が疲れていると心配でたまらない。

 つくづく昨夜わたしのわがままで起こしてしまわなくてよかった思うのと同時に、畑しごとをやりたいと言った過去の自分を恨めしく思うのだった。

 それさえなければ、わたしは食事を作るくらいでよくて、ユキトさんだってゆっくり眠れたのだから。


 ユキトさんに導かれるまま、家の裏の畑に向かう。

 前の住人が使っていた畑を使えるらしい。

 前の住人も家庭菜園をしていたからちょうどよかったらしい。

 しかも、村の人のご厚意で引っ越してすぐに作業にかかれるように、一か月ほどまえに大方の雑草を取り除き耕してくれてあるということだった。

 至れり尽くせりでうれしい反面、失敗できないというプレッシャーがのしかかってきた。

 胃が痛いし、手汗が再び噴き出してくる。


  「わたし……畑しごとなんて本当にできるかな」

 そうつぶやくと、ユキトさんはわたしの手を握る。

 そして、子供みたいにその手をあるきながら振った。

 手汗をかいているので、はずかしくて、手をほどきたかったけれどぎゅっと握られていて簡単には振り払えなかった。

「大丈夫だよ」というようにユキトさんはこちらをみてにっこりとほほ笑む。

 ああ、そうだ。

 わたしはいつもこの笑顔に助けられてきた。

 ぎゅっと握ってくれる手に救われてきた。


 そっか、大丈夫なのか。


 わたしは少しだけ自分の中に力が湧いてくるようなきがした。

 やってみよう。

 わたしひとりだけではだめかもしれないけれど、ユキトさんが一緒ならばきっと大丈夫。


「お昼ご飯はなにがいい?」


 わたしは気分を切り替えるようにユキトさんに尋ねる。


「なんでもいいよ。歩惟あいの料理が食べられるだけで幸せだから」


 ユキトさんは優しく返事をする。


 そう言ってもらえるとありがたい反面、やっぱり料理教室に通いたかったなと思う。

 料理が全くできないことはないが、上手いとかレパートリー豊富という次元には程遠いのだ。

 ただ、お米を炊いて、電子レンジのグリル用の皿を使って火を通した肉や魚のメイン、それにおひたしなどの副菜がいくつかと、味噌汁ぐらいしかできない。

 あとは、高校の家庭科で習ったものが何品かとSNSなどで見かけたものをレシピ通りに作る程度。

 誰かに自慢できるような腕前ではない。

 それに、まだまだ手際も悪くもたつくことや失敗だってある。


 ユキトさんの身体と家計にやさしく、バランスの取れた食事を手早くいつでも作れるというレベルには至っていない。

 やっぱり、料理を習いたい。ユキトさんのために。


 だけれど、その決意は畑をみたときにあっというまにもろく崩れ去った。

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