使いかけの香水

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使いかけの香水

 山林の奥。

 生い茂る木々に隔てられた陽の光は、優しい木漏れ日となって地面を照らしている。

 どこか神秘的なその光景のある道を進むと、一軒の家があった。

 古い日本家屋で、屋根には瓦が敷き詰められ、木造で出来た家屋はどこか温かみを感じさせる。

 広々とした間取りは落ち着いた空間を作り出しており、くつろぎの時間を与えてくれる家だった。

 その家の中を、一人の少年が歩いていた。

 身長は170cm程。

 育ちのいい近ごろの子供からすれば、決して高い方ではない。

 痩せた体つきをしていたが、ひ弱な印象はない。

 樹木が持つ柔らかで、温もりを感じさせるせいだろうか。どことなく大きく、根が張ったような落ち着きが感じられるのだ。

 顔立ちは整っているが、表情がない。

 無表情という訳では無い。

 顔も姿も含めて直感的なものを、あえて言葉にするなら巌、だろうか・・・・。

 四季が移り変ろうと、雲が流れようとも、霧に包まれても、雪に覆われても、動かない、動じない。

 そんな静けさと力強さを感じさせた。

 少年の名前を、天神あまがみ聖治せいじと言った。

 聖治は、自宅のポストに入っていた郵便物を仕分けると、姉の弥生やよい宛の郵便物を持って、姉の部屋へと向かっていた。

 年季が入って濃い飴色になった廊下を歩きながら、姉の部屋の前で柱を叩いて呼びかける。

「姉貴?」

 だが、返事は無かった。

 時刻は午後を下り、夕刻に近い時間帯だ。

 寝ているにしては、まだ早い。

 もう一度声をかけて、返事がないことを確認して、襖をそっと開ける。

 部屋には誰もいなかった。

 綺麗に片付けられた室内。

 部屋の隅には本棚が置かれている。

 窓際には文机が置かれていて、その上には硯箱が置かれていた。

 絵に書いたような清々しい空間に、聖治はふと笑みが溢れる。弥生の部屋に入るのは初めてではなかった。

 むしろ、子供の頃はよく出入りしていたし、今もこうして何か用事があれば勝手に入ることもあった。

 それでも、何度来てもこの空気感が好きなのだ。

 自分の部屋とはまるで違う、この澄んだ雰囲気。

 弥生らしいと言えば弥生らしいが、この家の中で一番落ち着く場所でもある。

 聖治は文机の上に郵便物を置くと、ふと化粧鏡の所に、ラグジュアリーなデザインのボトルを見つけた。

 Jimmy Chooと書いてある。

 香水だ。

 封がされていないことを考えると、使用後なのだろう。

 聖治は好奇心から

 蓋を開けると、そっと匂いを嗅いでみた。

 爽やかな香りから、ふんわりと甘いフローラルの香りへ、ラストはまるで森林浴をしているような安心できる香り。

 そして、最後に鼻腔の奥まで入り込んでくる、濃厚で官能的な甘さ。

 一瞬で虜になるほど魅力的でありながら、同時にどこか危険な香りがする。

 こんなものを女性がつけていたら、男なら誰だって振り向いてしまうに違いない。

 聖治は、ふと思う。

 姉から普段、こんなものをつけている香りを感じたことがない。

 そこで、聖治はフフッと笑った。

「姉貴も年頃だからな」

 聖治の姉である弥生は、20歳。

 世間一般ではまだまだ若い部類ではある。女性としては結婚適齢期としては早いが、適齢期になってから相手を探していては遅いというものだ。

 聖治は、そう思って納得した。

 姉の部屋を出て洗濯物を取り込み、座敷で畳んでいると、一人の女がエコバックを手にして帰ってきた。

 淡い桜色の色無地の着物を召した女性。

 色白な肌は雪のように透き通り雫が転がるように滑らかで、艶やかな黒髪は烏の濡羽色のようにしっとりとしていた。

 その黒髪セミロングをシニヨンに結い上げてお団子を作り、ゆるっとした後れ毛を耳横に垂らしている様は、なんとも色っぽい雰囲気があった。

