九
うらなり君の送別会のあるという日の朝、学校へ出たら、山嵐が突然、君せんだってはいか銀が来て、君が乱暴して困るから、どうか出るように話してくれと頼んだから、まじめに受けて、君に出てやれと話したのだが、あとから聞いてみると、あいつはわるいやつで、よく偽筆へ
おれはなんとも言わずに、山嵐の机の上にあった一銭五厘をとって、おれの
「君はいったいどこの産だ」
「おれは江戸っ子だ」
「うん、江戸っ子か、道理で負け惜しみが強いと思った」
「君はどこだ」
「僕は
「会津っぽか、強情なわけだ。きょうの送別会へ行くのかい」
「行くとも、君は?」
「おれはむろん行くんだ。古賀さんが立つ時は、浜まで見送りに行こうと思ってるくらいだ」
「送別会はおもしろいぜ、出てみたまえ。今日は大いに飲むつもりだ」
「かってに飲むがいい。おれは
「君はすぐ
「なんでもいい、送別会へ行くまえにちょっとおれのうちへお寄り、話があるから」
山嵐は約束どおりおれの下宿へ寄った。おれはこのあいだから、うらなり君の顔を見るたびに気の毒でたまらなかったが、いよいよ送別のきょうとなったら、なんだか憐れっぽくって、できることなら、おれが代わりに行ってやりたいような気がしだした。それで送別会の席上で、大いに演説でもしてその行を盛んにしてやりたいと思うのだが、おれのべらんめえ調子じゃ、とうてい物にならないから、大きな声を出す山嵐を雇って、いちばん赤シャツの
おれはまず冒頭としてマドンナ事件から説きだしたが、山嵐はむろんマドンナ事件はおれより詳しく知っている。おれが野芹川の土手の話をして、あれはばかやろうだと言ったら、山嵐が君はだれをつらまえてもばかよばわりをする。今日学校で自分のことをばかと言ったじゃないか。自分がばかなら、赤シャツはばかじゃない。自分は赤シャツの同類じゃないと主張した。それじゃ赤シャツは
それから増給事件と将来重く登用すると赤シャツが言った話をしたら山嵐はふふんと鼻から声を出して、それじゃ僕を免職する考えだなと言った。免職するつもりだって、君は免職になる気かと聞いたら、だれがなるものか、自分が免職になるなら、赤シャツもいっしょに免職させてやると大いにいばった。どうしていっしょに免職させる気かと押し返して尋ねたら、そこはまだ考えていないと答えた。山嵐は強そうだが、知恵はあまりなさそうだ。おれが増給を断わったと話したら、大将大きに喜んでさすが江戸っ子だ、えらいとほめてくれた。
うらなりが、そんなにいやがっているなら、なぜ留任の運動をしてやらなかったと聞いてみたら、うらなりから話を聞いた時は、すでにきまってしまって、校長へ二度、赤シャツへ一度行って談判してみたが、どうすることもできなかったと話した。それについても古賀があまり好人物すぎるから困る。赤シャツから話があった時、断然断わるか、一応考えてみますと逃げればいいのに、あの弁舌にごまかされて、即席に許諾したものだから、あとからおっ母さんが泣きついても、自分が談判に行っても役に立たなかったと非常に残念がった。
今度の事件はまったく赤シャツが、うらなりを遠ざけて、マドンナを手に入れる策略なんだろうとおれが言ったら、むろんそうに違いない。あいつはおとなしい顔をして、悪事を働いて、人が何か言うと、ちゃんと逃道をこしらえて待ってるんだから、よっぽど
おれはあまり感心したから、君そのくらいの腕なら、赤シャツの五人や六人は一度に張り飛ばされるだろうと聞いたら、むろんさと言いながら、曲げた腕を伸ばしたり、縮ましたりすると、力瘤がぐるりぐるりと皮のなかで回転する。すこぶる愉快だ。山嵐の証明するところによると、かんじんよりを二本より合わせて、この力瘤の出るところへ巻きつけて、うんと腕を曲げると、ぷつりと切れるそうだ。かんじんよりなら、おれにもできそうだと言ったら、できるものか、できるならやってみろときた。切れないと外聞がわるいから、おれは見合わせた。
君どうだ、今夜の送別会に大いに飲んだあと、赤シャツと野だをなぐってやらないかとおもしろ半分に勧めてみたら、山嵐はそうだなと考えていたが、今夜はまあよそうと言った。なぜと聞くと、今夜は古賀に気の毒だから──それにどうせなぐるくらいなら、あいつらのわるいところを見とどけて現場でなぐらなくっちゃ、こっちの落度になるからと、分別のありそうなことをつけたした。山嵐でもおれよりは考えがあるとみえる。
じゃ演説をして古賀君を大いにほめてやれ、おれがすると江戸っ子のペらペらになって重みがなくていけない。そうして、きまった所へ出ると、急に
そうこうするうち時間が来たから、山嵐といっしょに会場へ行く。会場は
二人が着いたころには、人数ももうたいがいそろって、五十畳の広間に二つ三つ人間の
