えいれいこうはきわめて意志の弱い君主である。賢と不才とを識別しえないほど愚かではないのだが、結局は苦いかんげんよりも甘いてんよろこばされてしまう。衛の国政を左右するものはそのこうきゆうであった。

 夫人なんはつとにいんぽんうわさが高い。いまだそうの公女だったころ異母兄のちようという有名な美男と通じていたが、衛侯の夫人となってからもなお宋朝を衛に呼びたいに任じてこれと醜関係を続けている。すこぶる才ばしった女で、政治向きの事にまでようかいするが、霊公はこの夫人の言葉ならうなずかぬことはない。霊公にかれようとする者はまず南子に取り入るのが例であった。

 こうからえいに入ったとき、召を受けて霊公にはえつしたが、夫人のところへは別にあいさつに出なかった。なんかんむりをまげた。さっそく人をつかわして孔子に言わしめる。四方のくんくんと兄弟たらんと欲する者は、必ずしようくん(夫人)を見る。寡小君見んことを願えりうんぬん

 孔子もやむを得ず挨拶に出た。南子は(薄いくずの垂れぎぬ)の後にあって孔子を引見する。孔子のほくめんけいしゆの礼に対し、南子が再拝してこたえると、夫人の身に着けたかんばいきゆうぜんとして鳴ったとある。

 孔子がこうきゆうから帰って来ると、子路が露骨に不愉快な顔をしていた。彼は、孔子が南子ぜいの要求などは黙殺することを望んでいたのである。まさか孔子がようにたぶらかされるとは思いはしない。しかし、絶対清浄であるはずのふうけがらわしいいんじよに頭を下げたというだけですでにおもしろくない。美玉を愛蔵する者がそのたま表面おもてに不浄なるものの影の映るのさえ避けたいたぐいなのであろう。孔子はまた、子路の中で相当敏腕な実際家と隣り合って住んでいるが、いつまでたってもいっこう老成しそうもないのを見て、おかしくもあり困りもするのである。


 一日、霊公のところから孔子へ使いが来た。車でいっしょに都を一巡しながらいろいろ話を承ろうという。孔子はよろこんで服を改めただちに出かけた。

 このたけの高いじいさんを、霊公がむやみにけんじやとして尊敬するのが、なんにはおもしろくない。自分を出し抜いて、二人同車して都をめぐるなどとはもってのほかである。

 孔子が公にえつし、さて表に出てともに車に乗ろうとすると、そこにはすでに盛装をらした南子夫人が乗り込んでいた。孔子の席がない。南子は意地の悪い微笑を含んで霊公を見る。孔子もさすがに不愉快になり、ひややかに公の様子をうかがう。霊公はめんぼくなげに目をせ、しかし南子には何事も言えない。黙って孔子のために次の車を指さす。

 二乗の車がえいの都を行く。前なる四輪のごうしやな馬車には、霊公と並んでせんけんたる南子夫人の姿がたんの花のように輝く。うしろの見すぼらしい二輪のぎつしやには、寂しげな孔子の顔がたんぜんと正面を向いている。沿道の民衆の間にはさすがにひめやかな嘆声とひんしゆくとが起こる。

 群集の間にまじってもこの様子を見た。公からの使いを受けた時のふうよろこびを目にしているだけに、はらわたの煮え返る思いがするのだ。何事かきようせいろうしながら南子が目の前を進んで行く。思わずかつとなって、彼はこぶしを固め人々を押し分けて飛び出そうとする。背後うしろから引留める者がある。振り切ろうと眼をいからせて後を向く。じやくせいの二人である。必死に子路のそでを控えている二人の眼に、涙の宿っているのを子路は見た。子路は、ようやく振り上げた拳をおろす。


 翌日、孔子らの一行は衛を去った。「我いまだ徳を好むこと色を好むがごとき者を見ざるなり。」というのが、その時の孔子の嘆声である。

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