 背丈はやや高めだが、すらりとした体型のため長身という程でもない。

 同性の者ですら魅了されそうな美貌を持つ女性の姿は、花に例えるなら百合の花のように気品と優美を持っていた。

 名前を天神弥生と言った。

「ただいま」

「お帰り、買い物に出てたんだ」

 彼女は玄関先で草履を脱ぐと、上がり口で出迎えた聖治に声をかける。

 聖治は笑顔で応えた。

 すると、弥生は嬉しそうに頬を緩める。

 弥生の表情を見て、聖治も自然と笑みを浮かべた。

「すぐに夕飯にするからね。何か食べたい物ある?」

 弥生の言葉に、聖治は首を傾げる。

 考えても特に思いつかなかったからだ。

「何でもいいよ」

 聖治が、そう言うと弥生はジト目で睨む。

 その眼は見る者を凍りつかせるような冷徹さが宿っていた。聖治は思わず、一歩後退ってしまう。

 その視線に息が詰まる。

「聖治。倦怠期の夫婦みたいなこと言わないの。そんなこと言うなら、もう作ってあげないわよ」

 弥生は冗談交じりに怒ったフリをする。

 だが、聖治の反応は違った。

 本当に困ったように、オロオロと慌てだす。

 その姿が可愛くて、思わずクスリと笑いそうになった弥生だったが、必死に耐える。

 ここで許すのは簡単だが、それでは反省が少ない。

 だから、弥生は少し意地悪をしたくなったのだ。聖治の緊張が苦痛になる前に、弥生は笑ってみせた。本気で怒っていないことを察していたのか、聖治は苦笑しながら謝る。

「ごめん。姉貴」

 素直な弟だった。

「ところで今日は、どんな食材を買ったんだ?」

 聖治は、食材から夕飯を考えようとした。

 弥生は、じゃがいも、玉ネギ、にんじん、大根、キャベツ、ネギ、豚肉と説明した。

 その材料から聖治は何ができるかと考えるが、思い浮かばない。思い浮かんでも、調味料が足らない等でできなかったら、姉の機嫌をそこねてしまう可能性を考慮する。

「じゃあ、大根でできる料理で」

 結局、聖治は答えを委ねることにした。

 聖治は昔から、姉には逆らえないので、いつも任せっきりだ。

 弥生は、うーんと悩む。

 ずぐに結論に至る。

 弥生は自分が作るメニューを決めたようだ。

「じゃあ、風呂炊き大根を作るわ」

 そう言って、弥生は台所へ向かった。

 聖治は風呂を炊き、そんなことをしていると、飯が炊ける匂いに混じって、味噌汁の匂いが漂ってくる。

 そして、風呂が炊ける頃には、夕食となっていた。

 座卓に並べられたのは、白米、豆腐とワカメの味噌汁、風呂炊き大根、カニカマとキュウリの酢の物が並んだ。

 聖治は、いただきますと言ってから箸を取る。

 まずは、味噌汁を一口。

 昆布出汁の優しい味が口の中に広がり、ホッとする。

 次に、ご飯を食べる。

 口の中に広がる甘さと柔らかさ。噛めば噛むほど旨みが増してくる。

 そして、今日のメインの風呂炊き大根を箸で割る。すると、中から湯気が溢れてきた。

 それは熱々の証拠。

 聖治は、ふぅふぅと息を吹きかけてから、味噌ダレを箸で伸ばして食べる。

 瞬間、聖治は目を丸くした。

 ホクホクとした食感。

 大根は、一緒に煮込んだ昆布の旨味があり、そこに味噌ダレがアクセントとなって、より一層美味しさを引き立てる。

 その様子を見て、弥生は嬉しそうに微笑む。

「どう?」

 訊かれて、聖治は素直な感想を言う。

「美味しいよ」

 と。

 弥生はニッコリと笑う。

 聖治は、そんな姉の視線に気づいて、照れ臭そうに笑う。

 食事を終えて、聖治が後片付けを行い、それが終わる頃には、弥生が風呂から上がって身支度を整えていた。

 そんな弥生に、お茶を出すと、弥生から香りが鼻腔をくすぐった。

 その甘い匂いは、部屋にあった、あの香水と同じものだった。

 そのことに、聖治は気づいた。

 だが、弥生は気づいていないようだった。

(ああ、やっぱり、そういうことなんだ)