やがて書記の川村がどうかお着席をと言うから、柱があってよりかかるのに都合のいい所へすわった。海屋の懸物の前に狸が羽織、袴で着席すると、左に赤シャツが同じく羽織袴で陣取った。右の方は今日の主人公だというのでうらなり先生、これも日本服で控えている。おれは洋服だから、かしこまるのが窮屈だったから、すぐあぐらをかいた。隣の体操教師は黒ズボンで、ちゃんとかしこまっている。体操の教師だけにいやに修業が積んでいる。やがてお
赤シャツが席に復するのを待ちかねて、山嵐がぬっと立ち上がったから、おれはうれしかったので、思わず手をぱちぱちとうった。すると狸をはじめ一同がことごとくおれの方を見たには少少困った。山嵐は何を言うかと思うとただいま校長はじめことに教頭は古賀君の転任を非常に残念がられたが、私は少々反対で古賀君が一
挨拶がすんだら、あちらでもチュー、こちらでもチュー、という音がする。おれもまねをして汁を飲んでみたがまずいもんだ。
そのうち
それから一時間ほどするうちに席上はだいぶ乱れてくる。まあ一杯、おや僕が飲めと言うのに……などとろれつの回りかねるのも一人二人できてきた。少々退屈したから便所へ行って、昔風な庭を星明かりにすかしてながめていると山嵐が来た。どうだ
「美しい顔をして人を陥れるようなハイカラ野郎は延岡におらないから……と君は言ったろう」
「うん」
「ハイカラ野郎だけでは不足だよ」
「じゃなんと言うんだ」
「ハイカラ野郎の、ペテン師の、イカサマ師の、猫っかぶりの、
「おれには、そう舌は回らない。君は能弁だ。第一単語をたいへんたくさん知ってる。それで演説ができないのは不思議だ」
「なにこれは喧嘩のときに使おうと思って、用心のために取っておく言葉さ。演説となっちゃ、こうは出ない」
「そうかな、しかしペらペら出るぜ。もう一ペんやってみたまえ」
「何べんでもやるさ、いいか。──ハイカラ野郎のペテン師の、イカサマ師の……」
と言いかけていると、椽側をどたばた言わして、二人ばかり、よろよろしながらかけだしてきた。
「両君そりゃひどい、──逃げるなんて、──僕がいるうちはけっして逃がさない、さあのみたまえ。──いかさま師?──おもしろい、いかさまおもしろい。──さあ飲みたまえ」
とおれと山嵐をぐいぐい引っ張って行く。実はこの両人とも便所に来たのだが、酔ってるもんだから、便所へはいるのを忘れて、おれらを引っ張るのだろう。酔っ払いは目のあたるところへ用事をこしらえて、まえのことはすぐ忘れてしまうんだろう。
「さあ、諸君、いかさま師を引っ張って来た。さあ飲ましてくれたまえ。いかさま師をうんと言うほど、酔わしてくれたまえ。君逃げちゃいかん」
と逃げもせぬおれを壁ぎわへ押しつけた。諸方を見回してみると、膳の上に満足な肴の乗っているのは一つもない。自分の分をきれいに食い尽くして、五、六間先へ遠征に出たやつもいる。校長はいつ帰ったか姿が見えない。
ところへお座敷はこちら? と芸者が三、四人はいってきた。おれも少し驚いたが、壁ぎわへ押しつけられているんだから、じっとしてただ見ていた。すると今まで床柱へもたれて例の
芸者が来たら座敷じゅう急に陽気になって、一同が
しばらくしたら、めいめい胴間声を出して何か
すると、いつのまにかそばへ来てすわった、野だが、鈴ちゃん会いたい人に会ったと思ったら、すぐお帰りで、お気の毒さまみたようでげすと相変わらず
向こうの方で漢学のお爺さんが歯のない口をゆがめて、そりゃ聞こえません伝兵衛さん、お前とわたしのそのなかは……とまでは無事にすましたが、それから? と芸者に聞いている。爺さんなんて物覚えのわるいものだ。一人が博物をつらまえて近ごろこないなのが、でけましたぜ、弾いてみまほうか。よう聞いて、いなはれや──
山嵐はばかに大きな声を出して、芸者、芸者と呼んで、おれが剣舞をやるから、三味線を弾けと号令を下した。芸者はあまり乱暴な声なので、あっけにとられて返事もしない。山嵐はいっさいかまわず、ステッキを待って来て、
おれはさっきから苦しそうに袴も脱がず控えているうらなり君が気の毒でたまらなかったが、なんぼ自分の送別会だって、越中褌の裸踊りまで羽織袴で我慢して見ている必要はあるまいと思ったから、そばへ行って、古賀さんもう帰りましょうと退去を勧めてみた。するとうらなり君はきょうは私の送別会だから、私が先へ帰っては失礼です、どうぞ御遠慮なくと動くけしきもない。なにかまうもんですか、送別会なら、送別会らしくするがいいです、あのざまを御覧なさい。
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