3 後悔という海に溺れても

「花穂」

 名前を呼ばれ、現実に戻される。

 彼の指先が髪に触れ、続いて腰を引き寄せられた。

 奏斗がボディタッチをしたがる相手は自分だけだと知った時、とても驚いたものだ。彼がそう言ったわけではないが。

「うん?」

 どうしたのと言うように見上げれば、軽く口づけられた。

「キスは好き?」

「花穂とするのは」

 彼は口が巧いなと思う。本心なのかもしれないが。

 嬉しいことばかり言う。

「なに、嫌なの?」

「ううん」


 花穂の言葉に一喜一憂する奏斗が愛しい。

 やっと手に入れたのだ。問題は山済みだが、その心がずっと欲しかった。

「花穂はあっちの方が好きなの?」

「そういうわけじゃないわ。ただ奏斗に抱かれていると幸せなの」

「ふうん」

 彼の胸に頬を寄せその心音に耳を傾ける。

 暖かなその体温に包まれて、目を閉じた。

「奏斗はあまり好きじゃないのね」

「うーん……どうかな」

「乗り気なあなたを見たことがないわ」

 ”そう?”と髪にちゅっと口づける彼。


「いつか見てみたいわね。あなたが理性を失う姿を」

 そこで奏斗は眉を寄せた。

「そんなの見て楽しい?」

 素朴な疑問なのだろうか。

「花穂は変なものばかり見たがるよね」

「変なもの?」

「ちょっと口にはしがたい」

 彼の様子を伺い、思い当たるものがあった。アレね、と思いながらクスリと笑う。


「ねえ、ちょっと出かけない?」

「今から?」

 時計を見上げた彼が”だいぶ遅い時間だよ”と口にする。

「夜景、見に行きたいの」

「んー。わかった」


 二人の出会い方にロマンチックさはなかった。

 ここまで来るのに遠回りもした。

 そして障害がまだ目の前にたくさん転がっている。


「なんで俺に運転させるの嫌なの?」

 ”安全運転だろ?”と彼。

「運転が好きなだけ」

「へえ」

 奏斗は花穂の言葉に”楽でいいけどね”と言いながら上着を羽織る。カウンターの上の小さな籠の中から車のキーを取り上げた彼は花穂の手のひらの上に落とす。

「奏斗」

「うん」

「あなたが好き、とても」

「俺も好きだよ」

 彼から手を差し出され、それを握る花穂。


──本当は違うの。

 あの頃のままでいられるような気がするから。


『俺はしたよ』

 奏斗以外と体の関係に至らなかった花穂。

 対照的に他の女性と関係を持った奏斗。

 何故あの時あんなふうに投げやりだったのか、今なら理解できそうな気がした。

 きっとそこには後悔と恨み言が詰まっている。

 彼の言葉を補足するなら、

『花穂が引きとめてくれなかったら、そうなった』

 とでも言えばいいのだろうか。


──自分の人生は自分のもの。だからどんなことだって自己責任。

 そんなこと奏斗だってわかっている。


 でも彼は望まなかったのだ。

 望まないことをせざるを得なかった。

 それは花穂が傍にいれば防げることだったのだろう。


「ねえ、奏斗はいつから好きになってくれたの?」

 夜は不思議だ。光の海は静かで、穢れから解放してくれるような錯覚すら起こす。

「さあ……」

 最近まで無自覚だったと零す彼に”らしい”と思ってしまう。

「辛いことばかりさせてしまって、ごめんね」

 小さく呟く。

「うん?」

「なんでもないわ」


 好きなら好きと言えばいい。

 愛は受け入れられることもあれば拒否されることもある。

 結果を恐れて口を噤んだところで、幸せになんてなれない。

 得られなければ、きっと辛いだろう。その時は悲しくてやりきれないかもしれない。それでも、いつか人は立ち直れるものだ。

 それよりも、心を偽り背を向ける方がずっと後悔するだろう。


 少なくとも自分は後悔ばかりしている。

 あの時、自分が素直になれたなら彼を苦しめなくて済んだのにと。


「花穂は会うなというけれど、構内でしょっちゅう会うし。そろそろ結菜とも話さないと」

「そうね」

 嵐の前触れ。そんな簡単に勝利の女神は微笑んではくれない。

 向き合うべき時が来たのだろう。

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