 なんとなく聖治の中で合点がいった。

 だから、聖治は弥生に言った。

「姉貴。夜はいつ出るんだ?」

 と。

 すると、弥生はキョトンとした表情を浮かべた。

「あら。良く分かったわね」

 弥生は、驚いた表情を見せる。

 その様子に、聖治は呆れたようにため息をつく。

「夜に出るなら、家で食事しないで外で食事した方が良かったんじゃないか? 」

 聖治の言葉を聞いて、弥生は首を傾げる。

「ねえ。それって、どういう意味?」

 弥生の問いに、聖治は答えなかった。

 ちょっと、無粋過ぎたか。配慮のない自分に聖治は嫌気が差す。

 だが、今さら取り繕っても仕方がない。聖治は正直に話すことにした。

「いや。だから……、デートなんだろ。これから」

 聖治が言うと、弥生は頬を赤らめた。

「どうして、そう思ったの?」

 弥生は、恥ずかしげな声で聖治に問う。

 その声は、少し震えているようにも聞こえたが、聖治は気にせず答える。

 この姉弟の間で隠し事は無意味なのだ。

 だから、隠さずに聖治は、郵便物を弥生の部屋に持って行った時のことを話す。

 使いかけの香水があったことも。

 それを弥生は聞くと、クスクスと笑い出した。

 そして、弥生は楽しげに笑っていた。

 聖治は、そんな姉の姿を見て、何が可笑しいのか分からなかったが、とりあえず黙って見つめる。

 しばらくして、ようやく落ち着いたのか、弥生は口を開いた。

 聖治は、姉の口から発せられる言葉に耳を傾ける。

 その内容は、意外なものだった。

「聖治、これから私に付き合って。夜のデートと洒落込みましょう」

 と。

 聖治は、いきなりのことで困惑したが、すぐに冷静になった。

 弥生の誘いに乗っても良いと思ったからだ。

 

 ◆


 聖治と弥生の二人が、一邸の屋敷に着いたのは、午後9時を回った頃だ。

 すでに空には月が浮かび、星々が瞬いていた。

 屋敷にある大きな扉をした玄関を開ける。

 重々しい音が響く。

 開けた瞬間に鼻を突くのはカビ臭い匂い。

 二人は思わず口元を押さえてしまう。

 それは古い家独特のもの。

 二人は屋敷に入る。

 廊下を歩くとギシギシと音が鳴る。

 床が抜けるのではないかと思うくらいに。

 聖治は、姉の後ろ姿を見る。

 背筋がピンと伸びていて、綺麗な姿勢を保っている。

 黒髪が揺れて、未だに残る湯上がりと共に、香水の匂いが漂う。

 聖治はその匂いに誘われるように、ついていく。

 弥生が、この屋敷の由来を口にする。

 弥生の話によると、この屋敷に住んでいた人物は、ある資産家の娘で、結婚して、この家に嫁いできたそうだ。

 だが、彼女は、夫が亡くなった後に、病にかかり、この世を去ったらしい。

 以来、この屋敷には夜な夜な女の幽霊が出るという噂が立った。

 何人かの買い手が着くが、皆原因不明の病気で命を落としかけるか、精神を壊すかで、誰も買う者がいなくなった。

 それから、何十年と経った今もなお、未だに売れずに残っているという。

 何とかしてこの家を処分したいと、この家の主だった人物が、弥生に依頼を出したのだ。

 天神家は、古神道の行法を代々継承してきた家系であり、祓い清めることを生業としていた。

 そんな話をしているうちに、二人は目的の部屋に到着した。

 弥生は、ある部屋の前に立つと、ドアノブに手をかけて、ゆっくりと開ける。

 中に入ると、そこは書斎のような部屋だった。

 本棚があり、たくさんの本が並べられていた。

 壁一面の本棚。

 そこには隙間なく書物が並んでいる。

 本があるからだろうか、悪臭がより一層強く感じられた。

 弥生は帯と帯揚げの間から扇子を抜く。

 聖治は手にしていた鞘袋を解くと、一振りの木刀を抜く。

 ただの木刀ではない、霊木と崇められるまでに霊力を宿した桃の木を用いた桃木刀だ。


 【桃】

 古代、桃は邪気を祓う力を持つ霊木とされ、桃の木で作った弓や桃の枝で悪霊悪鬼を祓う風習があり、鬼祓いに桃弓や桃枝が用いられた

 『古事記』を参照すると、桃の実が悪霊退散に効いているくだりを確認できる。

 黄泉の国で恐ろしい姿に変わり果てた妻、イザナミの姿を見てしまったイザナギ。

 イザナミは恥をかかせたと怒り、黄泉醜女や八柱の雷神、黄泉軍よもついくさを送って来る。

 イザナギが逃げる時、最後に投げた3つの桃で、悪霊達は力を失っている。

 桃は中国では仙木とも呼ばれ、邪気を払う呪力があると考えられていた。元旦に飲む桃湯は邪気を退け、桃膠(桃の木のヤニ)から作られる仙薬は、万病に効くとされていた。

 

「ここか?」

 聖治が訊く。

「そういうこと」

 弥生は首肯した。

 弥生は、部屋の中にある窓を開け放つ。

 すると、外の新鮮な空気が流れ込んでくる。

 室内の淀んだ空気が一掃されていくのを感じる。

 弥生は、大きく深呼吸をして、気持ち良さそうな表情を浮かべた。

 だが、聖治は違った。

 まだ悪臭を感じた。

 そのことに気づかないのか、弥生は嬉しそうに言う。

「聖治。離れないで」

 聖治は、姉の様子を窺う。

 どうやら、弥生は気にしていないようだ。

 それどころか、どこかウキウキとしているようにも見える。姉弟は互いの死角をカバーするように背中合わせになる。

 弥生の香水と肌の香りに身が包まれるような感覚に陥る。聖治は、そんな姉の気配を感じながら、周囲に視線を配る。

 特に変わった様子はない。

 聖治は、周囲を見渡す。

 すると、ふと違和感を覚えた。

 あれほど良い香りを感じていたのに、いつの間にか、またあのカビ臭いが強くなっている気がする。

 弥生もそれに気づいていたようで、右手に扇子を握り、阿知女アチメの神歌を唱える。

 

 【阿知女アチメ

  皇室に伝わる神楽の曲名。その中での唱え言葉。

 本来は、神の降臨を喜び、神や精霊を招く。神聖な雰囲気を作るためと思われる一種の呪文。


「アチメオオオ 天ツチニ 来ユラカスハ サユラカスハ 神ワガモ

 古神道 静剣之行」

 弥生が唱え終わると、閉じた扇子の先端から霊気が迸ると、霊気が刀身へと変わる。

 臭気が、より一層強くなる。

 二人の視線が、ある一点に集中した。

 それは床。

 床を見ると亡者のような姿の女が、こちらを睨みつけている。

 そして、口を大きく開き、何かを叫んでいる。

 何を言っているか分からない。

 ただ、恨みの言葉だということだけは分かる。

「俺が留める」

 聖治が桃木刀を霊に突き入れるが、飴のようにまとわり付く。

 いや、まとわり付かせたか。

 弥生は、跳ねるように、その場から離れる。

 聖治は霊を床から引きずり出すように持ち上げる。飴の渦のような中で禍々しい眼をした女は吠える。

 耳の奥まで響くような金切り声を上げて、抵抗する。

 桃木刀を胸より高く持ち上げ、それには霊も伴う。

「聖治。そのまま!」

 弥生は静剣を手に、駆け寄る。

 そして、勢いのまま、横薙ぎの一閃。

 恐ろしい形相の女の首を斬り落とす。

 聖治は、女の身体を放り投げると、それを迎え撃つように桃木刀を構えて跳躍を行う。

 首無しの霊と桃木刀が交差する。

 激しい衝撃音が屋敷中に響き渡る。

 桃木刀が霊を弾くと、霊は散り散りとなって宙を舞い、消えていく。

 聖治は、床に降り立つ。

 ゆっくりと息を吐き、構えを解く。

 霊は消え失せていた。

 弥生は、扇子を一振りして、静剣を解くと、扇子を仕舞う。

 霊の消滅と共に、周囲の空気が変わっていた。

 カビ臭さが消えていく。

 

 【霊の臭い】

 霊というものは、たまに臭うことがある。

 それは定まった臭いではない。

 生ごみが腐ったような腐敗臭であったり、何かが焦げた煙の様な臭い。鎧の様な臭い、カビの様な臭い、お香の臭い、カレー粉の様な臭いもある。

 2019年、7年間空き物件だったパブを買い取りオーナーとなったエリス夫妻は、イギリス・コーズリーで念願のパブをオープンさせた。

 だが、夫妻は、ある現象に悩まされている。

 それは、ある臭いだ。

 カビのような、何日も風呂に入っていないすえた体臭のような臭いが、ふとした瞬間もわっと立ちのぼるのだという。

 そして、異臭がすると、必ず近くでポルターガイスト現象が起こる。

 それは、物が勝手に動く、誰もいない場所から声が聞こえる。グラスが動く、誰もいないトイレでカバンが何者かに引っ張られるなどだ。

 心霊現象と不快な臭いの関連は実際よくある話。

 世界各地で霊障が報告されているが、カビのような臭いや、魚の腐ったような臭い、煙のような臭い等、異臭を感じる人が非常に多いことが明らかになっている。

 人間がにおいを感じるメカニズムは、「におい物質が鼻から入ると、粘膜に溶け込み感知する」と言われている。

 癌や、血糖値をにおいで感知するアラートドッグなどもいることから、もし霊にも特有の《におい物質》があるのだとしたら、霊魂の存在が科学的に解明できる日が来るのかもしれない。


 聖治と弥生は屋敷を出ると、そこを後にした。

「一件落着ね」

 弥生は満足げに言った。

 聖治は小さくため息をつく。

「姉貴が香水を使っていたのが、霊の存在を臭気で感じるためとは思わなかったよ」

 聖治の言葉に、弥生は、扇子を取り出して広げる。それを口元に当てると、涼しげな表情で言う。

「今回の件は、特にそういう現象が強いって話があったのよ。一度目は出現箇所を探る為に使ったの。そいうことで、聖治の考えているようなことじゃないのよ」

 聖治は目を逸らすと頭を掻いた。

「……姉貴も、もう結婚だと思ったのにさ」

 言われて弥生は頬を朱に染める。取り乱しそうになる気持ちを抑えながら、反論する。

 そして、いつものクールな口調で答える。

 聖治にはそれが、どこかわざとらしく感じられた。

「な、何言ってんの? そんな訳ないじゃない。私だって結婚願望くらいあるけど……まだ早いし、そもそも相手がいないもの」

 弥生は怒ったように、そっぽを向くが聖治の方を盗み見る。

 聖治は、その視線に気づいているようで、苦笑いを浮かべた。

「……それで、もし私に良い人が居たら、聖治はどうするつもりなのかしら?」

 弥生は聖治に向き直ると、真剣なまなざしを向ける。

 聖治は少し考える。

 もしも、弥生が誰かと結婚すれば、自分は家で一人になる。

 だが、弥生の幸せを考えるなら、それが一番良いことだし、それは自然なことだ。

 弥生は、聖治の答えを待っている。

 だから、聖治は言う。

 自分の中にある素直な想いを口にするだけだから。

「嬉しいよ。姉貴が幸せになれるんだから」

 聖治は微笑む。

 その笑顔を見て、弥生の胸がチクリと痛む。そんな、あたりまえの答えは分かっていた。

 だけど、聞きたかったのだ。自分の弟はどんな反応をするだろうかと。

 聖治は、弥生の期待を裏切らなかった。

 だからこそ、心が締め付けられるように苦しい。

 一人涼しい顔をしている聖治の顔を見ていると、無性に腹が立ってくる。

 弥生は聖治の腕に抱きつくようにすがり付いた。

 姉の奇行に驚く弟に、弥生は囁きかける。

「言ったでしょ。夜のデートと洒落込みましょう。って。今晩は付き合ってもらうわよ」

 そう言って、弥生は少女のような笑みを浮かべる。

 それは、とても魅力的で、聖治の心を強く揺さぶった。

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